第三章 放浪④
黒い狼型の魔物が、半透明の結界へ激突した。
轟音とともに光の膜が大きく揺れ、衝撃がアレンの両腕まで伝わってくる。
「っ……!」
野兎や魚を相手にしていた時とは、力の重さがまるで違った。
目の前にいるのは、鋭い牙と爪を持ち、人間へ明確な敵意を向ける魔物だった。
結界に阻まれた魔物は低く唸り、アレンの背後にいる三人へ赤い瞳を向ける。
もう一度体当たりを受ければ、今の結界では耐え切れない。
「森の中へ走って!」
「え?」
「早く!」
茶色い髪の少女が我に返り、傍にいた小柄な少女の手を掴んだ。
小柄な少女は恐怖で足が竦んでいるのか、引かれてもすぐには動けない。
少女はその身体を支えながら、森へ向かって走り出した。
黒髪の少年だけが、その場に立ち尽くしていた。
「レン!」
茶色い髪の少女に呼ばれ、レンと呼ばれた少年も慌てて二人を追いかける。
三人が森へ入ったことを確かめ、アレンは魔物へ視線を戻した。
ここで結界を解けば、魔物は逃げた三人を追うかもしれない。
倒すことができなくても、せめて三人から引き離す必要がある。
「こっちだ!」
アレンは結界の横から飛び出すと、足元に落ちていた石を拾い、魔物へ投げつけた。
石が額へ当たり、赤い瞳がアレンへ向けられる。
「来い!」
声が震えそうになるのを堪え、アレンは魔物を見据えた。
魔物は低く唸ると、行く手を阻む結界へ再び身体を叩きつけた。
先ほどよりも重い衝撃が両腕へ伝わり、光の膜に亀裂が走る。
もう一度は耐えられない。
アレンがそう判断した直後、魔物は地面を蹴った。
結界が砕け、飛び散った淡い光の中から、魔物が勢いのまま飛び出してくる。
アレンはすぐに踵を返し、森の奥へ向かって走り出した。
◇
背後から迫る足音は、野兎を追いかけた時とは比べものにならないほど速かった。
今度はアレンが追われる側だった。
このまま真っ直ぐ走り続ければ、すぐに追い付かれる。
アレンは後方へ手を向け、魔物の進路上へ結界を張った。
正面に現れた光の膜を見た魔物は、速度を落とすことなく横へ飛んで避ける。
アレンはその先へ、すぐに次の結界を展開した。
魔物は再び進路を変えた。
二か月前、野兎を捕らえるために逃げ道を限定した時と同じだった。
相手より速く走る必要はない。
進める場所を減らし、自分が望む方向へ動かせばいい。
ただし、今回の相手は自分より遥かに強い。
結界を張る位置や時機を一度でも誤れば、追い付かれて命を奪われる。
アレンは一枚の結界を長く維持せず、魔物が進路を変えた時点で消した。
その分の魔力を、次の結界へ回す。
右へ避ければ、その先を塞ぐ。
左へ進めば、再び右へ戻るよう結界を張る。
何度か繰り返すうちに、魔物はアレンが誘導する方向へ進み始めた。
放浪中に見つけた巨大な滝が、この先にある。
その下には、底の見えないほど深い滝壺が広がっていた。
あそこまで誘導できれば、魔物を倒せなくても追跡を止められるかもしれない。
結界を張りながら走り続けたことで、呼吸は既に乱れていた。
足も重くなり、地面を蹴るたびに膝が沈みそうになる。
背後から魔物の唸り声が近付いた。
振り返ると、振り上げられた前脚が目前まで迫っている。
アレンは咄嗟に、薄い結界を斜めに張った。
真正面から受け止めるのではなく、前脚の力を横へ逸らす。
鋭い爪が光の表面を滑り、アレンの横にある地面へ叩きつけられた。
土が大きく抉れ、小石が頬を掠める。
正面から受け止めていれば、結界ごと押し潰されていた。
アレンは振り返らず、滝の音が聞こえる方角へ走り続けた。
木々の隙間から、開けた空が見え始める。
轟々と流れ落ちる水の音も、少しずつ大きくなっていた。
滝までは、もう遠くない。
◇
森を抜けたアレンは、崖の手前で足を止めた。
目の前では、巨大な滝が轟音とともに流れ落ちている。
遥か下には白い水飛沫に覆われた滝壺が広がり、落ちたものを呑み込むように激しく渦巻いていた。
アレンが振り返ると、木々を押し退けるように魔物が姿を現した。
背後に逃げ道がないことを悟ったのか、魔物は追い詰めた獲物を見るように牙を剥く。
次の突進を正面から防ぐだけの力は残っていない。
避ける場所も、ほとんどなかった。
