第7話 開かれた門
教会の観測小隊が指し示した東側の昇降路の突き当たり、重厚な鉄の扉が行く手を塞いでいる。
無骨な鉄の閂に両手をかけ、力任せに持ち上げる。ガコン、ギギギ……と腹に響く重い摩擦音が鳴り、錆びついた閂が外れた。
扉を押し開けた瞬間、生温い泥の臭気が途切れ、冷たい外気が吹き込んでくる。
見覚えのある、石造りの昇降機テラスだ。眼下を覗き込めば、膝まで浸かったあの黒い汚水の回廊が、遙か下層に口を開けている。
あの泥の道を、もう潜らなくていい。それだけで、鉛のように重かった足がわずかに軽くなる。
テラスの脇で、シオナが短く息を吐いた。
側頭部から伸びていた二本の真紅の水晶角が、輪郭を溶かすように消えていく。
背中の水晶翼も、外套の裾を割っていた竜の尾も、すうっと気配を消して失せた。
ただの長身の狩人の姿に戻ると同時に、俺の右腰で、金具に拘束された生体刀身が微かに震え始める。
相棒の庇護が解かれ、怪異の筋繊維が外気を感じ取って目覚めかけているのだ。
石畳の階段を上がり、ターラムの市街へと足を踏み出す。
西の空へ立ち上っていた赤黒い歪みは消えているが、街の空気は奇妙に張り詰めていた。
高台の教会の尖塔からは、ジジジ……カチリ、カチリと、電話交換局の継電器が休みなく切り替わる微かな機械音が降り注ぐ。
石畳の奥深く、足裏の底を叩く微細な振動は、西の非常鐘が止んだ今も、途切れることなく続いていた。
その足裏の振動に急かされるように、煙の立ち上る工房街の坂道へ足を向けた。
煤で黒ずんだ『ギル鍛冶工房』の扉を押し開ける。
カラン、と真鍮の鐘が鳴る。熱気と機械油の匂いの中、作業台の奥でギルが真鍮の義手をガチャリと鳴らした。
炉の炎が、風もないのに不自然に横へ傾ぎ、赤黒い舌を伸ばしている。
「地面がやけに熱い。炉の火が勝手に伸びやがる」
ギルが唾を吐き、義手の指先で煙管の灰を落とした。
俺は無言のまま、肩の革袋を作業台の上へ降ろす。紐を解き、中身をごろりと転がし出した。
青く澄み切った光が、薄暗い工房の壁一面に爆発するように広がる。
人の頭部ほどもある、青い変異核。中心部の血管のような脈が、工房の炉の炎を呑み込むように、冷たい燐光を明滅させている。
ギルはルーペを外した。指先から真鍮の煙管が滑り落ち、敷石の上でカランと乾いた音を立てる。
「……どこで拾った」
「広場の、顎のでかいやつだ」
「……そうか」
それきり黙り込み、ギルは作業台の下から、鉛で内張りされた分厚い木箱を引きずり出した。
大型の真鍮挟みで青い核を掴み、慎重に箱へ収める。蓋を閉める直前、手元のタガネを素早く走らせ、核の外縁から青い結晶の破片を幾つか削り落とした。
「本体は教会の管財官に内密で流す。手数料を引いて、金貨五枚だ」
「前金に、銀貨を五枚くれ。それと……」
「わかってる。粉は手間賃だ」
ギルは削り落とした結晶の欠片を二つ、布に包んで作業台の端へ押しやり、残りを鉄鉢の中で細かくすり潰し始める。
青い粉末が、砥石の粉に混じって燐光を散らした。
「刀身を万力に乗せろ」
言われるまま、俺は右手の留め具を外し、生体刀身を作業台の鉄の溝へと差し込む。
ギルの義手がハンドルを回す。ギリ、ギリ。万力が締まり、刀身が動かなくなる。
ギルが炉から赤熱の当て金を抜き、その先端を生体の根元へ力任せに押し込んだ。
――ジュウウゥッ!
激しい白煙とともに、肉の焼ける悪臭が立ち上る。
刀身の組織が狂乱して暴れようとするが、万力とギルの真鍮の義手が、びくともせずにそれを押し潰した。
すり潰した青い結晶粉を、ギルが焼けた傷口へと一気に振りかける。
バチバチッ、と青白い火花が爆ぜた。表面に並ぶ無数の肉芽が一斉に蠢き、青い光の粉末を貪る。組織が猛烈な勢いで変色し、濁った赤褐色だった刃の表面に、幾重もの鋭利な青い結晶脈が焼き付けられていく。
新しい金具を噛み合わせ、太いボルトを締め上げる。
――ギチ、ギチリ……ガチンッ!
