↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/32

第三章 放浪①

 王都の城壁は、既に遠くなっていた。


 夕暮れの空の下、アレンは街道の途中で足を止める。


 振り返れば、かつて自分が暮らしていた王城が小さく見えた。


 十年間。


 物心がつくより前から、当たり前のように過ごしてきた場所だった。


 窮屈だと思ったことは何度もある。


 それでも、あそこには自分の部屋があった。


 決まった時間になれば食事が用意され、夜になれば温かな寝床があった。


 嫌なことも、苦しいこともあった。


 けれど間違いなく、あの場所はアレンにとって帰る場所だった。


 今はもう違う。


 王族ではない。

 王子でもない。


 父からは、家族ではないと告げられた。


 戻ったところで、自分の居場所はどこにも残されていない。


 遠くに見える王城から、アレンは静かに視線を外した。


 振り返っても何も変わらない。


 ここまで歩いてきた道を戻れば、再び王都へ入ることはできるのかもしれない。


 国を出ろとも、王都から去れとも命じられてはいない。


 それでも、戻ろうとは思えなかった。


 自分が王城に残れば、また誰かを困らせる。


 婚約のことも、王位継承を巡って大臣たちが争ったことも、自分だけが原因ではないと分かっている。


 それでも、自分がいなければ起こらなかったこともあるように思えた。


 だから出てきた。


 分からないまま誰かを傷つけ続けるよりは、その方がよかったのだと思いたかった。


 アレンは前を向き、再び街道を歩き始めた。


 行き先は決まっていない。


 どこへ向かえばよいのかも、そこで何をすればよいのかも分からない。


 ただ、今は立ち止まりたくなかった。


 歩いていれば、自分がいてもよい場所に、いつか辿り着けるかもしれない。


 何も見つからない可能性など、考えないようにした。


 荷物を積んだ馬車が、乾いた車輪の音を立てながら追い越していく。


 荷物を積んだ馬車が、乾いた車輪の音を立てながら追い越していく。


 御者はアレンの姿を見ると、僅かに馬の速度を緩めた。


「坊主、一人か?」


 不意に声を掛けられ、アレンは足を止める。


「連れが先に行っています。隣町まで急いでいるので」


 咄嗟に出た嘘だった。


 隣町がどこにあるのかも、ここからどれほど離れているのかも知らない。


 それでも御者は、迎えがいるのだろうと考えたのか、それ以上は尋ねなかった。


「そうか。もうすぐ日が暮れる。少し急いだ方がいい」

「ありがとうございます」


 アレンが頭を下げると、馬車は再び速度を上げていった。


 嘘をついてまで先を急ぐ理由など、本当はどこにもない。


 ただ、家族のことも、行き先のことも聞かれたくなかった。


 昨日までなら、誰かが自分を見ただけで王子だと気付き、頭を下げていた。


 今は違う。


 街道を一人で歩く、事情の分からない子供として見られているだけだった。


◇


 日が傾く頃には、街道沿いの森へ入っていた。


 夕日を遮る木々の影が、道の上へ長く伸びている。


 このまま進めば、いずれ次の町や村へ辿り着けるのかもしれない。


 けれど、それがどれほど先にあるのかは分からなかった。


 王城には各地の地図があった。


 街道が主要な町や村を繋いでいることも、川の周囲に集落が作られやすいことも学んでいる。


 だが、教えられたのは国土や交通を理解するための知識だった。


 自分の足でどれほど歩けば、地図に記された次の場所へ着くのか。


 日が沈む前に、どこまで進めるのか。


 疲れた身体で野外を歩き続けることが、どれほど危険なのか。


 アレンは何一つ知らなかった。


 森の中へ目を向ける。


 暗くなれば魔物が現れる危険も高くなる。


 その程度のことは知識として覚えている。


 けれど、魔物を避けながら夜を越す方法までは教えられていない。


 王子だった自分に、そんな知識は必要ないと考えられていたのだろう。


 これ以上進むべきか。


 それとも、まだ周囲を見渡せるうちに夜を越せる場所を探すべきか。


 迷いながら歩いていた時だった。


 さらさらと、木々のざわめきとは異なる音が聞こえた。


 アレンは足を止め、耳を澄ませる。


 一定の調子で絶え間なく続く音。


 風ではない。


「川……?」


 音のする方角へ向かう。


 街道を外れ、背丈の低い草を踏み分ける。


 枝が衣服へ引っ掛かり、何度か足元の根に躓きかけた。


 それでも音を頼りに進んでいくと、木々の向こうへ細い流れが見えた。


 小さな川だった。


 流れは穏やかで、夕暮れの光を受けた水面が淡く揺れている。


 アレンは川辺へ近付き、ようやく息を吐いた。


 喉が渇いていた。


 歩いている間は気にしないようにしていたが、川を目にした途端、耐え難いほどの渇きを覚えた。


 膝をつき、両手で水を掬う。


 指の隙間から零れる水へ口を寄せた。


 冷たい。


 その冷たさが、熱を持っていた喉と身体へ染み渡っていく。


 もう一度、水を掬う。


 急いで飲み込み、三度目でようやく呼吸を整えた。


「冷たい……」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 川の水が安全だという確証はなかった。


 本来なら、その土地の者へ飲めるか尋ねた方がよいのだろう。


