第11話 罪
もし、もう一度人生をやり直せるなら、今度は……。
最後まで......。
***
「抗ってやるッ」
たとえ無駄だとわかっていても、やらなきゃいけないときがある。
俺はなけなしの力を振り絞り、アデリアの首に手を伸ばした。
「へえ。まだそんな顔ができるんだ。いいわぁ、その生に縋りつくサマ」
だが、手は届かない。
幼い俺とアデリアでは、そもそも腕の長さが違う。
せいぜい、首を掴む腕に爪を立てるのが精一杯だった。
「ほーら、どうしたのぉ?」
アデリアが笑う。
それに合わせるように、首を締め付ける力が強くなった。
俺は爪を食い込ませる。
アデリアは首を絞める。
絶対に負ける我慢比べだと感じた。
それでも。
その余裕ぶった顔に、一矢報いてやる。
「吠え面を……かかせてやるッ」
「大きく出たわねぇ」
「顔にっ、泥を塗ってやるっ」
「ふふっ。言葉だけじゃつまらないわぁ」
俺は爪を立てるのをやめ、意識を内側へ向けた。
魔力を集める。
身体の奥から、左手の先へ。
アデリアは右手で俺の首を掴んでいる。ならば、その右手に近い俺の左手から仕掛けるのがいい。
成功する保証なんてない。
そもそも、こんな使い方をしたことすらない。
それでも、やる。
左手に大半の魔力を注ぎ込むと、指の隙間から青白い光が漏れ出した。
「あら。今度は魔法勝負かしら?」
そうだ。お前なら、きっと乗ってくる。
光が膨らむ。
やがて、消えかけの蝋燭のように不規則な明滅を始めた。
アデリアの目が見開かれる。
気づいたか。
だが、もう遅い。
「爆ぜろッ!」
閃光が弾けた。
左手ごと吹き飛ばすつもりでかき集めた魔力が爆発し、辺りに土煙が巻き上がる。
魔力暴走による意図的な自爆攻撃。
だが――。
左手が、まだある。
首を締め付ける力も、少しも弱まっていない。
失敗した。
「なるほどねぇ。考えたじゃない」
土煙の向こうから、楽しげな声がした。
「自分が死んじゃえば、私の『生きたまま食べる』って約束は果たされない。確かに、顔に泥を塗る方法ではあるわねぇ」
視界が晴れる。
アデリアは無傷だった。
「どうかしら。私の魔法は?」
視線を落とすと、俺の左手が何重もの薄紫の結界に包まれていた。
爆発は、その内側に閉じ込められたらしい。
指先から手首にかけて黒く焦げ、脈打つような痛みが走っている。
「自爆なんてされたら、私の取り分がなくなっちゃうじゃない」
アデリアは舌なめずりした。
「死ぬところを助けてあげたんだから、そのくらいの痛みは我慢してほしいわぁ。まあ、じきに死ぬんだけど」
また、あの笑顔だ。何もかも見透かしたような、勝ち誇った笑顔。
その頬に。
俺は、右手の中のものを投げつけた。
ベチャッ。
「……え?」
アデリアの笑顔が止まった。
頬に触れた指先に、茶色いものがこびりついている。
「何、これ……?」
初めて見る表情だった。
何をされたのか。
何か危険なものを付着させられたのか。
そんなことを考えているのだろう。
だから、教えてやった。
「……顔に、泥を塗った」
そして、俺は盛大に笑ってやった。
「このッ、ガキがあああぁぁッ!」
左手に魔素を集めている間、右手では別の魔法を使っていた。
爆発で巻き上がった土埃。
空気中に漂う水分。
無から生み出すのは難しくても、そこにあるものを集めるだけならできる。
自爆を防いで、俺の策を見破ったつもりだったんだろう。
だが、俺が狙っていたのは最初からそっちじゃない。
お前の、その余裕ぶった顔だ。
「この……ッ!」
アデリアの笑みが消えた。
直後に首を掴んでいた手が離れる。
ようやく息ができる。
そう思った瞬間、腹に衝撃が走った。
「がっ――!」
景色が横に流れる。
蹴られたのだと理解したのは、背中から地面に叩きつけられてからだった。
肺の中の空気が、残らず吐き出される。
「誰が……」
アデリアが歩いてくる。
「誰の顔に――」
起き上がろうとしたところで、頬を蹴り飛ばされた。
「泥を塗ったって?」
