第三章 放浪①
王都の城壁は、既に遠くなっていた。
夕暮れの空の下、アレンは街道の途中で足を止める。
振り返れば、かつて自分が暮らしていた王城が小さく見えた。
十年間。
物心がつくより前から、当たり前のように過ごしてきた場所だった。
窮屈だと思ったことは何度もある。
それでも、あそこには自分の部屋があった。
決まった時間になれば食事が用意され、夜になれば温かな寝床があった。
嫌なことも、苦しいこともあった。
けれど間違いなく、あの場所はアレンにとって帰る場所だった。
今はもう違う。
王族ではない。
王子でもない。
父からは、家族ではないと告げられた。
戻ったところで、自分の居場所はどこにも残されていない。
遠くに見える王城から、アレンは静かに視線を外した。
振り返っても何も変わらない。
ここまで歩いてきた道を戻れば、再び王都へ入ることはできるのかもしれない。
国を出ろとも、王都から去れとも命じられてはいない。
それでも、戻ろうとは思えなかった。
自分が王城に残れば、また誰かを困らせる。
婚約のことも、王位継承を巡って大臣たちが争ったことも、自分だけが原因ではないと分かっている。
それでも、自分がいなければ起こらなかったこともあるように思えた。
だから出てきた。
分からないまま誰かを傷つけ続けるよりは、その方がよかったのだと思いたかった。
アレンは前を向き、再び街道を歩き始めた。
行き先は決まっていない。
どこへ向かえばよいのかも、そこで何をすればよいのかも分からない。
ただ、今は立ち止まりたくなかった。
歩いていれば、自分がいてもよい場所に、いつか辿り着けるかもしれない。
何も見つからない可能性など、考えないようにした。
荷物を積んだ馬車が、乾いた車輪の音を立てながら追い越していく。
荷物を積んだ馬車が、乾いた車輪の音を立てながら追い越していく。
御者はアレンの姿を見ると、僅かに馬の速度を緩めた。
「坊主、一人か?」
不意に声を掛けられ、アレンは足を止める。
「連れが先に行っています。隣町まで急いでいるので」
咄嗟に出た嘘だった。
隣町がどこにあるのかも、ここからどれほど離れているのかも知らない。
それでも御者は、迎えがいるのだろうと考えたのか、それ以上は尋ねなかった。
「そうか。もうすぐ日が暮れる。少し急いだ方がいい」
「ありがとうございます」
アレンが頭を下げると、馬車は再び速度を上げていった。
嘘をついてまで先を急ぐ理由など、本当はどこにもない。
ただ、家族のことも、行き先のことも聞かれたくなかった。
昨日までなら、誰かが自分を見ただけで王子だと気付き、頭を下げていた。
今は違う。
街道を一人で歩く、事情の分からない子供として見られているだけだった。
◇
日が傾く頃には、街道沿いの森へ入っていた。
夕日を遮る木々の影が、道の上へ長く伸びている。
このまま進めば、いずれ次の町や村へ辿り着けるのかもしれない。
けれど、それがどれほど先にあるのかは分からなかった。
王城には各地の地図があった。
街道が主要な町や村を繋いでいることも、川の周囲に集落が作られやすいことも学んでいる。
だが、教えられたのは国土や交通を理解するための知識だった。
自分の足でどれほど歩けば、地図に記された次の場所へ着くのか。
日が沈む前に、どこまで進めるのか。
疲れた身体で野外を歩き続けることが、どれほど危険なのか。
アレンは何一つ知らなかった。
森の中へ目を向ける。
暗くなれば魔物が現れる危険も高くなる。
その程度のことは知識として覚えている。
けれど、魔物を避けながら夜を越す方法までは教えられていない。
王子だった自分に、そんな知識は必要ないと考えられていたのだろう。
これ以上進むべきか。
それとも、まだ周囲を見渡せるうちに夜を越せる場所を探すべきか。
迷いながら歩いていた時だった。
さらさらと、木々のざわめきとは異なる音が聞こえた。
アレンは足を止め、耳を澄ませる。
一定の調子で絶え間なく続く音。
風ではない。
「川……?」
音のする方角へ向かう。
街道を外れ、背丈の低い草を踏み分ける。
枝が衣服へ引っ掛かり、何度か足元の根に躓きかけた。
それでも音を頼りに進んでいくと、木々の向こうへ細い流れが見えた。
小さな川だった。
流れは穏やかで、夕暮れの光を受けた水面が淡く揺れている。
アレンは川辺へ近付き、ようやく息を吐いた。
喉が渇いていた。
歩いている間は気にしないようにしていたが、川を目にした途端、耐え難いほどの渇きを覚えた。
膝をつき、両手で水を掬う。
指の隙間から零れる水へ口を寄せた。
冷たい。
その冷たさが、熱を持っていた喉と身体へ染み渡っていく。
もう一度、水を掬う。
急いで飲み込み、三度目でようやく呼吸を整えた。
「冷たい……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
川の水が安全だという確証はなかった。
本来なら、その土地の者へ飲めるか尋ねた方がよいのだろう。
