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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第7章 岐路 -桜沢文音-
19/43

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「ひええええええええっ!」

 雪が調子を取り戻してすぐ、部屋の外からおばさんの叫び声が聞こえてきた。まさか姉が来たのか、と私も雪も警戒したけど、すぐにもう一回叫び声が聞こえて、その不安も杞憂に終わった。

「棘科姉妹!? きゃああっ! 本物ですかあっ!? 雪! ゆきぃぃぃぃ!」

 おばさんはその叫び声を活かして二時間枠のサスペンスドラマに出演するといいのでは、とさえ思うほど鬼気迫るものだった。

「あきちゃんたちが来たみたいですね」

 隣に座っていた雪の顔を見ると、顔をしかめて額を押さえていた。

「はあぁ……。ごめんね、ふーみん。やかましくて」

「雪で慣れましたから平気です」

「あそこまでひどくないってばぁ。じゃ、ちょっと待っててね!」 

 和室を出ていく雪に小さく手を振り、深呼吸をした。

 雪の家で休んだ数十分で、ずいぶんと具合はよくなった。親友と過ごした気楽な時間が、追い詰められた私の心を解きほぐしてくれたみたい。

「ふみ!」

 横引きの扉が開かれて、真っ黒な詰襟の外套に身を包んだあきちゃんが布団で座る私に飛び込んできた。それに少し遅れて、雪と当主様も狭い六畳間に駆け込んでくる。私はあきちゃんを抱きとめて、頭をそっと撫でてあげた。恋人の甘い香りを感じたその瞬間、安堵のせいか涙がにじんでしまった。

「あきちゃん……」

「ごめん、ごめんね、ふみ。私が不甲斐ないばかりに……!」

「自分を責めないでください。もう一人の英雄が私を守ってくれていましたから大丈夫です」

 そう言って、親友の顔を見上げた。あきちゃんも私から離れて、雪を見上げる。

 雪は照れくさそうに頭をかくと親指を立てた。

「どうも! 勇者Bです!」

「神城先輩――いえ、勇者B様。ありがとうございます。あなたがいなければ、ふみはどうなっていたか」

 立ち上がって、雪の手を両手で握りしめて深く頭を下げる。あきちゃんは先輩へ敬意を払い、お世話になったのなら必ず感謝を言葉と行動に移す。大富豪であることは鼻にもかけないし、本当に、立派なお嬢様だと思った。

「ボクとあっきーの仲じゃーん! お姫様を守るのが勇者の使命、ってね!」

「私からもお礼を言うわ。力になってくれてありがとう、雪さん。輝羽の姉で、棘科家当主の棘科紅羽よ、よろしくね」

 当主様が例の名刺を渡して、雪と握手を交わした。

「うはっ! 初めまして、神城雪です! ヤ、ヤバい、本物だぁ!」

「くすっ。ええ、正真正銘本物の棘科紅羽よ。可愛い子ね、そんなに喜ばれると当主様も喜んじゃう」

 ぽんぽん、と雪の頭を軽く叩いて微笑む。雪は顔を真っ赤にして喜んでいた。

「さて。ふみさん、具合はどうかしら? 大丈夫?」

 当主様がこちらに向き直り、穏やかに微笑みながら畳の上に正座した。当主様が座ったのを見て、あきちゃんも雪も同じように正座になる。

「はい。少し楽になりました。ご心配をおかけしました」

「よく頑張ったわね。恐怖と戦ったその勇気に心から称賛を送るわ。早速だけれど、何があったのかもう一度聞かせてちょうだい。お姉様やご両親が違うと言っても、私たちはあなたを信じるから」

 なんて心強い言葉なのだろう。

 当主様にあきちゃんを突き放したことを真剣に謝ってよかった。当主様はきっと、あの謝罪をしたからこそ私を信頼してくれたのだろう。

 うなずいて返し、ランチ後の出来事をすべて話すことにした。

 帰宅した直後に姉につかまり、部屋に連れ込まれて言われた言葉、言った言葉。姉にされたこと、私が姉にしたこと。あきちゃんと過ごした幸せの後に続いた恐怖。一見、柔和で可憐な私の姉は、内側に粘っこく渦を巻く黒い狂気を孕んでいた。その狂気で自分のありとあらゆる側面を正当化して、私に対する殺意すら平然と実行してみせた。

「保護をするには十分な理由だ。怖い目に遭わせてしまったけど、これで君をあの家から助け出せる。……遅くなってごめん、ふみ」

 あきちゃんがまた寂しげに謝った。彼女の顔には未だ、深く責任を感じているような陰が差している。あきちゃんのおかげで戦えたのに、あきちゃんは守れなかったと悔やみ続けている。優しく抱きしめて、慰めてあげたかった。

「これからふーみんはどうなるの? もう大丈夫だよね?」

 雪が心配そうにあきちゃんを見る。電話で我が家に迎えると話していたけど、実際にはどうなるのだろうか。

「ふみは我が家で――棘の館で保護します。私の、お嬢様としてのワガママです」

 家庭内問題などで保護する対象になった子供たちには当然、然るべき手順や対応が存在する。しかし、私の場合はあきちゃんが棘科家のお嬢様としてワガママ、すなわち、圧力に近いものを行使してその手続きや手順を飛ばしてしまった。そして、私の家族が孕む問題が改善するまで棘の館で保護し、棘科家と生活を共にする方針に決めたそうだ。