地面を転がる。
痛い。
頭が揺れる。
口の中に鉄の味が広がった。
それでも、両手を地面についた。
「……へっ」
「……何?」
立ち上がる。
「塗った、だろ」
アデリアの奥歯が、ぎり、と鳴った。
もう一度、腹を蹴られる。
吹き飛ぶ。
倒れる。
「言っておくけどぉ」
いつもの甘ったるい声。
薄紫の吐息。
けれど、顔だけは笑っていなかった。
「私、あなたを生きたまま食べるって言っただけなのよねぇ」
髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
「手足が残ってなきゃいけないなんて、一言も言ってないわぁ」
背筋が凍った。
それでも――笑ってやった。
「……だったら、早く、やれよ」
「……ッ!」
殴られる。
倒れる。
立つ。
また殴られる。
何度目かわからなくなった頃には、立ち上がるというより、倒れた身体を無理やり起こしているだけだった。
それでも、立った。
「へ、へ……」
「何がおかしいの」
「かかせ、てやった……ほえづら、を」
返事はなかった。
腫れた瞼のせいで、もうアデリアの顔はよく見えない。
それでも、その沈黙だけで十分だった。
「……もういい」
甘ったるさの消えた声。
「死ね」
だが、その命令が果たされることはなかった。
直後、何かがアデリアを横殴りにした。
衝撃音。
アデリアの身体が吹き飛び、土煙の向こうへ消える。
そして、俺の前に影が差した。
「生きてるか、リオン」
「か、あ……さん」
聞き慣れた低い声。
今は、その低さが何よりも心強かった。
「ゴブ郎、リオンを見てやれ。私はアレをやる」
「ぎゃい」
母さんは、土煙の向こうを睨みつけた。
よかった。
ゴブ郎は間に合わせてくれた。
俺があいつを怒らせていた時間も、無駄じゃなかったんだ。
安堵したのも束の間、土煙を突き破って氷の弾丸が飛んできた。
母さんは剣を一振りした。
乾いた音を立てて、氷が砕け散る。
そのまま間合いを詰める母さんに合わせ、アデリアが土煙の中から飛び出した。
着地したアデリアは、もう笑っていなかった。
アデリアが指を鳴らす。
すると、母さんの足元に霜が走った。
地面が凍りつくより早く、母さんは横へ踏み出す。
そこへ、氷の槍が三本。
母さんは一歩退き、最初の一本をかわした。続く二本を剣で払い落とす。
「ふふっ。随分と身軽なのねぇ」
「口を動かす暇があるなら、手を動かせ」
「言われなくてもぉ」
アデリアの足元から、さらに氷が伸びた。
母さんは跳んだ。
だが、着地を狙うように氷槍が放たれる。
母さんは空中で身体を捻り、剣の腹で氷槍を弾いた。
その勢いのまま着地すると、今度は母さんから踏み込んだ。
速い。
アデリアが身を引く。
剣先が紫髪を数本散らした。
「……っ」
アデリアの顔がわずかに強張る。
母さんは追撃しない。
剣を構え直し、相手の出方を待っていた。
「どうした。もう終わりか」
「……ふふっ。なかなかやるじゃない」
アデリアは笑みを作った。
けれど、さっきまでとは違う。
余裕のある笑顔というより、何かを探るような目だった。
母さんが一歩踏み込む。
アデリアは氷を放ちながら後退する。
母さんはそれを切り払い、距離を詰める。
もう一歩。
アデリアがさらに退いた。
おかしい。
さっきまであれほど俺をいたぶっていたのに、母さんとはまともに打ち合おうとしない。
アデリアの視線が、ふと俺に向けられた。
そして、何かを思いついたように口角が上がる。
「その赤髪と、その剣……あなた、もしかして剣鬼かしら」
「そういうお前は、強欲の魔王だな」
「その呼び名、嫌いなのよ、ねえっ」
アデリアが氷の刃を放つ。
母さんはそれを払い落とした。
互いに距離を取り、睨み合う。
「ふふっ。やっぱり、剣鬼って呼ばれるだけあるのねぇ。死んだと聞いていたのだけれど」
「残念だが壮健だ」
「その割には老けているわねぇ。まだ二十代じゃなかったかしら」
「かあ、さん?」
どういうことだ?
