第三章 放浪②
アレンは寒さで目を覚ました。
空はまだ薄暗く、川の流れる音だけが静かに響いている。
身体を起こそうとした途端、背中や肩に鈍い痛みが走った。
硬い岩へもたれたまま眠ったせいだろう。手足も冷え切り、指先は思うように動かなかった。
王城なら、今頃は侍女が起こしに来る時間だった。
温かな寝台から身体を起こせば、廊下から朝食の匂いが漂ってくる。今日の予定を告げられ、決められた一日が始まる。
窮屈だと思っていた毎日だった。
けれど今は、起こしに来る者も、食事を用意する者もいない。
今日どこへ行くのかさえ、自分で決めなければならなかった。
ぐう、と腹が鳴る。
アレンは腹へ手を当てた。
最後に食事をしたのは、王城を出る前だった。
昨日は歩き続け、水しか口にしていない。空腹がこれほど身体を重くするものだとは思わなかった。
川辺へ膝をつき、顔を洗う。
冷たい水を飲めば、眠気と渇きだけは僅かに和らいだ。
だが、腹は満たされない。
アレンは荷物を背負い、川沿いを歩き始めた。
人里を見つけたい。
できれば食べ物も、夜を越せる場所も欲しかった。
しかし、どれだけ進んでも景色は変わらない。
川と森が続き、ときおり草原が開ける。それを越えれば、また同じような木々が待っていた。
昼が近付く頃には、足取りも重くなっていた。
王城では剣術の稽古を受けていた。体力にも多少は自信があった。
それでも、満足に眠れず、何も食べないまま歩き続けることは、決められた時間だけ身体を動かす稽古とはまるで違った。
川辺へしゃがみ込んだ時、水面で何かが跳ねた。
「あ……」
銀色の魚体が一瞬だけ姿を見せ、すぐに水の中へ消える。
食べられる。
そう思った途端、空腹が一層強くなった。
アレンは袖を捲り、川へ両手を差し入れる。
魚の姿を見つけ、素早く手を伸ばした。
指先へ触れるより早く、魚は身を翻して逃げていく。
もう一度。
今度は進む先へ手を入れたが、水しぶきが上がっただけだった。
三度目も結果は変わらない。
魚は水の中を自在に動き、アレンの手だけが虚しく川底を掻いた。
「難しいな……」
しばらく挑んだものの、一匹も捕らえられなかった。
残ったのは、濡れた袖と冷えた手だけだった。
◇
午後になっても、人里は見つからなかった。
空腹を抱えたまま歩いていると、低い木の枝に赤い実が生っているのを見つけた。
小さく、艶のある実だった。
手に取って匂いを嗅ぐ。
甘いような香りがする。
食べられそうに見えた。
今すぐ口へ入れたいほどに。
けれど、実を唇へ近付ける前に手が止まった。
毒があったら。
王城で読んだ書物には、見た目のよく似た植物でも、食べられるものと強い毒を持つものがあると書かれていた。
だが、目の前の実がどちらなのかは分からない。
食べなければ空腹は続く。
食べれば、死ぬかもしれない。
アレンは長い間、その実を見つめた。
結局、口へ運ぶことはできなかった。
実を枝の根元へ置き、再び歩き始める。
この判断が正しかったのかは分からない。
ただ、食べる勇気がなかった。
◇
日が傾き始めた頃、アレンは再び川辺の岩へ腰を下ろした。
二日目も、何も食べられなかった。
足は重く、頭もぼんやりしている。
明日も同じなら、さらに動けなくなるだろう。
そう分かっていても、どうすればよいのか分からなかった。
王城では、食事があることを疑ったことなど一度もない。
空腹を覚えても、次の食事まで待てばよかった。
けれど今は、待っていても誰も運んできてはくれない。
自分で得なければ、何も口にはできない。
「生きるって……大変なんだな」
ぽつりと漏れた声へ、返事はなかった。
アレンは膝を抱え、冷たい岩へ身体を預ける。
眠ろうとしても、空腹と寒さでなかなか目を閉じられなかった。
明日は、何かを食べなければならない。
方法が分からなくても、見つけなければならない。