アレンは呼吸を整えながら、魔物と崖の位置を確かめる。
自分のすぐ後ろにあるのは、深い滝壺へ続く断崖だった。
そこへ魔物を落とすことができれば、戦わずに三人を守れる。
問題は、崖の手前で魔物が足を止める可能性があることだった。
アレンは崖の外へ片手を向けた。
何もない空中に薄い結界を張り、岩場と見分けがつかないよう表面を偽装する。
魔物から見れば、崖の先にも足場が続いているように見えるはずだった。
あとは、そこへ飛び移らせればいい。
アレンは結界の位置を確かめ、魔物へ向き直った。
「来い」
魔物の身体が僅かに沈んだ。
直後、地面を強く蹴り、一気に距離を詰めてくる。
アレンは動かなかった。
早く避ければ、魔物は崖の手前で進路を変えるかもしれない。
牙が届くと思える距離まで引き付ける。
魔物が飛びかかると同時に、アレンは横へ身体を投げ出した。
鋭い爪が、先ほどまで立っていた場所を通り過ぎる。
勢いを止められない魔物は、そのまま崖の先へ飛び出した。
偽装された結界を足場と信じ、前脚を伸ばす。
「今だ!」
アレンは結界を消した。
魔物の前脚が空を切る。
空中へ飛び出した身体には、勢いを止める手段も、戻るための足場もなかった。
「ギャウッ!?」
魔物は必死に四肢を動かしたが、触れられるものは何もない。
巨大な身体は、そのまま滝壺へ落ちていった。
悲鳴が、滝の轟音へ呑み込まれていく。
やがて滝壺から、大きな水飛沫が上がった。
アレンは崖の手前まで近付き、白く泡立つ水面を見下ろす。
魔物の姿は見えない。
先ほどまで感じていた気配も消えていた。
追ってくる様子がないことを確かめた途端、張り詰めていた力が一気に抜けた。
アレンは崖から離れ、その場へ座り込む。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が整わない。
魔力もほとんど残っていなかった。
それでも、生きている。
逃がした三人も、魔物に追われずに済んだ。
少し遅れて、その事実が胸へ届いた。
「うおおおおおお!」
森の方から、滝の音にも負けないほど大きな声が響いた。
驚いて顔を上げると、黒髪の少年が全力でこちらへ走っている。
「すげええええ!」
「うわっ!」
勢いのまま近付かれ、アレンは思わず身を引いた。
少年は滝壺を覗き込むと、すぐに目を輝かせながら振り返る。
「今の見たか!?」
「見たけど」
「すげえ!」
「僕がやったんだけど」
「すげえ!」
少年はアレンの返事をほとんど聞いていなかった。
遅れて、二人の少女も森から姿を現す。
「レン! 一人で先に行かないで!」
茶色い髪の少女が声を上げる。
「だって、すごかったんだぞ!」
「私たちも見てたから知ってる!」
レンは興奮した様子でアレンを指差した。
「兄ちゃん、強いんだな!」
「強くないよ」
「強いだろ!」
「かなり危なかったし、倒せたのかも分からない」
「滝へ落としたんだから、勝っただろ!」
「勝ったというより、追ってこられなくしただけだよ」
「それを勝ったって言うんだ!」
レンは迷いなく言い切った。
その様子を眺めていた茶色い髪の少女が、小さく息を吐く。
「助けてくれて、ありがとうございました」
少女はアレンへ向き直り、深く頭を下げた。
「私はフィナです」
続けて、隣にいる少年へ目を向ける。
「こっちはレン」
「俺は自分で言えるぞ!」
「だったら、先に名乗りなさいよ」
「あっ」
レンは今になって気付いたらしい。
「俺、レン!」
勢いよく名乗り、すぐに笑った。
その後ろでは、小柄な少女がフィナの服を掴んでいる。
長い髪の隙間から、アレンをじっと見つめていた。
目が合ったため、アレンは小さく頭を下げる。
「こんにちは」
「っ!」
小柄な少女は、すぐにフィナの後ろへ隠れた。
あまりにも素早い動きに、アレンは目を瞬く。
「ユナ」
フィナが困ったように笑い、後ろにいる少女へ声をかける。
「大丈夫だから」
ユナと呼ばれた少女は、フィナの背中から僅かに顔を出した。
アレンを見た後、今度は目が合う前に隠れてしまう。
「人見知りなの」
「そうみたいだね」
「でも、さっきからずっと見てるよ」
「聞こえてる……」
