第三章 間話① 王都と王女
アルベニスタ王国。
アレンが王都を去ってから、数日が過ぎていた。
王城の執務室には、重い空気が漂っている。
国王は机へ積まれた報告書へ目を通し、正面に立つ騎士へ顔を上げた。
「まだ見つからないのか」
「はい」
返ってきたのは、短い言葉だけだった。
王都の城下町。
市場や宿屋。
アレンと親交のあった者たちの屋敷。
近隣の村や、王都から延びる主要な街道。
考えられる場所には、既に騎士が派遣されていた。
しかし、どの報告書にも同じ結果が記されている。
アレンの姿は確認できない。
「本当に王都にはいないのだな」
「確認できる範囲は、すべて調べております」
「王都を出たという証言は」
「城門を抜ける姿を見た者はおります。ですが、確証はありません」
国王は報告書へ視線を戻した。
アレンの王籍を剥奪した。
親子の縁も切った。
だが、国を出ろと命じたわけではない。
王都から去れとも言っていなかった。
しばらくすれば、城下町のどこかで見つかると思っていた。
親交のあった者を頼るか、王城へ戻ってくる可能性さえあると。
けれど、アレンはどこにもいなかった。
「坊ちゃんは、まだ十歳です」
ローウェンが、静かに口を開いた。
その声には、隠し切れない心配が滲んでいた。
「旅の経験も、野宿の経験もありません。そう遠くまで行けるとは思えませんが……」
言葉の続きを、誰も口にはしなかった。
遠くまで行けないのなら、なぜ見つからないのか。
森には魔物がいる。
夜になれば気温も下がる。
王城で育った十歳の子供が、一人で生き延びるための術を知っているとは思えない。
「ローウェン」
国王が低い声で呼ぶ。
「今のアレンは、もう王子ではない」
「承知しております」
ローウェンは頭を下げた。
それでも、呼び方を改めようとはしなかった。
「ですが、私にとっては変わりません。坊ちゃんは、幼い頃からお仕えしてきた大切なお方です」
「私が下した決定に、まだ異を唱えるつもりか」
「王位継承権を失われたことについて、今さら申し上げるつもりはございません」
ローウェンは顔を上げた。
「ですが、陛下のお子であったことまで消せるとは、今も思っておりません」
室内が静まり返った。
国王の手元で、報告書の端が僅かに歪む。
あの日。
王籍の剥奪だけでなく、親子の縁まで断つと決めた時も、ローウェンは最後まで反対していた。
アレンはそれを止めた。
自分のためにローウェンがこれ以上争うことを望まないと告げ、すべてを受け入れた。
そして、一人で王城を去った。
「捜索範囲を広げろ」
国王は騎士へ告げた。
「王都周辺だけではない。近隣の街道と、その先にある村も調べるのだ」
騎士は僅かに迷った。
「しかし、王籍を剥奪された者へこれ以上の人員を割けば、反発する者も出るかと」
「構わん」
国王は騎士を見据えた。
「必ず見つけろ」
「……承知しました」
騎士たちが頭を下げ、執務室を後にする。
ローウェンも続こうとしたが、扉の前で足を止めた。
「陛下」
「何だ」
「坊ちゃんが戻られた時には、どうか直接お話しください」
国王は答えなかった。
ローウェンも返事を求めず、深く頭を下げて退室する。
扉が閉じられ、室内には国王だけが残された。
窓の外には、いつもと変わらない王都が広がっている。
商人が荷物を運び、道を人々が行き交っている。
広場では、何人もの子供が声を上げながら走り回っていた。
アレンも、ほんの数日前まではこの王都にいた。
それなのに今は、どこで夜を越しているのかさえ分からない。
王として下した決定だった。
王家と国の将来を考え、必要だと判断した。
それでも、あの場で切り捨てたのは王位継承者だけではない。
まだ十歳の、自分の息子だった。
「あいつは……今、どこにいる」
問いに答える者はいなかった。
◇
アミール王国。
