20
黄ばんだ扉を開いたら、父の吸うたばこの臭いが鼻を突いた。リビングに置かれた楕円形のテーブルを挟んで、向こう側のソファーに両親と姉、手前側のソファーにスーツを着た男女と、警官が二人座っている。入ってきた私たちに気がついて、全員の視線がこちらを向いた。
「こんばんは、みなさま」
燃える髪を揺らして当主様が堂々とリビングに踏み込む。その後ろをあきちゃん、私が続く。母は私の名前を呼んで立ち上がったけど、何かあきらめたように、そのままソファーに座り直してしまった。姉は私を見上げると忌々しそうに唇を曲げた。彼女の左頬には青あざができていて、私が放った渾身の一撃が頬に当たったのだと理解した。父は当主様を見た途端、慌ててたばこをガラスの灰皿に押し付けて、ソファーから立ち上がって頭を下げた。
灰皿の中は、半分も吸っていない長いたばこで溢れていた。
ほどほどな挨拶を終えたら、当主様とあきちゃんは先にスーツを着た男女に話を聞いていた。二人は専門機関の職員だという。今日の事件と、姉が私をいじめ続けていた事実、父が抱える借金の存在など、様々な問題点を加味した上で私を保護する、という話を家族にしていたそうだ。私は警察官に事情を聞かれ、今日の出来事を改めて説明した。今回逮捕はしないけど、今日の話し合いが終わるまでの警護と、保護された後の報復を警戒して巡回警備を強化すると話していた。
「さて。既にご存知かとは思いますが、改めて経緯を説明したいと思います」
当主様が硬い口調で家族の顔を見回した。
職員と警察官には席を外してもらい、今度は私、あきちゃん、当主様の三人がソファーに座って家族に対峙する。姉は眉間にしわを寄せたまま、やはり私へ憎悪を含む視線を投げ続けていた。姉の視線など気にしていても仕方ない。なるべく姉の方は見ずに、当主様の言葉に耳を傾けよう。
「本日、ふみさんが安珠さんとトラブルになって逃げ出し、逃げた先で高熱を出して倒れたと連絡がありました。連絡をくださった方については匿名とさせていただきます」
雪のことは伏せてくれている。もしも連絡したのが雪だと知れば、間違いなく姉は報復する。両親もベーカリーカミシロを毛嫌いしてしまうだろう。原因を作ったのは体裁ばかり気にする自分たちにあるというのに。
「っていうか、文音と棘科さんたちはどうやって知り合ったんでしょう? 文音が大富豪の一家と仲がいいなんて、とてもじゃないけど信じられない。不自然です」
姉が当主様の話を遮って脚を組んだ。そのあからさまな態度、敬語は使っていても、敵意をむき出しにしているのがよく分かる。姉の隣に座る両親は沈黙したまま、対する当主様は臆する様子もなく、呆れるようにため息をついた。
「何が不自然なのか分かりかねるわ。出会いは輝羽が図書館に本を借りに行ったときよ。初めて借りに行ったときの図書当番がふみさんだった。輝羽は本が好きで、毎日図書館に通っているの。ふみさんも図書館にいる時間が多いみたいだから、入学式から一か月ですっかり仲良しになったのよ」
「信じられるわけないです。作り話ですか? どうせ文音が――」
「――大富豪に媚びて助けを求めたと、言いたいのか」
隣から聞こえた低い声に戦慄した。
あきちゃんがソファーからゆっくり立ち上がって、そう言った。熱を出して私の視界がおかしくなっているのか、一瞬、あきちゃんの長い黒髪が蛇のようにうねって見えた。風も何もないのに、ただ立ち上がっただけなのに、ゆらり、と。
赤い瞳が鋭く、鮮やかに、姉を突き刺す。
「それとも、家族をこき下ろして同情を買ったとでも言いたいのか?」
小さくて華奢な、可愛い私の恋人。その横顔を見て、息を呑んでいた。
毛布の下でまた悪寒がして震える。
「私は私の意志でふみに歩み寄り、ふみもまた自分の意志で私を信じてくれた。私は彼女から媚びを売られたことも、同情を求められたこともない。己の物差しだけで世のすべてを測れると思うな!」
姉の喉が動いて、押し黙った。
今まで他人を苦しめ、恐れさせていた姉が、息を呑んだ。
姉は私の最愛の人を恐れている。最大の恐怖が、私の最愛を恐れている。
あきちゃんは私の心を守るために怒ってくれたのだと分かっていても、彼女が雪の家で燃やしていた殺意がどうしても頭をちらついて、落ち着かなかった。姉がおかしな発言や態度を続ければ、私の小さな恋人は本当に裁きを下すかもしれない。
鎮めて、あげなくちゃ。
怒れる恋人を見上げて、小さな指に手を伸ばした。
「あきちゃん」
優しい声色で。
雪が喜んでくれた、昔の声で呼びかける。
両親の視線が私に向いた。