だが、ほかに水を得る方法を知らない。
知らないからと何も口にしなければ、歩き続けることさえできなくなる。
その当たり前の事実を、アレンは初めて自分の身体で理解した。
川の流れへ視線を落とす。
人も動物も、水がなければ生きられない。
川の近くには集落が作られやすい。
それは過去の講義で学んだことだった。
ならば、この流れを辿れば、どこかで人の暮らす場所へ近付けるかもしれない。
もっとも、上流と下流のどちらへ進めばよいかまでは分からなかった。
水の流れる先を見る。
木々の奥へ続いており、ここからでは何も見えない。
反対側も同じだった。
「こっちかな」
アレンは流れに沿って下る方角を選んだ。
正しいという確信はない。
けれど、行き先すら持たない今は、僅かでも可能性がある方へ進むしかなかった。
◇
川沿いを歩く。
さらさらと流れる水を見ていると、不意にクローネの顔が浮かんだ。
部屋の引き出しに残してきた手紙。
『私は変わらないよ』
何度も読み返した、見慣れた文字だった。
王都を出る前、持っていくかどうか迷った。
それでも、自分はもうクローネの許嫁でも、王族でもない。あの手紙を持っていく資格まで失ったような気がして、最後には引き出しへ戻した。
婚約は終わった。
手紙も届かなくなった。
アミール王国も婚約破棄を了承したと、父から告げられている。
それでも、クローネまで納得していたとは思いたくなかった。
何があっても信じると言ってくれた。
結界師になっても変わらないと、何度も伝えてくれた。
信じたい。
けれど、起きたことだけを見れば、信じ切ることもできなかった。
もしクローネが反対していたのなら、どうして婚約は終わったのか。
どうして手紙は届かなくなったのか。
今のアレンには、確かめる方法さえない。
「……分からないな」
声はすぐに水音へ紛れた。
答えは返ってこない。
それでも、川は止まることなく先へ流れ続けていた。
アレンも足を止めず、その流れを追った。
◇
やがて日が沈んだ。
西の空に僅かに残っていた赤みも消え、森は急速に暗くなっていく。
これ以上歩くのは危険だった。
アレンは川辺にあった大きな岩のもとへ向かう。
周囲より地面が高く、川が増水してもすぐには水が届かなそうな場所だった。
岩へ背中を預ける。
硬い感触が身体へ伝わったが、ほかに休める場所は見当たらない。
腹が減っていた。
昼から何も食べていない。
正確には、最後に食事をしたのは王城にいた時だった。
何かを探した方がよいのだろう。
森へ入れば、木の実や食べられる植物があるのかもしれない。
川には魚もいるはずだ。
そう思っても、どれが食べられるのか分からなかった。
見つけたところで、どう捕らえ、どう調理すればよいのかも知らない。
王城では、食事は決まった時間に運ばれてきた。
温かな料理が並ぶまでに、誰が食材を集め、誰が火を起こし、どのように調理していたのか。
考えたことすらなかった。
立ち上がっても、暗い森の中で安全な食べ物を探せるとは思えない。
何より、歩き続けた足には、もう力が残っていなかった。
アレンは膝を立て、身体を僅かに丸める。
夜風が衣服の隙間から入り込み、汗の引いた肌から熱を奪っていく。
空を見上げた。
木々の隙間に、知らない夜空が見える。
知らない森。
知らない川。
かつての自分なら、喜んでいただろうか。
城壁の向こうへ行きたいと願っていた。
知らない場所を歩き、まだ見たことのない景色を自分の目で確かめたいと思っていた。
外の世界は、もっと心が躍るものだと思っていた。
けれど、今いる場所に護衛はいない。
寒いと言えば上着を用意してくれる侍従も、食事を運んでくれる者もいない。
いつまで歩けば人里へ着くのかさえ、誰も教えてくれない。
自由とは、好きな場所へ行けることだと思っていた。
だが、行き先を決めるのも、そこで生きる方法を考えるのも、すべて自分でしなければならない。
外へ出ることと、外で生きることは違う。
その違いを、アレンは冷えた身体と空腹によって思い知らされていた。
川は変わらず流れている。
この先には何があるのだろう。
人の暮らす村があるのか。
それとも、何もない森がどこまでも続いているのか。
今は分からない。
分からないことばかりだった。
アレンは背負っていた荷物を抱き寄せる。
僅かな着替えと、持ち出した数冊の本。
どれも寒さを凌ぐには役に立たなかった。
それでも、何も持たずにいるよりはましだった。
明日になれば、また歩こう。
この川に沿って。
まだ知らない場所へ。
そして、今度こそ人の暮らす場所を見つけよう。
そう決めなければ、目を閉じることさえ怖かった。
アレンは膝を抱えたまま、岩へ身体を預ける。
川の水音を聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
寒さで何度も目を覚ますことになるなど、この時のアレンはまだ知らなかった。
王都を失った少年の最初の夜が、静かに始まった。