重厚な金属音が響き、ボルトが完璧に噛み合った。
「……持ってけ」
水槽に突っ込まれ、白い蒸気とともに引き上げられた刀身が、作業台に置かれる。
革の手袋越しに柄を握り直す。ずしり、と重みが掌に沈んだ。
青い核を喰った刃は鋼よりも硬く引き締まり、革の下でドク、ドクと重々しい拍動を刻んでいる。
空中で軽く振る。重心が切っ先寄りに移ったせいで、素振りの間合いが半歩分、外側へ狂う感触があった。
だが、左手の鋼鉄ブレードと噛み合わせ、長柄の大剣へ変形させた瞬間の剛性は、以前の比ではない。
「銀貨五枚は袋に入ってる」
ギルが煙管を拾い上げた。
「……また死にに行くのか」
「生き延びるために潜るのさ」
工房の扉を出ると、外の空気はさらに冷え込んでいた。腰の革袋には、銀貨五枚。
「金貨五枚だとよ。安宿の最上階が借りられる」
「その前に、今夜を生き延びろ」
路地の壁に寄りかかって待っていたシオナが隣に並び、フードの陰から冷ややかに切り捨てる。
足裏に伝わってくる地鳴りは、先ほどよりも小刻みな胎動へと変わりつつあった。
「圧を抜く。ついて来い」
シオナはそれだけ言うと、旧市街の暗がりへ向けて迷いなく歩き出す。
俺は布に包んだ核の破片を彼女の掌へ押し込み、その無駄のない背中を追った。
崩れかけた石造りの階段を、地下深くへと降りていく。
街の物音が遠ざかり、冷たい湿気が肌を刺す。
行き止まりの円形祭壇――かつて教会が建てられる以前の古い祈祷所に出た。
祭壇の脇、湿り気を帯びた石壁の上に、先達の狩人が遺した青白い文字が浮かび上がっている。
『この先、祈りがあるぞ。だが――』
後半の文字は乱暴に削り取られ、途切れていた。
俺は腰のポーチを探り、拳銃の弾が四発、教会の観測小隊の隊長からもらった除染薬の小瓶が一本残っているのを指先で確かめる。
シオナが祭壇の中央へ進み出た。
外套の背が裂けるように盛り上がり、透き通るような紅水晶の翼が左右へ広がる。
側頭部から真紅の二本角が伸び、細い尾が祭壇の敷石を打った。
受け取った青い核の破片を台座の窪みへ落とし、シオナは両手を掲げる。
「――開示。脈動の収斂、位相角……三、二……」
台座の溝を青い光が走り、敷石の魔法陣を満たしていく。だが、その声がふいに途切れた。
「……位相角、三、二……言葉が……」
シオナの指先が小刻みに震え始める。魔法陣の光がパチパチと不穏に明滅し、青い光が濁った赤へと反転しかけていく。
「くっ……続きが、出ない……! 言葉が、合わない……!」
祭壇の中央で、逃げ場を失った地脈の圧が膨れ上がっていく。このままでは、ここで破裂する。
叫ぼうとした瞬間、キィィィィィン……と、耳の奥底を細い針で貫かれたような音が響いた。
視界が、真っ黒に染まる。
思考が遠のく闇の向こうで、誰かの声が聞こえた。感情を一切削ぎ落とされた、無機質な声だ。
『……ナイン、ケー、ヴィー、エイト、エックス、アイ、ワイ、アイ……』
数字と記号の羅列が、遠い水底から響くように耳の奥を撫でていく。
それが誰の声なのか、確かめる間もなく、意識がプツリと途切れた。
……気がつくと、俺は冷たい敷石の上に膝をついていた。
頭蓋の奥で鈍い鐘が鳴っているような、重い頭痛。視界を上げると、目の前の空間が、硝子が割れるように大きく裂けていた。
吹き抜けてくるのは、地上のものとは違う、凍りつくような冷気だ。
祭壇の奥に口を開けているのは、巨大な石造りの門だった。
見たこともないほど古びた灰色の巨石が組み上げられ、門柱の表面には、先ほど耳の奥で掠めた文字列――『9kv8xiyi』の歪な刻印が、青黒い溝となって刻まれている。
「……な、何だこれは……」
数歩先で、シオナが呆然と立ち尽くしていた。
振り向いたシオナの目が、門ではなく俺を見ている。
「ヴァル。今、何を言った」
何の話だ、と返そうとして、喉が酷く渇いているのに気づく。
門の奥から、亡者の呻きのような鐘の残響が這い上がってくる。
世界観はオリジナルです。
質問は受け付けますが、考察は自由なので否定はしません。