二十代のはずがない。母さんは自分を四十歳だと言っていたし、見た目だって四十前後くらいだろう。
だが、母さんは俺の疑問に答えなかった。
「ちっ。よく知っているな。魔族風情が」
「野良だと、情報が命なのよ」
アデリアは肩をすくめた。
その口元から、薄紫の息が漏れる。
「情報ついでに教えてくれないかしら。あなたに、その子を庇う理由はないと思うんだけど」
「理由ならある。リオンは私の息子だ」
母さんは即答した。
迷いのない声だった。
俺の胸が、少しだけ温かくなる。
だが、アデリアは目を細めた。
「……ああ、そういうこと」
俺と母さんを交互に見て、楽しげに笑う。
「そこのリオンくんに、お母さんって呼ばせてるなんてねぇ」
「何が言いたい」
母さんの声が低くなる。
剣先が、ほんのわずかに下がった。
アデリアはそれを見逃さなかった。
薄紫の吐息が、ゆっくりと広がっていく。
妙なもやがさっきよりも濃くなっている。
「あなたは人族。その子は魔族。人族から魔族が産まれることはないし、人族と魔族の間に子どもができることもない。――常識でしょう?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「言いたいことはわかる?」
なるほど。
母さんが俺の実母じゃないと暴きたいのか。
だが、それなら見当違いだ。
「母さんが俺を産んでないことくらい、知ってる」
「リオン!?」
母さんが振り返った。
俺はゴブ郎に支えてもらいながら、どうにか立ち上がる。
「それでも、ずっと俺を育ててくれた」
食事を与えてくれた。
眠る場所を用意してくれた。
毎晩、あの物騒な子守唄を歌ってくれた。
俺にとっては、それで十分だった。
「だから、母さんは母さんだ。それだけは誰にも否定させない」
これでいい。
そう思った。
いつもの母さんなら、『当然だ』とでも言って、剣を構え直すはずだ。
なのに。
「…………」
母さんは顔を上げなかった。
剣先が、さらに下がる。
「ふふっ」
アデリアが笑う。
吐息の紫色が、少し濃くなった。
「優しいのねぇ、リオンくん。でも――それで終わりかしら?」
もやが、俺たちの周囲をゆっくりと満たしていく。
「あともう少し考えれば、わかることよ」
アデリアは俺に笑いかけると、母さんへ向き直り、口を開いた。
「セルディア王国第三騎士団団長、セレナ・ブライト」
母さんは肩を振るわせる。
「あなた、どうしてこんなところにいるの?」
その問いかけに答えは返ってこない。
「だって不思議じゃない。人族の、それも騎士が、魔族の巣で子育てだなんて」
「お前には関係ない」
「ふふっ。そうねぇ。でも、気になるのよ」
アデリアはゆっくりと首を傾げた。
「この奈落迷宮って、確かセルディア王国の管理下にあったわよねぇ?」
「…………」
「人族にとってダンジョンは大切な資源庫。だから騎士団が巡回して、魔物が外へ溢れないように見張っている。そうでしょう?」
「……何が言いたい」
「まだ何も言ってないわよぉ。ただ、あなたならよく知っていると思って」
アデリアの口元から、薄紫の吐息が漏れた。
薄紫のもやが、母さんの周囲を漂っている。
「ねえ、ダンジョンの魔物って、誰が統率しているのかしら?」
「…………」
「ほら、教えてちょうだい。あなた、詳しいんでしょう?」
「……ダンジョンの主だ」
「そうねぇ。じゃあ、その主がいなくなったら?」
母さんの眉間に皺が寄った。
「魔物が……統制を失う」
「それで?」
「巣の外へ溢れ……周囲に被害を及ぼす」
「よくできましたぁ」
アデリアは満足そうに手を叩いた。
その話には、俺も聞き覚えがあった。
