第二章 崩れゆく日々 ⑤
クローネがアミール王国へ帰ってから、数週間が過ぎた。
庭園には、今日も鳥が来ていた。
枝から枝へ飛び移り、やがて城壁の向こうへ飛び去っていく。
風も空も、庭園に咲く花も以前と何も変わらない。
それでも、隣にいたはずのクローネがいないだけで、庭園はどこか違う場所のように思えた。
「アレン様」
背後から家庭教師に呼びかけられ、アレンは鳥から目を離した。
「副職は、まだお決めにならないのですか」
「はい。もう少し考えたいです」
「陛下からは、剣士を選ぶよう命じられているはずです」
「分かっています」
「では、何を迷っておられるのです?」
何度も尋ねられた問いだった。
剣士を選べば、父は納得する。
周囲の者たちも、これ以上何も言わなくなるかもしれない。
戦う力を得ることもできるため、正しい選択なのかもしれなかった。
しかし、周囲を納得させることと、自分が生涯をかけて進みたい道が同じだとは思えない。
「まだ、答えが出ていません」
教師は小さく息を吐いた。
「慎重に考えることは悪くありません」
「はい」
「ですが、決断できない者に人はついてきません」
胸へ鋭いものが刺さったように感じた。
「殿下はいずれ、多くの者を導く立場になります」
「分かっています」
「ならば、決断することも覚えなければなりません」
教師は一礼し、その場を離れた。
アレンは一人、庭園へ残された。
考えることは、決断から逃げるためではない。
正しいと思える選択をするためだった。
それでも周囲から見れば、何も選ばず立ち止まっているだけなのかもしれなかった。
◇
図書室へ向かう途中、廊下で数人の貴族とすれ違った。
「アレン殿下」
以前なら、彼らは足を止めて話しかけてきた。
学問について尋ね、剣の稽古を褒め、将来を期待していると口にした。
今は短く頭を下げるだけで、そのまま通り過ぎていく。
アレンが背を向けたところで、彼らの声が聞こえてきた。
「まだ副職を決めておられないらしい」
「陛下の命にも従わぬとか」
「結界師だけでも問題だというのに」
「王位を継ぐ方が、これでよいのか」
アレンは足を止めなかった。
聞こえないふりをしてその場を通り過ぎ、図書室へ入ってから扉を閉める。
人の気配がほとんどない室内で、ようやく息を吐くことができた。
副職について書かれた資料を、もう一度棚から取り出す。
剣士。
槍士。
弓士。
拳士。
魔術士。
神官。
召喚士。
策士。
創作士。
どの職業にも、それぞれ異なる特徴がある。
そして、どの職業を選んでも、結界師とは異なる力を得られる。
戦う力を補うのか。
守る力を増やすのか。
それとも、まったく別の役割を求めるのか。
何を目指すかによって、正しい選択は変わるのだろう。
アレンは頁をめくり続けた。
どれほど読んでも、自分が何を得るべきなのかは分からない。
結界師として何ができるのかさえ、まだ十分に理解できていない。
その状態で不足している力を決めることなど、今のアレンにはできなかった。
「分からないな……」
答えが出ないまま、本を閉じる。
窓の外から鳥の声が聞こえた。
アレンは空を見上げながら、今頃クローネは何をしているのだろうと考えた。
◇
それから数日後、アミール王国から一通の手紙が届いた。
封筒に記された文字を見ただけで、誰からのものか分かった。
アレンは自室へ戻り、すぐに封を開く。
『元気?』
最初の一文を読み、思わず口元が緩んだ。
クローネらしい挨拶だった。
『私は元気です』
『こちらでは、お父様もお母様も忙しくしています』
『魔物の数は増えていますが、王都は安全です』
『だから、心配しすぎないでください』
自分が心配していることまで見抜かれていたらしい。
『そちらはどう?』
『ちゃんとご飯を食べていますか?』
『また鳥ばかり見て、授業を聞き逃していませんか?』
「そこまでしてないよ」
届くはずのない返事を口にしながら、手紙を読み進める。
『まだ、副職のことを考えていますか?』
『ちゃんと考えているなら、それでいいと思います』
