第二章 崩れゆく日々 ⑥
クローネからの手紙が届かなくなり、二週間が過ぎていた。
最初は、深く考えなかった。
アミール王国では今も、魔物への対応が続いている。
国王も王妃も、第一王女であるクローネも忙しいのだろう。
明日になれば届くかもしれない。
そう思って待った。
翌日になっても、その次の日を迎えても、手紙は届かなかった。
アレンは毎朝、机の引き出しを開いた。
中には、これまで届いた手紙が日付の順に並んでいる。
一番上にあるのは、最後に届いた一通だった。
『私は変わらないよ』
何度も読み返した。
なぞるように触れ続けたことで、その一文の上だけ、紙が僅かに擦れていた。
周囲の者たちが何を言っても、クローネだけは自分を信じてくれている。
その言葉があったから、アレンは自分の選択について考え続けることができた。
手紙が届かないのは、クローネの気持ちが変わったからではない。
そう自分へ言い聞かせても、胸に生まれた不安は消えなかった。
◇
同じ頃。
アミール王城の執務室には、重い空気が流れていた。
「アルベニスタ王国から、正式な申し入れが届きました」
側近が一通の書類を机へ置く。
アミール国王は書類を手に取り、内容へ目を通した。
アレンが結界師の主職を授かったこと。
国王から剣士を選ぶよう命じられたあとも、副職を決めずにいること。
アルベニスタ王国内で、第一王位継承者としての資質を疑問視する声が強まっていること。
その影響により、両国間で結ばれた婚約を見直したいという申し入れだった。
「やはり来たか」
国王は書類を机へ戻し、静かに息を吐いた。
アルベニスタ王国内でアレンの立場が悪化していることは、以前から報告されていた。
それでも、婚約の解消まで求められるとは思いたくなかった。
「クローネ様は、決して受け入れないでしょう」
「分かっている」
許嫁となることを望んだのは、クローネ自身だった。
幼い願いから始まったとはいえ、その気持ちが今も変わっていないことを、父である国王は知っている。
婚約は二人だけの問題ではない。
王族同士の婚姻には、両国の将来が関わっている。
アミール国王は書類から目を離した。
「クローネを呼べ」
◇
「お呼びですか、お父様」
執務室へ入ってきたクローネは、父の表情を見た瞬間に何かを察した。
「座りなさい」
「アレンのことですか?」
椅子へ座るより先に尋ねる。
国王は僅かに目を伏せた。
「ああ」
「何があったのですか?」
「アルベニスタ王国から、正式な申し入れが届いた」
嫌な予感を覚えながら、クローネは父の次の言葉を待った。
「アレン殿下との婚約を見直したいとのことだ」
「見直す?」
「婚約の解消も含めて、両国で協議したいと記されている」
言葉の意味を理解するまで、僅かな時間がかかった。
「どうしてですか?」
「アレン殿下の王位継承について、アルベニスタ王国内で疑問が出ている」
「それが、私たちの婚約と何の関係があるのですか?」
「王位を継がない可能性が高い者との婚約を続けることに、反対する者がいるのだ」
「結界師だからですか?」
父は答えなかった。
「副職を決めていないから?」
「クローネ」
「それだけで?」
クローネは椅子から立ち上がった。
「アレンは何も変わっていません」
「落ち着きなさい」
「天啓の儀までは、皆が褒めていました。頭が良いと、努力家だと、将来が楽しみだと何度も言っていたでしょう?」
「分かっている」
「分かっていません!」
父へ向かって声を荒らげたのは、初めてだった。
「分かっているなら、どうして婚約をなくす話になるのですか?」
結界師になった。
副職を決めずに考えている。
その二つ以外、アレンは何も変わっていない。
それなのに、これまで積み重ねてきたものが、すべて失われたかのように扱われている。
「私は今も、アレン殿下を評価している」
国王は静かに答えた。
「一人の父親としても、お前の気持ちを理解しているつもりだ」
「なら」
「だが、王としては違う」
その声には、娘の父親ではなく、一国を背負う王としての重さがあった。