クローネは机へ向かい、書き終えたばかりの手紙を読み返していた。
『元気にしていますか』
『今まで送った手紙にも返事がないので、少し心配しています』
『婚約のことを、私は認めていません』
『離れていても、私の気持ちは変わりません』
一度、手を止める。
もっと書きたいことはあった。
婚約破棄に何度も反対したこと。
父や重臣たちと話し合いを続けていること。
アレンが、自分も婚約破棄へ同意したと誤解しているのではないかと不安に思っていること。
それでも、手紙へすべてを書けば、アレンを余計に苦しませるかもしれない。
迷った末、クローネは最後に一文を書き加えた。
『私は変わらないよ』
これまでにも、何度も伝えてきた言葉だった。
それでも、今のクローネには、この言葉を繰り返すことしかできなかった。
婚約が失われても。
周囲から諦めるように言われても。
アレンを大切に思う気持ちは変わっていない。
そのことだけは、必ず伝えたかった。
クローネは手紙を封筒へ入れ、宛名を書く。
『アレン・ルークロウ』
王籍を剥奪された今、王家の名まで記すことはできない。
それでも、アレンという名前は変わらない。
自分が知っている、大切な人の名前だった。
「また手紙を書いていたのか」
背後から聞こえた声に、クローネは振り返る。
机へ向かっていたアミール国王が、娘を見つめていた。
「はい」
クローネは迷わず答える。
「返事は来たのか」
「まだです」
以前なら、返事が遅れても不安にはならなかった。
アレンは真面目で、手紙へ何を書けばよいのかを考えすぎることがある。
遅くなっても、最後には必ず返してくれた。
けれど今回は、一通も返ってこない。
婚約が終わった後に送った手紙にも。
その後も書き続けている手紙にも。
何の返事もなかった。
「アレンは、今も王城にいるのでしょうか」
クローネが尋ねる。
国王は、すぐには答えなかった。
アルベニスタ王国から、王籍剥奪後のアレンについて詳しい報告は届いていない。
「そうだと思いたい」
「思いたい、ですか」
曖昧な返事に、クローネの表情が僅かに曇る。
「手紙は届いているのでしょうか」
「使者へは、確かに届けるよう命じている」
「それなら、どうして一度も返事がないのですか」
「分からない」
クローネは封筒へ視線を落とした。
届いているのなら、アレンは読んでくれているのだろうか。
自分の言葉を信じてくれているのだろうか。
それとも。
婚約破棄を受け入れ、自分もアレンを見捨てたと思っているのだろうか。
不安は消えない。
それでも、書くことをやめるつもりはなかった。
いつか返事が来るまで。
自分の言葉が、アレンへ届くまで。
「お願いします」
クローネは、室内に控えていた侍女へ封筒を差し出した。
「必ず、アレンへ届けてください」
「承知いたしました」
侍女は恭しく頭を下げ、手紙を受け取る。
クローネはその様子を見届け、執務室を後にした。
扉が閉じる。
廊下を歩く足音が遠ざかるまで、侍女はその場から動かなかった。
やがて、室内にいた側近が片手を差し出す。
「こちらを」
侍女は俯いたまま、封筒を手渡した。
側近は手紙を受け取ると、部屋の奥へ進み、鍵の掛けられた引き出しを開く。
中には、何通もの封筒が納められていた。
どれも宛名は同じだった。
『アレン・ルークロウ』
差出人も変わらない。
クローネ・アルセリア=アミール。
一通も開かれてはいない。
そして、一通もアレンへ届けられていなかった。
側近は新しい手紙を、その上へ重ねる。
「姫様も諦めが悪い」
小さく呟き、引き出しを閉じた。
小さな音とともに、クローネの言葉は再び閉じ込められた。
今日もまた。
変わらないと伝えるための言葉が、誰の目にも触れないまま積み重なる。
川辺で、その言葉を信じたいと願いながら。
それでも信じ切れずにいるアレンへ。
届くことのないまま。




