第一〇話 冷え切った身体に
「だ、だから…! あたしは断じて佳澄さんと密着して興奮してたとか無いから! いいね!?」
「分かってるから大丈夫だよ。日依は私とくっついても変な目で見たりしてない。それでいいんでしょ?」
「本当に分かってるのかな、この人は…」
佳澄から言及されてきたとんでもない誤解。
日依が彼女と密着したことで気分を昂らせていたのではないかという、事実無根も良いところな噂を流されかけたがギリギリのところで弁明には成功。
…彼女の反応からして、本当に分かってもらえたかどうかは微妙なところだがひとまずは一件落着ということにしておきたい。
「ちゃんと分かってるって。それよりほら、もう少しで日依の家に着くんだから濡れないように近づいておきなよ?」
「それも大丈夫だから。おかげさまで少し肩に水がかかったくらいに済んでるし…」
「駄目駄目。そうやって油断してるとすぐ体調崩しちゃうんだから大人しくこっちに来なさい」
「うっ……で、でもこれ以上近寄ると佳澄さんも窮屈だろうし──…うん?」
どちらにせよ、ようやっとの思いで日依の家も少しずつ見えてきたのでこの状態から解放される時も近い。
全体的に見れば佳澄に助けられた場面も多かった帰路であるが、その分だけ疲弊する箇所も多々あった。
しかしそんなことを考えるくらいなら早いところ家に入ってしまいたいので、向こうの歩調に合わせながらも進むスピードを少しだけ早めようとする。
……がしかし、そこで日依はふと何の気なしに自分の後ろから聞こえてきたエンジン音を察知する。
雨が降り注ぐ中であるため少々聞こえづらかったものの、遠くからこちら目掛けて道を走ってくる一台の車がそこにはあった。
まだ比較的距離があるので断言はしづらいが、進行方向からして日依たちのいる方向に進んできているのは間違いない。
「…ちょっとごめん、佳澄さん。もう少しそっちに寄ってもらってもいい?」
「え、そりゃいいけど…急にどうし───っ」
「いやね、それが向こうから車来てるから避けようと思って……ひゃっ!?」
日依との会話に集中していた佳澄は未だ車の存在に気が付いていない。
必要ないとは思うが、万が一のこともあるので念のためにそれとなく日依は道の端の方まで詰めて行った。
突然そんなことをしてきた日依を不思議そうに佳澄は見つめていたが別に悪いことをしているわけでも無いので平然とそのまま移動し、それを確認したからか車の方もこちらの気遣いに気づいたように走る速度を上げて通り過ぎようとした。
……しかし、それが今回は不運な方向に作用してしまった。
忘れてはならないが、今ここは雨が降り注ぐ道端。
となると当然、そこいらには雨水が溜まった水たまりもあるということで。
それらが溢れている道端を、至近距離で速度を上げた自動車が通過していけばどうなるか──説明するまでもあるまい。
ちょうど道の壁際ではなく、道路側を歩いていた日依の足元にあった水たまりに勢いよく突っ込んできた車のタイヤはその速度を余すことなく発揮し、思い切り雨水を跳ねさせてきた。
するとこの場で最も近くにいた日依がそれを被る形になってしまい…凍えそうな冷気を保った雨水を横から掛けられたことで、思わず素の声まで漏らしてしまった。
「…うへぇ、最悪だ…あっはは。まさかここまで来て濡れることになるとは…」
「ひ、日依! 大丈夫!?」
「え? あっ、うん…あたしは平気だよ。それより佳澄さんは濡れてない?」
数秒前までは何とか肩の辺りが少しだけ濡れる程度で済んでいたというのに、自宅近くまでやってきてこの有様だ。
一気に全身がずぶ濡れになってしまった日依であったが…それよりも彼女が真っ先に気にしたのは、自分の隣にいた佳澄の方。
こちらの被害に巻き込まれて濡れたりしていないかと、そう尋ねた日依だがそこから返ってきた返事としては──佳澄らしくもなく今の一部始終に焦ったような反応を見せた声色だった。
「私のことはいいから…あぁもう、こんなに濡れちゃって…! どこか怪我とかしてないよね?」
「それはないはず……うぅっ、寒っ! と、とにかく家まで早く行っちゃおうか…そこまで距離は無いから」
「そうしよう。…全くもう、日依ってばこんな時に私の心配ばかりしちゃってさ。大変なのはそっちの方なのに…」
「はい? ごめん、雨で聞こえなかったんだけど今何か言ってた?」
「ううん、何でもない。とにかく早く行こう! そのままじゃ風邪引くよ!」
日依としては水を被ったと言っても被害はそれだけなので、せいぜいが後で服を乾かすのが面倒だと思ったくらいだ。
それよりも佳澄という、現在も隣にいる少女が濡れてしまう方が彼女にとっては深刻な被害であるため、その点を確認したのだが向こうはこちらの身の安否を確認してくれていた。
しかも日頃の冷静な態度はどこに行ったのかと尋ねたくなるほど真剣な様子で、上から下まで雨水だらけになった日依の前髪を優しく除けながら心配したようだった。
ともかく、日依も彼女の意見には賛成なので先ほどよりも歩みを早めてこの濡れた身体をどうにかするためにもあと少し先にある自宅へと向かっていくのだった。
◆
「まさかあんなところで水を被ることになるとはね…もう全身ぐっしょぐしょだよ。佳澄さん、タオルあるから好きに使っていいよ」
「…あのね、私を気にしてる場合じゃないから。絶対的に日依の方が被害は甚大なんだからこっちに構わず早く拭いちゃった方がいいよ」
「いやでも…佳澄さんだって濡れてるし、あたしなんかよりもそっちを優先してほしいというか。今からならお風呂も沸かせるし良かったら温まってもらって──へくちっ!」
何とか日依の自宅間近までやって来れていたことが幸いし、水を浴びてしまったことは完全に想定外だったがそこからはさして時間を掛けずに帰ってこれた。
そうしてようやく一息つけた彼女らであったが、それでも休息を満喫する間もなく特に日依なんかは水滴塗れの身体を処理しなければならない。
…ただ、そんな状況下でも明らかに被害の規模が自身よりも軽微であるはずの佳澄を案じる日依の対応に彼女は呆れたリアクションを返していた。
さもありなん。
どう見てもこちらよりずぶ濡れなはずだというのに、一切合切気にした様子もなく乾いたタオルを差し出されなどすればまずそちらを拭いてから言えと告げたくなるのが人間というものだ。
しかし日依の指摘した点もあながち的外れではなく、彼女という比較対象がいるから目立っていないが佳澄も先ほどの水はねには多少巻き込まれてしまっていたので水は浴びていたりする。
あくまでも日依が全面的な事故に遭いすぎただけだ。
現に今も、表面上は何てことも無いように振る舞っていたが身体は正直なもので…雨に濡れたことで冷えた影響により盛大なくしゃみをしている。
「言わんこっちゃない…私は私で適当に片付けておくから、第一に日依が身体を温めてきた方が良いよ。それで体調崩されたらこっちが申し訳なくなるから」
「ううん……分かった。じゃあごめんだけど、少しだけお風呂でシャワー浴びてくるね…」
「そうしな。──さぁて、私も制服乾かしちゃわないとな」
どれだけ虚勢を張ったところで日依の現状は変わらないのだから、だったら開き直ってあちらの厚意に甘えた方がいい。
そう判断し、微かに不調の兆候が見え始めている身体を癒すためにも日依は浴室へと向かった。
……向かって行った先で、あのようなことが起こるなど想像すらしないまま。
 