名前を呼び、それ以上は語らない。それだけでもあきちゃんは理解してくれる。彼女は姉を赤い瞳でにらみ続けたまま、私の指先を握り返してもう一度ソファーに座った。黙って見ていた当主様も満足そうに微笑んでいた。
「ほら、仲良しでしょう?」
当主様の言葉にうなずいたのは母だった。寂しそうな、笑顔を浮かべて。
「家にいるときと全然違うじゃない……」
母は傷ついている。発した言葉が確信させた。
不愛想な私が大富豪の妹と親しい関係になり、更には怒った彼女を目の前で優しくなだめて見せた。血の繋がった家族には見せないのに、血の繋がらない他人には見せる私の穏やかな一面。母はそれが、ひどくショックだったらしい。
母の向ける眼差しを、直視できなかった。
あれだけ憎く思っていたのに、なぜか、にらむことも、怒ることも、嘆いて訴えることも、何一つできなかった。
「話を戻します。……連絡を受けた後、私と妹でふみさんを保護、桜沢家には棘科グループの専門機関から職員を派遣しました。そして、現在に至る、というわけです。ここまではよろしいかしら」
機関の職員からも既に説明を受けていたから、両親は素直にうなずいて応じた。一方、姉は不満そうに眉を寄せたまま、当主様の問いかけには応じなかった。棘科一族が私の味方をしているせいか、それともあきちゃんに怒鳴られたせいか、何かが気に食わないようで険しい表情をしている。
当主様は姉を少しの間見つめたけど、返答を待たずに話を続けた。
「過去から現在まで、ふみさんが家庭内でどんな立場にあったのか、桜沢家の状況はどうなのか、既に職員たちとお話されたかと思います。その上で我がグループの機関は、ふみさんをしばらくの間保護することに決めました。ふみさんは、ご家族と違う場所で暮らしていただきます」
「ちょっと、待ってください!」
父と姉の反応が希薄な中、母が声を荒げてソファーを立った。目を赤くして、今にも泣き出しそうに声を震わせる。
「やっぱり、納得いきません。家族の問題は家族が解決します! 文音を無理やり連れて行くなんて横暴です!」
当主様に噛みつく母へ「やめんか」と隣に座る父が母の腕を引いた。興奮する母を、父も若干ケンカ腰になりながらも落ち着かせようとする。当主様の話はまたもや中断されて、私たちは置き去りなまま、両親が口論を始めた。
「落ち着け。まずは話を聞きなさい。ヒステリーを起こすな、みっともない」
「だっておかしいわよ! どうして関係のない人が家庭の問題に入り込むの!?」
「俺だってそう思っとる! でもまずは落ち着いて話を聞くんだ。丸く収めないと笑い者になるだけだろうが!」
「何が笑い者よ! 全部あなたのせいよ。あなたが借金さえ作らなければ! お義母さんの問題をほったらかしにしたからこんなことになったのよ!」
口論する二人を、私は心底、冷ややかな眼差しで見ていた。
顔を赤くし、唾を飛ばす二人の姿が遠い世界のやり取りに感じる。母は私が連れて行かれるのは横暴だと話していたけど、なぜか、両親から私を想う気持ちが一切伝わってこなかった。今の口論の中に私に対する想いがまったく現れておらず、更に落胆させる。莫大な借金も確かに恐ろしい。一千万なんて金額、私には想像もつかない。だから、想像がつく方の問題こそ、私が痛みと共に経験した問題こそ気にしてほしかった。
私の十年が、姉から虐められていた記憶で埋め尽くされていること。
私の十年が、救ってくれなかった両親への不信と落胆に満たされていること。
母はこのトラブルの責任を父のせいにしているように見えて、父はその責任を軽くするために奮闘しているように見える。
なんて、醜いのだろう。
なんて薄っぺらく、むなしい時間なのだろう。
姉の瞳が落胆する私に向いた。妙に濡れていて、光を受けてぎらつく。
「お前のせいだよ、文音。お前が余計な真似をするから、親がこんなみっともない姿を晒したんだ。保護されるなら早く行って。さっさと出て行って、その辺で死んでてよ」
何を、言っているの。
ここにきて、未だ狂気を示す姉を理解できなかった。
自分の行為は棚に上げて、私が悪い、私にすべての原因があると、責任や重圧を言葉にして投げかけてくる。姉は昔からそうだった。自分の非は絶対に認めない。根本的な原因をすべて私のせいにしてすり替えて、私を否定し、自分を正当化した。ちょっかいを出してきたのはいつもそっちが先だった。小学校の頃だって、ただ体育館で遊んでいたのに、どこからともなく私を探し出して暴力を振るったのはそっちだ。帰り道、雪と一緒に帰っていただけなのに、私を見つけたら私を罵倒して、嘲り、叩いて蹴って、泥の中に突き落した。
どうして私ばかりが責められなくちゃいけないんだ。
どうして、お前の身代わりにならなくちゃいけないんだ。
上っ面だけの最低な人間の身代わりに!