それだけを何度も言い聞かせながら、二度目の夜を越えた。
◇
翌朝。
目を覚ました瞬間から、腹の奥が痛んだ。
昨日までの空腹とは違う。
身体を起こしただけで力が抜け、視界が僅かに揺れた。
川の水を飲む。
喉は潤っても、腹の痛みは消えない。
このままでは駄目だ。
今日、何かを食べなければ、明日は歩くことさえできなくなる。
アレンは重い身体を引きずるように立ち上がった。
川沿いを歩き、食べられるものを探す。
魚を捕らえる方法は分からない。
木の実や野草も、どれが安全なのか判断できない。
それでも、探すしかなかった。
しばらく進んだ時、近くの草むらが揺れた。
アレンは反射的に目を向ける。
小さな身体。
長い耳。
「……兎」
茶色い毛並みの野兎が、草を食べていた。
昨日の魚とは違う。
地面の上にいる。
これなら捕まえられるかもしれない。
息を殺し、ゆっくりと近付く。
一歩。
二歩。
三歩。
野兎の耳が動いた。
次の瞬間には、地面を蹴って走り出している。
「あっ!」
アレンも慌てて追い掛けた。
だが、追い付けない。
野兎は草の間を縫うように走り、あっという間に茂みの中へ消えた。
残ったのは、風に揺れる草だけだった。
周囲を探し回り、昼頃になってようやく別の野兎を見つけた。
同じ個体かどうかは分からない。
今度は足元から石を拾う。
近付けば逃げられる。
ならば、離れた場所から当てればいい。
狙いを定めて投げる。
石は野兎の横を通り過ぎ、地面へ落ちた。
驚いた野兎が走り出す。
アレンは再び追い掛けたが、やはり追い付けなかった。
見つける。
逃げられる。
また探す。
気付けば、半日近く同じことを繰り返していた。
それでも諦められなかった。
腹が減っていた。
何より、もう別の方法を探す力が残っていなかった。
◇
何度目かに野兎を見つけた時、アレンはすぐには追わなかった。
野兎は川辺へ下り、水を飲んでいる。
これまでも、何度か同じ場所で姿を見た。
逃げる方向にも似たところがあった。
右手の茂み。
その先にある大きな岩。
そして、川沿いの細い獣道。
完全に同じではない。
けれど、逃げ方には癖がある。
「だったら……」
アレンは足を止めたまま考える。
追い掛けても追い付けない。
石を投げても当たらない。
ならば、自分が速く走るのではなく、野兎の進む場所を変えればいい。
逃げ道を塞ぎ、行ける方角を減らせば、追い込めるかもしれない。
その時、脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
『結界師』
自分へ与えられた天啓。
人生を変えた力。
いや。
人生を壊した力。
そう思っていた。
使ったことは一度もない。
使い方を知ろうとする前に、すべてが終わった。
王族ではなくなった。
婚約もなくなった。
結界師になってから、失うことばかりだった。
だから使いたくなかった。
自分の中にそんな力があると、認めたくもなかった。
けれど。
腹の奥が再び痛む。
「生きないと……」
好き嫌いを言っている場合ではなかった。
アレンは目を閉じる。
天啓の儀の日を思い出した。
身体の内側へ意識を向ける。
何を探せばよいのかも分からない。
それでも、必死に探った。
何度も。
何度も。
やがて、掌の前に微かな光が集まった。
「……!」
片手で抱えられるほどの、小さな膜だった。
薄く、頼りなく揺れている。
それでも、確かにそこに存在していた。
結界だった。
アレンは目を見開く。
生まれて初めて見る、自分の力だった。
「生き延びてやる」
川辺の野兎を改めて視界へ入れる。
今度は追い掛けない。
待つ。
観察する。
やがて、野兎が顔を上げた。
次の瞬間、予想していた右手の茂みへ走り出す。
「そこだ」
進路の先へ結界を出す。
突然現れた光の膜に、野兎が驚いて跳ねた。