「婚約は、お前たち二人だけのものではない。両国の将来が関わっている」
「私は王女です。そのことは分かっています」
「ならば」
「分かっているから、私も自分の意思を伝えます」
クローネは両手を固く握った。
「私は嫌です」
「クローネ」
「婚約の解消など認めません」
父が何を言おうと、アルベニスタ王国が何を求めようと、この気持ちだけは譲れなかった。
「私はアレンがいいです」
幼い頃、初めて父へ願い出た時と同じ言葉だった。
当時よりも婚約の意味を深く理解した今も、答えは変わらない。
「結界師でも関係ありません。副職を決めていなくても、私の気持ちは変わりません」
「国は、それだけで動くものではない」
「私も、それだけで言っているのではありません」
アレンが何を考える人なのか。
どうして副職を簡単に決めないのか。
三年間、隣で過ごしてきたクローネは知っている。
「私は、アレンを三年間見てきました」
皆が天啓だけを見て、副職を決めたかどうかだけで判断し、これまでのアレンを忘れたとしても。
「私は忘れません」
クローネは父から目を逸らさず、はっきりと告げた。
「私はアレンを見捨てません」
話し合いは一度では終わらなかった。
クローネは何度も父へ訴えた。
婚約の解消には同意しない。
アレンへの気持ちは変わっていない。
その意思を、アルベニスタ王国へ伝えてほしい。
それでも、両国の協議はクローネの知らないところでも進められていた。
◇
数日後。
アルベニスタ王城の謁見の間へ、アレンが呼び出された。
謁見の間には、国王と重臣たちが揃っていた。
並ぶ顔を見た瞬間、今回もよい話ではないと分かった。
「来たか」
父の声に、アレンは頭を下げる。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
短い沈黙のあと、国王は告げた。
「クローネ・アルセリア=アミールとの婚約についてだ」
胸がざわつく。
「両国の協議の結果、婚約は解消されることとなった」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
「婚約は解消する」
父がもう一度告げる。
「アミール王国も、既に了承している」
了承という言葉が、胸へ深く刺さった。
両国が認めたのであれば、もう決まったことなのだ。
「クローネは……?」
気づけば尋ねていた。
「これは両国の決定だ」
「クローネも、了承したのですか?」
父はすぐには答えなかった。
「アミール国王は了承している」
答えになっていない。
クローネ本人がどう思っているのかは、何も分からなかった。
「以上だ」
話は終わった。
これ以上尋ねても、決定が覆るとは思えない。
「……承知しました」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
アレンは頭を下げ、謁見の間を退出した。
自室へ戻ったアレンは、机の引き出しを開いた。
クローネから最後に届いた手紙を取り出す。
『私は変わらないよ』
クローネは嘘をつく人ではない。
少なくとも、アレンはそう信じている。
では、どうして婚約は解消されたのか。
クローネが反対しているのなら、なぜ両国の決定として伝えられたのか。
本人の意思とは関係なく決められたのか。
それとも、婚約の解消を受け入れたのか。
手紙が届かない今、確かめることもできなかった。
何度もアレンを支えた言葉が、今は疑いを深めるものへ変わりかけている。
信じたい。
その思いは消えていない。
しかし、婚約が解消されたという現実を前に、以前と同じように信じ続けることはできなかった。
◇
「私は認めません」
同じ頃、クローネは再び父の執務室にいた。
「アレン殿下へは、既に伝えられた」
父の言葉に、クローネの呼吸が止まった。
「アレンが……知ったのですか?」
「ああ」
「私が反対していることは?」
父は何も答えなかった。
その沈黙だけで、すべてが分かった。
アレンには、婚約解消が両国の決定として伝えられた。
クローネが反対し続けていることは知らされていない。