言い返してやろうかと、右拳を強く握りしめたその瞬間。
「桜沢安珠」
隣に座っていたはずのあきちゃんが、姉の前に立っていた。
立ち上がる瞬間も、歩いて移動するところも見ていない。
一体、いつの間に……?
「うわっ!? な、何こいつ、いきなり」
「そこまで言うのなら、彼女を虐待した理由を答えてみろ。正当な理由があるんだろうな?」
あきちゃんが英雄として戦うときに出す、あの声。図書館で部長を退けた、あの頼りになる声だった。彼女は姉の前に立っているだけ。たったそれだけなのに、あきちゃんの低い声と身にまとう漆黒の外套が、華奢で小柄な少女を『暗き騎士』として象っていた。
呼び止めようとする声が詰まる。伸ばしかけた右手が震えた。
大好きな人が英雄として怒れる姿は頼もしく、しかし、つらい。
ちくりと、胸が痛んだ。
姉は半笑いで、嘲るようにあきちゃんを見上げた。
「アハ。妹可愛さに、だと思いまぁす。虐待じゃなくて愛情表現。私は一ミリも悪くない」
「その歪んだ根本がこの結果を招いたんだ! 妹の人生を壊しておきながら、まだ分からないのか!」
「それは文音が乗り越える問題でしょ。よくある兄弟姉妹のケンカにそこまでマジになる意味が分からないんだよ。悔しいなら強くなって私に復讐すればいい。論破するなり、力でねじ伏せるなりすりゃいい。ま、絶対に勝てないだろうし、認めないけどね。それともオジョーサマ、あなたが文音の代わりに私を負かしてみる? おいでよ、ほら」
手をヒラヒラと振る。
確かに、私には姉を打ち倒す力がない。背が高くて腕っぷしが強い姉にいつも負けていたし、私がどんなに論を尽くそうとも否定する一方で認めようとはしなかった。論破しろというのはそもそも私にとって不利な話だ。私に対する虐待を妹可愛さにしてしまった愛情表現と言っていたけど、私にとっては一生残る爪痕で恐怖の記憶。恐怖を刻まれ、上下の立場も明確にされて、価値観までも大きくずれ込んでいるのに、論破などできるはずがない。私がいくら言葉を尽くそうと、姉は私の考えを、存在を、すべて否定し続けて自分を正当化するだけだ。
私はこのまま一生、姉に否定されて負けたままなのだろうか。
私には、姉以上に誇れるものなんて、何も残っていないのか。
言い返したい。怒りの熱は喉元まで来ているのに言葉が見つからない。あの手この手で否定され、ねじ伏せられる一秒先ばかりが浮かんで動けない。真っ白な原稿用紙にならたくさんの想いを言葉にして並べられるのに、肝心な場面で声にできないなんて。
「紅羽」
ふと、あきちゃんが首を少し傾けて当主様へ視線を投げた。当主様は口論を続ける両親と、姉と対峙するあきちゃんを交互に見て、腕組みをした。腕の上でゆっくりと人差し指が動く。
一回。
二回。
そして、三回。
「やっておしまい」
当主様がうなずいた瞬間、お嬢様の赤い瞳が煌いた。姉の腕と胸倉を掴み上げて、華奢な両腕で背負い投げる。長い黒髪と漆黒の外套が彼女の動きに合わせて可憐に翻った。あきちゃんよりも背の高い姉がふわりと宙に浮いて、くるっと回ったら、鈍重な音と共にフローリングに墜落した。
すごく、大きな音がした。すごく大きくて重たいものをフローリングに落としたような、家の外にまで聞こえているのではないかと思うほどの音と振動だった。口論を続けていた両親も轟音に話を止め、席を外していた警官が血相を変えてリビングに飛び込んでくる。当主様は片手を上げて彼らを制止した。
「手出しは無用。力でねじ伏せてみろとおっしゃったのはお姉様自身だもの。自業自得よ」
呆れたように当主様が床に寝転がる姉を見やった。
私へ恐怖を与え続けた魔の具現が、愛しい人の手によって地に倒れている。フローリングに大の字になって、涙目でせき込んでいる姿が信じられなかった。
「うげっ、げほっ。う、うそ……。嘘だ、こんなガキに!?」
