第9話 蝶と蜘蛛
その日は朝から、妙に落ち着かなかった。
頭には薄い靄がかかったようで、考えがまとまらない。それなのに、足だけは不思議と軽かった。
遠出はしない。母さんとの約束だ。
そうわかっているのに、あと少しだけ、あと少しだけと歩みを進めているうちに、いつしか見慣れない場所まで来てしまっていた。
子供が通り抜けられるほどの狭い通路。その先から光が漏れている。同時に地面を這うように薄紫のもやが流れ込んできていた。何かがおかしい。
「ゴブ郎、母さんを呼んできてくれ」
そう言いながら、俺自身は引き返そうとしなかった。
おかしい。危険な場所だとわかっているのに、どうしても先を確かめたかった。
俺はゴブ郎の返事も待たず歩き出す。まるで何かに導かれるように。
通路を抜けた先は、直径三十メートルほどありそうな円形の広場。周囲に立ち込める薄紫のもや。視界が塞がれるほどではなく、色がついているのがわかる程度。見上げれば四方八方にいくつもの横穴が開いており、それが蟻塚のように頂上までびっしりと覆っている。そして何よりも目立つのは天井の巨大な水色の魔結晶。これが光源だったのか。その淡い光が乾いた土色の壁に反射し、足元を一層照らしていた。
そこで、部屋の中央に何かがうずくまっていることに気づいた。
「......あれは、人?」
開けた空間のど真ん中に倒れ伏す、頭から白いローブを被った、小柄な人影。
それに気付いた瞬間、俺の体は咄嗟に動いていた。
ローブの内側を覗くと、意識を失った少女の顔が見えた。その少女の身体を抱き起こす。
驚くほどに軽かった。すえた臭いもする。
ローブの下は麻布のような衣を纏っただけの姿。
手元の感触に違和感を覚え、そちらに目をやると普通の人には存在しないものがあった。
俺と同じような、小さな二本角と小さな一対の翼。されど左右の翼の大きさは異なり、朽ちた枝のように飛膜もところどころ破けていた。
何よりも目を引くのはその髪だ。
濡羽色の髪に、白いインナーカラー。いくつもの白い筋のようなメッシュが通った白黒ツートン。
腰まで伸びたその髪を無意識にすくいあげると、周囲にキラキラと粉のようなものが舞う。
まるで鱗粉。蝶のようだった。
鱗粉?
すると、少女はゆっくりと目を開ける。生気のない、されど月食のような赤い瞳でこちらを見つめてくる。
俺も少女からなぜか目を離せない。
少女はおもむろに口を開き、微かな声で言う。
「にげて」
「ーーホントにやってきたぁ。バカなオスが」
頭上から声が降ってきた。
気づいたときには、もう遅かった。
「ぐっ――!」
次の瞬間、見上げるより早く、真横から衝撃が襲う。
身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
何が起きた?
痛みに呻きながらも起き上がると、頭から汗のように冷たい何かが垂れるのを感じる。きっと血だ。
「あれぇ」
声がしたほうに顔を向けると、うずくまる少女の傍らに紫髪の女が立っていた。
「意識飛ばすつもりで蹴ったのだけどぉ」
その女はそう言って、黒いヒールブーツを履いた脚をひらひらと揺らす。
なんだ、こいつ。
「へえ、スライムに守らせたんだぁ」
感心したような、甘ったるい声が耳にまとわりついてくる。
その言葉に、ようやく気づいた。
俺と女の間には、水色のゼリー状の破片が散らばっていた。
スライムに守らせた?
咄嗟に胸元へ手をやる。
ない。
さっきまで胸当てに擬態していたスラ坊が、いない。
まさか、あの破片は――。
「もう魔物を操れるようになったのねえ。期待しちゃうわぁ」
そんな俺の気も知らず、頬に人差し指を当てて、こちらを値踏みしてくる紫髪の女。胸元の大きく開いた黒紫のドレスを身にまとい、スカートのスリットからはその長い脚が覗く。散りばめられた金の装飾が艶やかに女を照らしていた。
そして、ヤギのような巨大な二本角に尖った耳。腰の上辺りから生えた翼。間違いなく魔族の特徴だ。
これが魔族。
圧倒的な存在感。まともに戦えば、勝ち目はない。
だが、まだ手はある。
俺は足元に一瞬だけ視線を落とし、顔をあげた。
「なぁ、俺たちの間に争う理由はないはずだ、ほら」
血で額に張り付いた髪をかきあげ、その耳と角を見せつける。
「俺は魔族だ。見たところお前も魔族なんだろ。俺たちは仲間だ」
「ふふ、ええ、ええ、人族だと思って、思わず蹴っちゃったわぁ。ごめんなさいねぇ」
バカなオスと言っていた、初めから蹴るつもりだったのは間違いないだろう。
それに、反省の色は微塵も感じられない。
ただ、アデリアの、人族に対する嫌悪は感じられた。
「お詫びにその怪我、治してあげるからぁ、こっちにおいで」
にやけ顔を隠そうともせず、手招きする女。その艶やかな唇からは薄紫色の吐息が漏れていた。
「ああ、仲間だからな。まずは呼び方を教えてくれないか。俺はリオンって言うんだ」
とにかく時間を稼ぐんだ。
「へぇえ、リオンくんっていうのね。じゃあ私のことは、そうねぇ......。アデリアお姉様、って呼んでいいわよ」
「わかったよアデリア」
「うふふ、お姉様ってつけてくれないのぉ」
うまく話を逸らせた、そう思ったが。
「それで、来てくれないの? なら、私から行ってあげようか?」
チッ、それはダメだ。
俺は女に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「そうだな。ところで、そこの少女は誰なんだ」
二歩。
「あ、これ? ただのゴミよぉ?」
なんでもないかのように、少女を見ながら言うアデリア。確かにボロボロだ。全身を痛めつけられた跡が見られる。
「それは、アデリアがやったのか?」
三歩。
「まさか。私はゴミの山からこれを引っ張ってきただけ」
今も倒れ伏す少女の背を足先でこづく。他に実行犯がいるのかもしれない。確かにゴミのようにすえた臭いがした。だからといって、ゴミのように扱っていいわけがない。
「同じ魔族だろ。その子も助けてくれないか」
四歩。
「ふふっ。ええ? どうしようかなぁ。リオンくんが私のものになったら聞いてあげてもいいわよ?」
何がおかしいのか、にやけ顔を崩さないアデリア。それは圧倒的優位な立場であることを知っているからだろう。
「何をすればいいんだ」
素直な疑問。言うことを聞くとはなにか。その返答は……。
「私のーーおかずになってよ」
ゾワッと背筋が凍り、足がピタッと止まる。
一瞬何を言われたのか理解できなかった。いや、今も理解できない。
おかずってあれか、前世でもお世話になりました的な、如何ともし難い如何わしい何某的な、イカそうめん的な。
「アッハハハハッ」
突如、アデリアは吹き出したように笑い出す。
「もう無理っ。笑いが抑えられない」
笑いながらも細められた目線がこちらを貫く。
「男の子なのねぇ、そういうのも好きよ。でもぉ……」
今度は少しずつアデリアがコツコツとヒールを響かせて近づいてくる。
そして俺の眼前まで届いたとき、耳元で囁いてきた。
「人族の匂いがするわねぇ」
その瞬間、アデリアの視線が俺の首元に落ち、尖った牙を光らせた。
次回更新予定日は 2026年10月20日(火)15時 です。