フィナの後ろから、小さな抗議が返ってきた。
アレンは思わず笑った。
誰かと話すことも。
誰かのやり取りを見て笑うことも。
二か月ぶりだった。
「そういえば!」
レンが突然、大きな声を上げる。
「兄ちゃんの名前は?」
「あ……」
アレンも自分が名乗っていなかったことを思い出す。
「アレンだよ」
「アレン?」
「うん」
「じゃあ、アレン兄!」
「どうして兄が付くの?」
「強いから!」
「関係あるかな」
「ある!」
レンの中では、既に決まったことらしい。
フィナが呆れたように息を吐く。
「レンの言うことは、あまり気にしなくていいから」
「酷くないか?」
「いつものことでしょ」
レンとフィナが言い合う後ろで、ユナが小さく笑っていた。
その表情を見て、アレンの肩から僅かに力が抜けた。
◇
「アレンは、どこから来たの?」
話が落ち着いたところで、フィナが尋ねた。
「アルベニスタ王国」
三人がそろって目を丸くする。
「遠くない?」
「たぶん、遠いと思う」
「一人で来たのか?」
レンの問いに、アレンは頷いた。
「うん」
「すげえ……」
先ほどまでとは違う驚きが、レンの顔へ浮かんでいた。
「旅をしてるの?」
フィナに尋ねられ、アレンはすぐに答えられなかった。
目的地もないまま王都を離れ、人里を探して歩き続けている。
それを旅と呼んでよいのかは分からない。
「そんな感じかな」
嘘ではなかった。
ただ、王子だったことも、帰る場所を失ったことも告げなかった。
出会ったばかりの三人へ、自分の過去を話せるとは思えなかった。
「じゃあさ!」
レンが顔を輝かせる。
「俺たちの村に来いよ!」
「え?」
「すぐ近くに村があるんだ!」
アレンは驚いて、レンが指差した方角へ目を向けた。
二か月間探し続けていた人の暮らす場所が、この近くにある。
本来なら、迷う理由などなかった。
「僕が行っても、迷惑じゃないかな」
「迷惑なわけないだろ!」
レンは即座に答えた。
「命の恩人だぞ!」
「そういう問題なのかな」
「そういう問題だ!」
フィナもレンの言葉に頷く。
「村の人たちも、きっと歓迎してくれるよ」
フィナは傾き始めた夕日へ目を向けた。
「それに、もうすぐ日も暮れるから」
今から一人で歩き続ければ、また森の中で夜を越すことになる。
人里を探していたのだから、断る理由はない。
それなのに、すぐには返事が出なかった。
二か月間、一人で生きることには少しだけ慣れた。
誰かを頼ることには、まだ慣れていなかった。
フィナの後ろから、ユナが顔を出す。
頬を赤くしながら、今度はアレンから目を逸らさなかった。
「……きて」
小さな声だった。
それだけ言うと、再びフィナの後ろへ隠れてしまう。
アレンは三人の顔を順に見た。
二か月間、誰とも話さなかった。
誰とも歩かなかった。
何かに成功しても、それを伝える相手はいなかった。
そんな自分へ、三人は当たり前のように一緒に来いと言ってくれている。
「……じゃあ」
返事をしようとした声が、僅かに詰まった。
「お世話になろうかな」
「よっしゃあ!」
レンが飛び跳ねる。
「帰ろうぜ、アレン兄!」
「やっぱり兄は付けるんだね」
「当たり前だろ!」
フィナが笑い、ユナもその後ろで小さく笑った。
◇
四人は村へ向かって歩き始めた。
先頭を進むレンは、先ほどの戦いについて何度も尋ねてくる。
その隣では、フィナが大げさになっていく説明を一つずつ訂正していた。
ユナは二人の後ろを歩きながら、ときおりアレンを振り返っている。
アレンも三人と並び、森の中を進んだ。
川の音。
木々の間を抜ける風。
地面を踏む足音。
二か月間、何度も聞いてきたものだった。
けれど今日は、自分のものではない三つの足音が重なっている。
それだけで、同じ森が少し違って見えた。
やがて木々の隙間から、細い煙が見えてくる。
夕食の支度をしているのだろう。
誰かが暮らしている証だった。
「あそこだ!」
レンが煙の立つ方角を指差す。
「滝下の村!」
アレンは木々の向こうへ見える煙を、静かに見つめた。
二か月間探し続け、ようやく辿り着こうとしている人の暮らす場所。
自分がそこにいてよいのかは、まだ分からない。
それでも今は、一人ではなかった。