「井の中の蛙め、図に乗るな!」
怒れる小さな英雄が姉の胸倉をつかみ上げて真っ赤な瞳を鋭く細める。姉は呆然として、あきちゃんにされるがままだった。細腕は胸倉をつかんだまま、軽々と姉の身体を持ち上げていた。
「桜沢文音の人生を壊したのは貴様らだ! 彼女が笑顔を忘れ、心を閉ざし、他人を信用せず、孤立していくようになったのはすべて、貴様らのせいだ!」
怒声と共に姉を突き飛ばす。再び身体をフローリングに打ち付けて、姉の顔が痛みに歪んだ。あきちゃんは右拳を強く握りしめて、姉を見下ろしながら怒りに震えていた。
「彼女がつかみうる可能性をことごとく失わせ、彼女を壊しておきながらそれを愛情表現だと!? ふみ自身で乗り越える問題だと丸投げして、膨大な借金、幼少時より続く姉の虐待、何一つ手を打たずに目を背け続けた! 何と無責任な家族か! 恥を知れ!」
張り詰めた空間を貫く美しき怒声。突き飛ばされた姉、口論を止めた両親が、漆黒の英雄を青ざめた顔で凝視していた。身じろぎ一つ許さないようなその気迫、自分が怒鳴られたわけではないのに、深い罪悪感が胸に浮かんだ。
「……桜沢家を救うには、あなたたちが目を背け続けた問題と向き合い、解決する必要がある。だから私たちはここにいる。もう、笑い者だとかみっともないだとか、そんなことを言っている場合ではないのよ」
激怒する妹とは対照的だった。守護者の姉は静穏に、桜沢家の非を語り始めた。
父は祖母が詐欺団体の被害に遭っていると知りながら、自分へ矛先が向けられるのを恐れてどこへも相談せずに避け続けた。結果、祖母は亡くなるまでに膨大な借金を父親に遺すことになる。借金は家計だけでなく、父の心へも重圧を与え、彼をギャンブルへの逃避に誘った。祖母の遺した借金と、ギャンブルで作った自身の借金。父は膨大な借金への対処と面目を保つことに精力を奪われ、次第に家族への関心を失っていった。姉に虐げられ続けた私の嘆きなんて、とうの昔から見えていなかったのだ。
母は借金の事実を直接聞かされたわけではないにせよ、祖母が父に対して頻繁に金銭を要求していたことは知っていた。しかし、祖母と不仲だった母は面倒事を父に任せ、一切関与せず、注意すら持たなかった。最終的には自分の収入も通帳ごと父に預けて、「私は何も分からないから」と、考えるのを止めてしまった。思考を止めた母は姉に虐待される私を救う手段も考えられず、怒鳴りつけ、叩いて事態を収束させるという短絡的な行為を取り続けた。姉や私に、何がよくて何がだめなのか、一切導かぬまま。
そして、姉は。
「お姉様については単純明快かしら。あなたは自分より弱い人間を見下して虐げることで、自身の存在意義を見出している狂人よ。気に入らなければ、思い通りにならなければ、あらゆる手を使って傷つけ、抹殺する。ご両親の教えも届かない、極悪非道で歪みきった生粋の悪党だとお見受けするわ」
「く……」
「いじめた方は覚えていなくとも、いじめられた方は鮮明に記憶しているものよ。妹へ注ぐ愛情の形は、輝羽の姉である私がよく知っている。あなたの『妹可愛さに』なんて、言い訳にもならない戯言と知りなさい」
当主様の辛辣な分析に、姉は忌々しそうに歯を食いしばっていた。
家族との対話や調査員の調べによって突き止められた真実を、当主様が一つずつはっきりと言葉にして、家族が隠し続けた根本や本質が、逃れられない現実という形を得て浮かび上がってきた。
「以上。反論があるならどうぞおっしゃって。棘科家当主が相手だからといって遠慮する必要はないわ」
反論は出なかった。出るはずも、なかった。
当主様に反論できない私の家族を見ながら、あやめさんの言葉を思い出す。
――ふみちゃんが輝羽や他の連中を突き放すという『結果』を作ったのは、きっとふみちゃんのせいだけじゃない。
根本、本質は一体何だったのか、そこに至るまでの過程はどうだった?
