↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/33

第三章 放浪③

 腹の痛みが治まるまで、二日かかった。


 野兎の肉を口にした翌朝、アレンは起き上がることさえできなかった。


 何度も吐き気に襲われ、腹の奥を握り潰されるような痛みに耐え続けた。


 食べなければ生きられない。


 けれど、捕らえたものをそのまま口へ運べばよいわけでもない。


 そのことを、アレンは痛みとともに思い知らされた。


 川の水を少しずつ飲み、岩の陰で身体を丸める。


 空腹は消えていない。


 それでも、再び生の肉を食べることはできなかった。


 残った肉は既に異臭を放ち始めている。


 アレンはしばらく見つめた後、川から離れた場所へ穴を掘り、そこへ野兎の亡骸を埋めた。


「ごめん」


 捕らえた時と同じ言葉しか出なかった。


 命を奪った。


 それなのに、満足に食べることもできず、その多くを無駄にしてしまった。


 次は繰り返したくなかった。


 同じように奪うなら、少なくとも無駄にはしたくない。


 アレンは土をかけ終えると、ふらつきながら立ち上がった。


◇


 身体が動くようになってから、最初に探したのは火だった。


 肉をそのまま食べてはいけないことは分かった。


 けれど、火を起こす方法は知らない。


 王城では、既に灯された暖炉しか見たことがなかった。


 薪を組む者も、火を起こす者も別にいた。


 吹けば火が強くなることくらいは知っている。


 乾いたものが燃えやすいことは、書物で読んだ覚えがあった。


 アレンは枯れ草と細い枝を集め、乾いた枝を擦り合わせる。


 何度繰り返しても火はつかず、手の皮が赤くなった。


 それでも止めなかった。


 やがて、擦り合わせた部分から僅かに煙が上がる。


 アレンは消さないよう慎重に息を吹きかけ、枯れ草を重ねた。


 小さな火が灯る。


「ついた……」


 頼りなく揺れる炎へ、細い枝を一本ずつ加えていく。


 王城では当たり前にあった火を、自分の手で起こすだけで、これほど苦労するとは思わなかった。


 それでも、自分の手で起こした火は、これまでに見たどの炎とも違って見えた。


 その日は、火が消えるまで傍を離れなかった。


◇


 火を起こせるようになっても、生きることが急に楽になったわけではない。


 雨が降れば、集めた枯れ草も枝も濡れた。


 苦労して起こした火が一瞬で消え、寒さに震えながら夜を越したこともある。


 火種を残そうとして、枯れ葉を燃やし尽くした。


 太い枝へ火を移せず、何度も最初からやり直した。


 やがてアレンは、乾いた樹皮や枯れ草を見つければ、すぐに使わなくても集めるようになった。


 雨に濡れないよう布で包み、荷物の中へ入れる。


 眠る前には、燃え残った薪へ灰をかぶせた。


 翌朝まで火種が残っていた時には、最初から火を起こさずに済んだ。


 食べ物を得る方法も、少しずつ変わった。


 川へ直接手を入れても、魚には逃げられる。


 そこで、浅瀬へ小さな結界を張った。


 魚が逃げる方向を限定し、石を投げて結界の近くへ追い込む。


 野兎を捕らえた時と同じだった。


 最初は結界を張る場所が悪く、魚は簡単に脇を抜けていった。


 次は川幅を見誤り、結界を維持できなくなった。


 何度も失敗した。


 それでも、魚がどのように逃げるのかを見続けた。


 流れの速い場所ではなく、岩に囲まれた浅瀬を選ぶ。


 正面から捕まえようとせず、進む先へ手を入れる。


 初めて魚を掴んだ時、腕の中で暴れる力に驚き、危うく逃がしかけた。


「逃がさない……!」


 両手で抱えるようにして、ようやく岸へ上げた。


 今度は火がある。


 けれど、魚をどう処理すればよいのかまでは分からない。


 石で腹を開き、食べられそうにない部分を取り除いた。


 手元が狂い、肉まで大きく削ってしまう。


 焼けば表面だけが黒くなり、中は生のままだった。


 さらに火へ近づけると、今度は焦げて硬くなった。


 美味しいとは思えなかった。


 それでも、生で食べた野兎の肉とは違う。


 腹を壊すこともなかった。


 翌日も同じように魚を捕らえた。


 昨日よりも少しだけ、無駄になる部分が減った。


 焼き方も、僅かに分かるようになった。


 失敗と成功を繰り返しながら、一日ずつ生き延びた。


 眠る場所にも苦労した。


 大きな岩へ背中を預ければ、翌朝には身体中が痛んだ。


 雨が降った時には、枝葉の茂った木の下へ逃げ込んだ。


 折れた枝と葉を組み、地面には乾いた枯れ葉を重ねる。


 雨風を完全に防げるわけではなかったが、岩へもたれて夜を越していた頃よりは眠れるようになった。


 魔物を避ける方法も考えた。


 薄い膜のような結界を周囲へ広げれば、厚い結界よりも魔力の消費を抑えられる。


 何かが触れた時には、その位置から僅かな揺らぎが伝わってきた。


 アレンはその感覚を頼りに、目の届かない場所にいる獣や魔物の気配を探ることを覚えた。


 戦おうとは思わなかった。


 今の自分では勝てない。


 戦わずに済むなら、それが一番よかった。


 生きるために必要なのは、すべての敵を倒すことではない。


 危険を知り、近付かず、逃げる道を残すことだった。


◇


 そうして、二か月が過ぎた。