以前、母さん自身が教えてくれたことだ。この国では、いくつものダンジョンが資源庫として管理されている。内部の魔物が無秩序に外へ出ないように。そして、ダンジョンの主である魔族を勝手に殺されないように。騎士団が巡回し、監視しているのだという。
この奈落迷宮も、国の管理下にある。
「じゃあ、もう一つ」
アデリアは人差し指を立てた。
「そんな大切なダンジョンの主を、騎士が勝手に殺してしまったら、どうなるのかしら?」
「……黙れ」
母さんの声が低くなった。
「国の財産を失わせて、周辺の住民まで危険に晒す。騎士としては、随分な失態よねぇ」
「黙れ」
「失態どころじゃないかしら。国を守るはずの騎士が、国に害をなしたんですもの」
剣先が、わずかに下がった。
アデリアはそれを見て、楽しそうに笑う。
「――ダンジョン潰しは、大罪よ?」
「黙れッ!」
母さんが踏み込もうとした。
だが、足が止まる。
アデリアは攻撃しない。
ただ、笑っている。
おかしい。
これだけ隙だらけなのに、どうして母さんは斬りかからない?
いや。
どうして、俺たちはこいつと話している?
薄紫のもやが母さんの足元に集まっていく。
「もう一度言うわ、セレナ・ブライト」
アデリアが、一語一語を刻むように告げた。
「国から守るよう命じられたダンジョンで、その管理者を勝手に殺した」
「……やめろ」
「騎士としての誓いを破って、守るべきものを自分の手で壊した」
「やめろ……!」
母さんの指が震えていた。
それでも、剣は手放さなかった。
アデリアは、その様子をじっと見つめていた。
そして、ふと俺に視線を移した。
「……ふふっ。そういえば、もう一つ不思議なことがあるのよねぇ」
その笑みを見た瞬間、嫌な予感がした。
「あなた、どうしてその子を育てているの?」
「……ッ」
「人族の騎士が、魔族の子どもを。しかも、自分の息子だなんて言って」
「それは……!」
母さんが何かを言いかける。
だが、続く言葉は出てこなかった。
「その子、ここで生まれたんでしょう?」
アデリアが俺を見る。
「リオンくん。あなた、自分のお父さんとお母さんがどうなったか、知ってる?」
「……え?」
考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
母さんが育ててくれた。
だから、それ以前のことなんて、どうでもいいと思っていた。
だが。俺は、このダンジョンで育った。
もし、俺の両親がこのダンジョンの主だったとしたら。
もし、その主を母さんが殺したのだとしたら――。
「やめろッ!」
母さんが叫んだ。
今まで聞いたことのない、悲痛な声だった。
アデリアは笑みを深めた。
「ねえ、セレナ・ブライト」
「言うな……!」
「あなたが殺したダンジョンの主って――」
「頼む……やめてくれ……!」
母さんはアデリアを見ていなかった。
俺を見ていた。
何かを言おうとして、唇が震えている。
その目は、怯えていた。
俺が何を言うのか。
どんな顔をするのか。
それだけを恐れているようだった。
アデリアが、俺に聞こえるように、ゆっくりと言った。
「――その子の、本当のお父さんとお母さんだったんでしょう?」
息が止まった。
母さんが、俺の両親を殺した?
あの母さんが?
俺を育ててくれた、母さんが?
「……母、さん?」
思わず、声が漏れた。
母さんの顔が歪んだ。
「リオン……私は……」
何かを言おうとして、口を開く。
だが、言葉は続かなかった。
俺も、何も言えなかった。
その沈黙の中で、母さんの指から力が抜けた。
カラン。
乾いた音を響かせて、剣が地面に落ちた。