私の本質。行動の根本。結果に至るまでの過程。
どうして昔、歌を歌い続けたのか。
どうして昔、絵を描き続けたのか。
思い返せば単純な動機だった。私の歌を聴いた人が、私の絵を認めてくれた人が沸き立つその瞬間、知らない誰かの喝采を受けるあの瞬間。両親や姉が認めなかった私自身が認められるその瞬間は、他のどんな瞬間よりもまぶしくて嬉しかったのだ。温もりに溢れる光が胸を満たして、世界が遠くまで澄み渡って、どんな壁も乗り越えて前を向いて進んでいけると思えた。
【私は必要とされている】
そう、信じたかった。誰に、とまでは分からなくとも、私の何かが認められると、生き続けることを許されたのだと思えた。長いトンネルを抜ければ希望の光が私を抱きしめてくれるから、それまで生きていなさい、と。
でも、トンネルは暗闇のままだった。光は一切見えなくて、痛みと苦しみに満ちた、果てしない闇の道が続くだけ。墨で塗りたくられた私の世界に浮かぶのは、私を殴り、蹴り、泥に突き落す姉と、それを笑う取り巻きたちの醜悪な顔。そして、手を差し伸べずに叩く両親の怒り顔だ。
希望を示す微かな光をも消してしまう闇の道。
絶望した私は、もう、信じられるものなんて何もないのだと思った。
そうして、私は『結果』に至る。
どうせ否定されるのなら、歌うのを止めよう。
どうせ否定されるのなら、絵を描くのをやめよう。
何もかもみんな、突き放してやればいいって――。
「ふみさん」
当主様が穏やかに私の名を呼んで、首を傾げた。棘科家当主が浮かべる微笑みはとても心強く、深い安心を感じさせる。私もいつか、こんな優しい笑顔を浮かべてみたい。
「あなたの想いを伝えましょう。ご両親がいくら大きな問題を抱えていようと、お姉様がいくらあなたを否定しようと、彼らにはあなたの苦悩を知る必要がある。家族だからこそ」
私の肩を抱く毛布を握りしめた。
今まで何度、言葉にして訴えただろう。そのたびに否定され、叩かれて、沈黙を強いられてきた。言葉にしたところで、と、今までを知る私の心があきらめようとする。
「ふみ」
今度は、姉を威圧するように佇んでいた外套の恋人がこちらを向いて微笑んだ。
「あきらめないで」
短くも強い、不思議な手ごたえを感じる言葉だった。
小さな恋人は、あきらめ続けた私をあきらめなかった。守護者の末裔、棘科一族として胸を張り、何も変えられないとあきらめた私を解き明かそうと、向き合い続けてくれた。
そうだった。
あきらめなかった彼女の強い意志は、やがて私の想いと交わって、こうして恋人同士になれた。彼女は私を見限らず、見守り続けてくれた。だからこそ私は生きている。だからこそ姉と戦い、生き延びて、家族と向き合えたのだ。
すべて、あきらめなかったからこそ切り拓けた運命じゃないか。
どうせ分かってもらえない、どうせ伝わらないと、家族をあきらめた私にこびりついていた焦げが、愛しい人に拭い去られた瞬間だった。
すっと、息を吸う。
「私は……」