 川の中を泳いでいた銀色の魚が、行く手に現れた半透明の結界を前にして方向を変える。


 しかし、その先にも小さな結界が待ち構えていた。


 逃げ道を失った魚が浅瀬へ入ったところで、アレンは素早く両手を伸ばす。


「そこ」


 腕の中で魚が激しく暴れたが、今度は逃がさなかった。


 岸へ上がると、捕らえた魚を自分で編んだ草籠へ移す。


 二か月前なら、一匹の魚を捕らえるだけで一日を費やしていただろう。


 今では、魚の動きを見ながら結界を張る場所を選べるようになっていた。


 生活魔法で小さな火を起こすことも、枝葉を組んで雨を凌ぐ場所を作ることもできる。


 食べられると確かめた僅かな野草なら、見分けられるようにもなった。


 それでも、何も恐れずに一人で暮らせるほど余裕があるわけではない。


 獲物を得られない日もあれば、雨で火を失うこともある。


 大きな魔物の気配を感じれば、息を潜めて離れるしかなかった。


 靴の底はすり減り、衣服にも幾つもの傷ができている。


 アレンが覚えたのは、この場所で生き延びるために必要な最低限の方法だけだった。


 火の傍へ座り、焼いた魚を口へ運ぶ。


 少し焦げており、塩も調味料もないため、王城で食べていた料理とは比べるまでもなかった。


 それでも、自分で捕らえ、火を起こして焼いた魚は、十分に食べられるものになっていた。


「……うん」


 もう一口食べたところで、薪が小さく爆ぜた。


 周囲から聞こえてくるのは、川の流れる音と木々を揺らす風の音だけだった。


 放浪を始めた頃は、静けさを気にする余裕などなかった。


 食べ物を得ることや、雨と寒さを凌ぐこと、魔物に襲われずに朝を迎えることだけで精一杯だった。


 僅かながら生活に余裕が生まれたことで、今度は一人であることを強く感じるようになっていた。


 火を起こせなかった日も、魚を捕らえられた日も、そのことを話す相手はいない。


 王城へ戻りたいわけではなかった。


 ただ、自分が帰った時に、そこにいてもよいと言ってくれる誰かが欲しかった。


 アレンは、ふと焚き火の向こうへ目を向ける。


 そこには誰もいなかった。


 分かり切っていたことなのに、僅かな寂しさが胸に残る。


 アレンは視線を手元へ戻し、草籠に残したもう一匹の魚を見た。


「今日は二匹捕れたんだ」


 言葉にしてから、自分が誰へ話しかけたのか分からなくなった。


 返事の代わりに、火が小さく音を立てる。


「……何を言ってるんだろう」


 笑おうとしたものの、上手く笑うことはできなかった。


 結界師になったことで、すべてを失ったと思っていた。


 婚約も、王族としての立場も、帰る場所も、結界師にならなければ失わずに済んだのかもしれない。


 その疑問への答えは、今も見つかっていなかった。


 一方で、この二か月間を生き延びるために結界の力を使ってきたことも事実だった。


 魚や野兎の逃げ道を塞ぎ、薄い結界を広げて魔物の接近を探った。


 張る位置や形、使う時を変えるたびに、できることは少しずつ増えていった。


 結界は、ただ何かを阻むための壁ではなかった。


 だからといって、この力を好きになれたわけでもない。


 それでも、嫌っていた力に自分が生かされていることだけは、もう否定できなかった。


「本当に、変な力だな」


 アレンは掌の上へ、小さな結界を浮かべた。


 初めて野兎へ使った時よりも大きく、形も安定している。


 淡い光をしばらく見つめた後、アレンは掌を下ろした。


◇


 食事を終えたアレンは火の始末を済ませ、荷物を背負って歩き始めた。


 同じ場所へ長く留まれば、近くの食べ物を取り尽くしてしまう。


 魔物に居場所を覚えられる危険もあるため、人里を探しながら移動を続けていた。


 川の流れに沿って進んでいると、遠くから何かが聞こえた。


「――っ!」


 アレンは足を止め、耳を澄ませる。


 風の音か、鳥の鳴き声とも思ったが、先ほどの音が聞こえた方角へ意識を向けた。


「た、助けて!」


 今度は、はっきりと聞こえた。


 森の奥から響いた、子供の声だった。


 胸の内に嫌な予感が広がる。


 自分には、誰かを助けられるほどの力があるわけではない。


 野兎や魚を捕らえることと、魔物を相手にすることは違う。


 悲鳴のもとへ向かえば、自分まで傷つき、今度こそ命を落とすかもしれなかった。


 一瞬だけ、関わらない方がよいという考えが浮かぶ。


 しかし、再び悲鳴が聞こえた時には、アレンの身体は既に動いていた。


 声のした方角へ向かい、木々の間を駆ける。


 伸びた枝が頬を掠め、地面から張り出した根に何度も足を取られそうになった。


 それでも立ち止まらずに走り続けると、やがて木々が途切れ、開けた場所へ飛び出した。


 そこには、アレンとそう変わらない年齢に見える三人の子供がいた。


 茶色い髪の少女と黒い髪の少年が、小柄な少女を庇うように前へ立っている。


 三人の前では、黒い狼に似た魔物が鋭い牙を剥き、低い唸り声を上げていた。


 魔物が地面を蹴り、三人へ飛びかかる。


「下がって!」


 アレンは掌を前へ向けた。


 考えるよりも先に、身体の内側から引き出した魔力を結界へ変えていた。


 淡い光が三人と魔物の間へ広がる。


 二か月間、自分を生かすために使ってきた結界が、初めて誰かを守るために立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。