 だが、ほかに水を得る方法を知らない。


 知らないからと何も口にしなければ、歩き続けることさえできなくなる。


 その当たり前の事実を、アレンは初めて自分の身体で理解した。


 川の流れへ視線を落とす。


 人も動物も、水がなければ生きられない。


 川の近くには集落が作られやすい。


 それは過去の講義で学んだことだった。


 ならば、この流れを辿れば、どこかで人の暮らす場所へ近付けるかもしれない。


 もっとも、上流と下流のどちらへ進めばよいかまでは分からなかった。


 水の流れる先を見る。


 木々の奥へ続いており、ここからでは何も見えない。


 反対側も同じだった。


「こっちかな」


 アレンは流れに沿って下る方角を選んだ。


 正しいという確信はない。


 けれど、行き先すら持たない今は、僅かでも可能性がある方へ進むしかなかった。


◇


 川沿いを歩く。


 さらさらと流れる水を見ていると、不意にクローネの顔が浮かんだ。


 部屋の引き出しに残してきた手紙。


『私は変わらないよ』


 何度も読み返した、見慣れた文字だった。


 王都を出る前、持っていくかどうか迷った。


 それでも、自分はもうクローネの許嫁でも、王族でもない。あの手紙を持っていく資格まで失ったような気がして、最後には引き出しへ戻した。


 婚約は終わった。


 手紙も届かなくなった。


 アミール王国も婚約破棄を了承したと、父から告げられている。


 それでも、クローネまで納得していたとは思いたくなかった。


 何があっても信じると言ってくれた。


 結界師になっても変わらないと、何度も伝えてくれた。


 信じたい。


 けれど、起きたことだけを見れば、信じ切ることもできなかった。


 もしクローネが反対していたのなら、どうして婚約は終わったのか。


 どうして手紙は届かなくなったのか。


 今のアレンには、確かめる方法さえない。


「……分からないな」


 声はすぐに水音へ紛れた。


 答えは返ってこない。


 それでも、川は止まることなく先へ流れ続けていた。


 アレンも足を止めず、その流れを追った。


◇


 やがて日が沈んだ。


 西の空に僅かに残っていた赤みも消え、森は急速に暗くなっていく。


 これ以上歩くのは危険だった。


 アレンは川辺にあった大きな岩のもとへ向かう。


 周囲より地面が高く、川が増水してもすぐには水が届かなそうな場所だった。


 岩へ背中を預ける。


 硬い感触が身体へ伝わったが、ほかに休める場所は見当たらない。


 腹が減っていた。


 昼から何も食べていない。


 正確には、最後に食事をしたのは王城にいた時だった。


 何かを探した方がよいのだろう。


 森へ入れば、木の実や食べられる植物があるのかもしれない。


 川には魚もいるはずだ。


 そう思っても、どれが食べられるのか分からなかった。


 見つけたところで、どう捕らえ、どう調理すればよいのかも知らない。


 王城では、食事は決まった時間に運ばれてきた。


 温かな料理が並ぶまでに、誰が食材を集め、誰が火を起こし、どのように調理していたのか。


 考えたことすらなかった。


 立ち上がっても、暗い森の中で安全な食べ物を探せるとは思えない。


 何より、歩き続けた足には、もう力が残っていなかった。


 アレンは膝を立て、身体を僅かに丸める。


 夜風が衣服の隙間から入り込み、汗の引いた肌から熱を奪っていく。


 空を見上げた。


 木々の隙間に、知らない夜空が見える。


 知らない森。

 知らない川。


 かつての自分なら、喜んでいただろうか。


 城壁の向こうへ行きたいと願っていた。


 知らない場所を歩き、まだ見たことのない景色を自分の目で確かめたいと思っていた。


 外の世界は、もっと心が躍るものだと思っていた。


 けれど、今いる場所に護衛はいない。


 寒いと言えば上着を用意してくれる侍従も、食事を運んでくれる者もいない。


 いつまで歩けば人里へ着くのかさえ、誰も教えてくれない。


 自由とは、好きな場所へ行けることだと思っていた。


 だが、行き先を決めるのも、そこで生きる方法を考えるのも、すべて自分でしなければならない。


 外へ出ることと、外で生きることは違う。


 その違いを、アレンは冷えた身体と空腹によって思い知らされていた。


 川は変わらず流れている。

 この先には何があるのだろう。

 人の暮らす村があるのか。


 それとも、何もない森がどこまでも続いているのか。


 今は分からない。

 分からないことばかりだった。


 アレンは背負っていた荷物を抱き寄せる。


 僅かな着替えと、持ち出した数冊の本。


 どれも寒さを凌ぐには役に立たなかった。


 それでも、何も持たずにいるよりはましだった。


 明日になれば、また歩こう。


 この川に沿って。


 まだ知らない場所へ。


 そして、今度こそ人の暮らす場所を見つけよう。


 そう決めなければ、目を閉じることさえ怖かった。


 アレンは膝を抱えたまま、岩へ身体を預ける。


 川の水音を聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。


 寒さで何度も目を覚ますことになるなど、この時のアレンはまだ知らなかった。


 王都を失った少年の最初の夜が、静かに始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。