「そんな……」
アレンは、自分も婚約の解消を受け入れたと思っているかもしれない。
最後の手紙へ書いた言葉まで、嘘だったと思われているかもしれなかった。
「私は変わっていないのに……」
クローネは拳を握った。
「手紙を書きます」
「今は控えなさい」
「どうしてですか?」
「両国間で婚約の整理が終わるまで、個人的なやり取りは新たな混乱を招く」
「混乱させたのは、大人たちでしょう!」
強く放たれた声が、執務室へ響いた。
クローネ自身も、声を荒らげたことに驚いていた。
それでも、胸の内から溢れた言葉を止めることはできなかった。
「私は、次の王になるアレンだから許嫁になりたいと言ったんじゃない!」
父が僅かに目を見開く。
「結界師でも、副職を決めていなくても、王になれなくても関係ない!」
気づけば、父へ向けるはずの敬語も失われていた。
「私が一緒にいたいのは、王子としてのアレンじゃない!」
クローネは握った拳を胸元へ引き寄せた。
「アレンだから、一緒にいたいの!」
執務室へ静寂が落ちる。
父は何も言い返さなかった。
クローネは荒くなった呼吸を整えようとしたが、胸の奥へ込み上げた感情は収まらない。
「……失礼いたしました」
震える声で謝罪すると、クローネは父の返事を待たずに執務室を出た。
自室へ戻り、机の前へ座る。
便箋を取り出したものの、すぐには何も書けなかった。
伝えたいことが多すぎて、どの言葉から書けばよいのか分からない。
それでも、今伝えなければならなかった。
『アレンへ』
『婚約の解消について、私は認めていません』
『今も、何一つ変わっていません』
『手紙が届かなくなっても、私が書くことをやめたと思わないでください』
『いつか必ず、直接伝えます』
書き終えた手紙を封筒へ入れる。
「お願いします」
クローネは侍女へ手渡した。
「必ず、アレンへ届けてください」
「承知いたしました」
侍女は頭を下げて部屋を出ていく。
クローネは窓辺へ立ち、アルベニスタ王国がある方角を見つめた。
「待っていて」
声が届かないことは分かっている。
「絶対に迎えに行くから」
侍女へ託した手紙が、アレンのもとへ届くことはなかった。
◇
婚約の解消から、さらに数日が過ぎた。
アレンへ以前のように話しかける者は、王城からほとんどいなくなっていた。
結界師。
副職未定。
婚約解消。
王位継承への疑念。
それらがすべて、アレン一人の責任であるかのように語られている。
その日。
アレンは国王と重臣たちが集まる会議へ呼ばれた。
扉の前へ着いた時、中から聞き慣れた声が響いてくる。
「私は反対です」
ローウェン・クロフォード。
アレンが幼い頃から「爺」と呼んで慕ってきた大臣だった。
「殿下はまだ十歳です。主職について知る時間も、生涯変えられない副職を選ぶ時間も、十分に与えられておりません」
「十分な時間は与えた」
父の声が返る。
「坊ちゃんは、王命へ逆らおうとしているのではありません。ご自身が納得できる答えを選ぼうとしているだけです」
「その間にも、王家は決断を求められている」
「だからといって、王籍まで奪う必要はないでしょう!」
ローウェンの声が荒くなる。
「継承権を失わせるだけで十分です。陛下のお子であることまで否定する必要はありません!」
アレンは扉を開いた。
会議室にいた者たちの視線が、一斉に集まる。
「坊ちゃん……」
ローウェンの声が掠れた。
アレンは室内へ入り、ローウェンの前で足を止める。
「ありがとう、爺」
「いいえ。まだ決定したわけではございません。私が必ず」
「もういいんだ」
アレンは穏やかに言葉を遮った。
「僕のために怒ってくれたことは嬉しい。最後まで信じてくれていることも分かった」
「でしたら」
「でも、僕は爺がこれ以上、僕のためにこの国の人たちと争うことを望まない」
ローウェンは口を閉じた。
納得したわけではないことは、強く握られた拳を見れば分かる。
「最後まで味方でいてくれた。それだけで十分だよ」
「坊ちゃん……」
アレンはローウェンから父へ視線を移した。
「僕の王籍を剥奪するという話は、事実ですか?」