『急いで決めて後悔するより、アレンが納得できるものを選んでください』
最後には、見覚えのある言葉が記されていた。
『私は変わらないよ』
天啓の儀の日、庭園で告げられた言葉だった。
皆が何を言っても。
どのような主職を授かっても。
自分だけは変わらないと、クローネは何度も伝えてくれた。
アレンはその一文へ指先で触れた。
クローネが王城にいない今、その言葉だけが二人を繋いでいるように思えた。
手紙を丁寧に折り直し、机の引き出しへ収める。
そこには、既に届いていた数通の手紙が日付の順に並んでいた。
「僕も返事を書かないと」
何から書こう。
副職をまだ決められていないこと。
結界師について調べ続けていること。
庭園へ来る鳥が、少し減ったように感じること。
書きたいことはいくつもあった。
アレンは便箋を取り出し、クローネへの返事を書き始めた。
その日は久しぶりに、穏やかな気持ちで机へ向かうことができた。
◇
王城の空気は、手紙一通で変わることはなかった。
「結界師」
「副職未定」
「優柔不断」
「期待外れ」
日が経つほど、アレンを表す言葉は増えていった。
天啓の儀以前の評価を口にする者は、少なくなっている。
学問へ真面目に取り組んでいたこと。
剣の稽古を欠かさなかったこと。
王族として相応しい振る舞いを身につけようとしていたこと。
これらは、最初から存在しなかったかのように扱われていた。
アレンは聞こえないふりを続けた。
気にしていないようにも振る舞った。
けれど、誰から何を言われても傷つかないほど、強くはなかった。
ある夜、眠れずに廊下を歩いていた時だった。
僅かに開かれた扉の向こうから、複数の声が聞こえてくる。
「王位継承について、改めて考えるべきではありませんか」
「まだ十歳だ」
「年齢だけの問題ではありません」
アレンの足が止まった。
重臣たちによる会議だった。
聞いてはいけないと思いながらも、その場を離れることができない。
「結界師では、王家の象徴として弱い」
「主職だけで判断するのは早計だ」
「ならば副職を決めればよい。陛下は剣士を選ぶよう命じておられる」
「殿下は慎重に考えているのだ」
「慎重?」
誰かが鼻で笑った。
「ぐずぐずしているだけではないか」
胸が強く痛んだ。
「国は決断できない王を必要としない」
「まだ王ではない。これから学べばよい」
「既に各国から疑念を持たれている」
「アミール王国との婚約にも、影響が出る可能性がある」
婚約という言葉を聞いただけで、クローネの顔が浮かんだ。
『私は変わらないよ』
最後の手紙に記されていた言葉を思い出す。
「今のままでは、あれは王にはなれん」
父の声だった。
アレンは息を詰めた。
重臣たちが何を言っても、クローネが自分を信じてくれるなら耐えられると思っていた。
父も、いつかは考えていることを理解してくれるかもしれない。
どこかで、そう信じていた。
その父から、次の王にはなれないと告げられた。
アレンは、その先を聞けなかった。
これ以上ここにいれば、自分ではない誰かを次の王に選ぶ話まで始まるかもしれない。
足音を立てないよう扉から離れ、自室へ戻った。
いつも歩いている廊下が、ひどく長く感じられた。
◇
部屋へ戻ったアレンは、机の引き出しを開いた。
クローネから届いた手紙を取り出す。
『私は変わらないよ』
何度読んでも、同じ言葉が書かれている。
皆が変わっても。
父が自分を見限ったとしても。
クローネだけは、以前と同じように話してくれる。
そう思えることが、今のアレンには必要だった。
手紙を元の場所へ戻し、引き出しを閉じる。
周囲の者たちが何を言っても、クローネだけは自分を信じてくれている。
その言葉があったから、アレンは考え続けることができた。
急いで答えを出さなくてもいい。
自分が納得できる道を選べばいい。
そう思うたび、引き出しの中にある手紙を読み返した。
翌日も、その次の日も、アレンはクローネからの手紙を待った。
しかし、新しい手紙が王城へ届くことはなかった。