思っていたより動きが速い。
方向を変えた野兎を、アレンは慌てて追い掛ける。
しかし、結界は長く保たなかった。
光の膜が揺らぎ、すぐに霧散する。
「もう……消えた?」
額に汗が滲んでいた。
身体から力が抜け、呼吸も荒くなる。
小さな結界を一度出しただけで、思っていた以上に疲れていた。
今の身体では、あと一度使えるかどうかも分からない。
だから、次で決めるしかなかった。
アレンは逃げた野兎を目で追う。
どこへ向かう。
どこを通る。
どこへ戻る。
何度も追い掛けたからこそ分かる。
川沿いの獣道。
大きな岩の脇。
その先の茂み。
ならば。
逃げる場所ではなく、逃げたい場所を塞げばいい。
アレンは息を整えた。
野兎が再び駆け出す。
予想どおり、一直線に茂みへ向かった。
「今だ!」
進路の先へ結界を張る。
野兎が驚き、方向を変えた。
その瞬間、アレンは回り込む。
右は川。
左は岩壁。
逃げ道は一つ。
そして、その先にはアレンがいた。
野兎は足を止めた。
もう逃げられない。
一人と一匹が向かい合う。
野兎は怯えていた。
小さな身体を震わせ、今にも逃げ出そうとしている。
アレンは地面から太い枝を拾い上げた。
けれど、振り上げることができない。
目の前にいるのは、食べ物ではなかった。
呼吸をしている。
心臓が動いている。
自分を怖がっている。
それが分かってしまう。
野兎と目が合った。
逃がしてやりたいと思った。
そうすれば楽だった。
何も奪わずに済む。
何も考えずに、この場を離れられる。
けれど。
腹が鳴った。
大きな音だった。
アレンは俯く。
「……ごめん」
謝っても意味はない。
分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
「僕も……生きたいんだ」
枝を握る手へ力を込める。
そして。
静かに振り下ろした。
◇
夕暮れだった。
アレンは川辺へ座り込み、動かなくなった野兎を見つめていた。
何度も追い掛け、ようやく捕らえた。
それでも、達成感はなかった。
嬉しくもない。
ただ、身体の奥まで疲れ切っていた。
「どうやって食べるんだろう……」
本当に何も分からなかった。
刃物はない。
解体の方法も知らない。
火の起こし方さえ分からない。
それでも、空腹は待ってくれなかった。
アレンは目を逸らしそうになる自分を抑え、手探りで食べられそうな肉を口へ運んだ。
生臭い。
噛み切ることも難しく、喉が飲み込むことを拒んだ。
吐き出したくなった。
それでも、水で流し込むように飲み込む。
生きるためだった。
すべてを食べることなどできなかった。
何が食べられる部位なのかも分からず、手元には多くが残った。
奪った命を無駄にしている。
その事実が、空腹とは別の痛みとなって胸へ残った。
◇
日が沈んでいく。
川は何も変わらず流れていた。
アレンは汚れた手を水で洗いながら、掌を見つめる。
あの小さな光は、もう残っていない。
結界師。
嫌いだった力。
自分からすべてを奪ったと思っていた力。
けれど、今日、自分を生かしたのもその力だった。
「……変なの」
僅かに漏れた声は、笑いにはならなかった。
結界師が何なのかは、まだ分からない。
自分がこれからどう生きるのかも分からない。
この力を好きになれたわけでもない。
それでも。
今日、アレンは生き延びた。
野兎の命をもらい、嫌っていた結界の力を借りて、生き延びた。
その事実だけは消えなかった。
夜が深まるにつれ、腹の奥へ鈍い痛みが広がり始めた。
食べ方が正しくなかったのだろう。
けれど今のアレンには、その原因も対処の仕方も分からない。
身体を丸め、痛みが引くのを待つことしかできなかった。
三日目の夜は、冷たく、苦かった。
それでもアレンは、明日も生きなければならないと思っていた。