「事実だ」
父は迷わず答えた。
「理由を教えてください」
「お前には、剣士を選ぶよう命じた。そのための資料と教師を与え、考える時間も設けた」
「僕には、まだ時間が必要でした」
「国は、お前一人の答えを待ち続けることはできぬ」
父の声は静かだった。
「既に、お前の決断力を疑う声が国内外から上がっている。婚約も失われ、王位を継ぐ者としてお前を支え続けることは、王家にとっても難しくなった」
「だから、僕から王位継承権を奪うのですか?」
「それだけでは終わらぬ」
父はアレンから目を逸らさなかった。
「お前が王家に残る限り、お前を次の王へ望む者も残る。第一王子だったお前を担ぎ、王位を巡る争いを起こそうとする者が現れるだろう」
「僕にそのつもりがなくてもですか?」
「関係ない。王家の血と、第一王子であった過去だけで利用する理由になる」
理屈は分かった。
自分が王を望まなくても、自分の名前を使う者が現れるかもしれない。
国王となる父が、それを見過ごせないことも理解できる。
それでも、納得できるはずはなかった。
「だから、僕を王家から外すのですか?」
「ああ」
父の返答は短かった。
「もう一つだけ、確認させてください」
「何だ」
「僕は、もう父上の子供でもないのですか?」
会議室へ沈黙が落ちる。
父はすぐには答えなかった。
「王家から完全に切り離すとは、そういうことだ」
「……そうですか」
「今後、お前を私の息子として扱うことはない」
王族ではない。
王子でもない。
父の子供でもない。
アレンは拳を握った。
「異論はあるか」
アレンはローウェンを見た。
ローウェンの拳も、アレンと同じように震えている。
「ありません」
「坊ちゃん!」
「ありがとう、爺」
もう一度、感謝を伝える。
「最後まで僕を信じてくれて、本当にありがとう」
ローウェンは何も答えられなかった。
アレンは父へ向き直り、深く頭を下げる。
「今まで育てていただき、ありがとうございました」
最後くらいは、教えられてきた礼儀を守ろうと思った。
「本当に、お世話になりました」
顔を上げる。
父は俯いていた。
一瞬だけ、その肩が震えたように見えた。
だがそれを、確かめる勇気はなかった。
◇
自室へ戻り、最低限の荷物をまとめた。
着替え。
外の国について記された本。
僅かな金銭。
机の引き出しを開くと、クローネから届いた手紙が日付の順に並んでいる。
一番上にある手紙を手に取った。
『私は変わらないよ』
その言葉は、今日までアレンを支えてくれた。
持っていきたいと思った。
これから先も、その言葉へ縋りたかった。
同時に、婚約が解消されても届かなかった手紙を抱え続ければ、クローネの本当の気持ちを考え続けてしまう。
アレンは手紙を元の場所へ戻した。
引き出しを閉じ、荷袋を背負う。
◇
国を出ろとは言われていない。
王都へ残ることもできる。
それでも、この場所にはもういられなかった。
自分が王都にいれば、再び誰かが名前を利用するかもしれない。
ローウェンも、これから先まで自分を守ろうとして、ほかの大臣たちと争うかもしれない。
ここを離れれば、少なくともそれだけは避けられる。
◇
夕暮れ。
アレンは王城の門へ向かった。
廊下ですれ違う者たちは、誰も声をかけなかった。
引き止められることもない。
門の前で、一度だけ足を止める。
十年間を過ごした場所だった。
窮屈だと思っていた。
いつか外へ出たいと願っていた。
それでも、ここが自分の家だったことまで否定することはできなかった。
「……さようなら」
返事はなかった。
アレンは王城へ背を向ける。
振り返れば、歩けなくなる気がした。
王都の外へ。
まだ知らない世界へ。
かつて憧れていた自由は、帰る場所を失うことと引き換えに、アレンの手へ渡された。
それを自由だと喜ぶことはできなかった。
行き先は決まっていない。
待っている人もいない。
これから何をすればよいのかさえ分からなかった。
アレンは一人、夕暮れの街道へ歩き出した。
こうして、居場所を失った少年の放浪が始まった。