「うひゃあああっ! すごいっ、棘の館で守ってもらえるなんてすごいじゃんふーみん! あ、でも、朝は一緒に電車乗れない系……?」

 私との登校を楽しみにしてくれているのか、そんなことを言って首を傾げた。雪の可愛らしい疑問に、当主様が口を押さえて笑った。

「大丈夫よ。棘森駅まで輝羽と一緒に送迎させるから、朝は棘森駅で待ち合わせましょう」

「あっ、そっか! あっきーと下校するときの逆パターンですね!」

「ええ。住む家は遠くなるけれど、登下校は一緒にできると思うわよ。お食事や衣服もきちんとするから心配しないでね。それから――」

 当主様はすっかり雪がお気に入りになってしまったようだ。私が実家を離れて暮らすことについて疑問や不安がないように、親友である雪にもしっかり説明してくれている。当主様と向き合う雪はヒーローを前にした子供のようで、瞳をキラキラと輝かせて言葉を交わしていた。

「よかった。神城先輩にも元気が戻ったみたい」

 未だ表情の緩まない私の恋人が言った。あきちゃんの眼差しは先程からずっと鋭くて、赤い瞳も普段より色が深く見える。黒い衣装をまとった彼女は、まるで漆黒の騎士。気高く、凛としていた。

「今回の件と過去の件、両方を解決するために家族以外の第三者を介入させた。家族の人にこれ以上の隠蔽はさせない」

 あきちゃんが言うには、雪から電話を受けたときにすぐ、棘科グループからの調査員と専門機関の職員を派遣したそうだ。今、両親と姉は調査員たちから聴取をされている。聴取とは言っても、私に対する虐待や家庭内で抱える問題に対処するためのもの。警察がするそれとは少し違う。

「君が望むのであれば、桜沢安珠の人生を壊すことだってできる。私には……、棘科輝羽には、それだけの力がある」

 近くで談笑する当主様たちに聞こえないよう、声を低くして私を見つめる。あきちゃんの眼差しは依然鋭く、血の色に満たされた瞳は冗談を語っていなかった。

 本気、だった。

「君のためなら、安珠を殺すことだって――」

「あきちゃん」

 彼女が「殺す」と言った瞬間、すぐに声を遮った。赤い瞳を見つめ返して、静かに首を横に振る。当主様と雪が交わす明るい声がテレビのガヤみたいにぼやけて聞こえた。

「棘科一族の力は守るためにあるものです。誰かを殺すなんて、だめです」

「桜沢安珠は君の心を砕き続けた。死を持ってしても足りないものだ……!」

 その声は静かでも、言葉の中には激しい怒りと熱があった。それでも、私は首を横に振り続けた。愛する恋人を人殺しにするわけにはいかない。首を絞められた後でも、髪を切られて辱められても、先輩として、恋人として、その考えだけは止めなくてはならないと思った。

「それでもです。お願いします、人殺しになんかならないでください」

「ふみ……」

 あなたには気高く、高潔な英雄でいてほしい。

 可愛い後輩、可愛い恋人でいてほしい。

 私を想ってくれるのは嬉しいけど、人殺しになんて、したくない。

「……君は、優しすぎる」

 落胆。そんな声色だった。ため息交じりに言葉が続いた。

「分かった。野蛮な真似はしない。約束するよ」

 硬い微笑み。口は笑っていても目元は険しいままだった。

 私の言葉はあきちゃんの望んだものではなかったらしい。約束する、と口にしても、納得しているわけではなさそうだ。本当は私の姉に直接制裁をしたくて仕方がないのだろう。怒りを抑えているのはぎこちない笑顔からも見て取れる。

 まったく、手のかかる後輩だ。

「あきちゃん。復讐したいって、思っていますね」

 少し上目遣いに小さな恋人を見る。赤い瞳は一瞬見開いて、私の視線から逃れて畳へ落ちた。ぎこちない微笑みはすぐに消えて、行き場のない、やり切れない憤怒が、その白い横顔に浮かびあがった。恋人を殺されかけたと思えば、あきちゃんの抱く殺意や怒りは当然だろう。私だって、この可愛い後輩が誰かに傷つけられたと聞いたら殺意を抱くに違いない。

 でも、人殺しにはなりたくない。させたくもない。

 だから私は、あなたの怒りを鎮め続ける。何度でも。

「姉や両親については棘科グループの方が対処してくださるのでしょう? それ以上の何かをするというのなら、私、あきちゃんが怖くなってしまいます」

「そんな……」

 落ちた顔が持ち上がった。声や言葉が続かなくても分かった。愛しい後輩は、自分が『桜沢文音の恐怖』になることを恐れている。恐怖の対象になれば桜沢安珠と等しい存在になり、私たちの関係も破綻するだろう。

「そんなの、嫌だよ」

 怒りを湛えていた顔が一転、懇願するように弱々しい顔になっていた。小さな恋人を怯えさせてしまったことにわずかな痛みを感じながら、その長い黒髪にそっと指を差し込んだ。なだめるように、安心させるように、ゆっくりと彼女の頭を撫でて、艶やかな髪の感触を指で楽しんだ。

「私も嫌です。あきちゃんを恐がるなんて、嫌に決まっています」

 頭を撫でるたびに、初めて会ったときから変わらない甘い匂いが弾ける。私の手を受け入れるように頭を傾けながら、あきちゃんが震える声を絞り出した。

「ふみの首を絞めて、髪まで切ったんだ……。悔しくて、復讐ばっかり頭に浮かんでしまう。ふみだって、お姉さんが憎くて悔しいはずだよ。なのにどうして……、どうして、そんなに優しくいられるの?」

 悔しいし、憎い。それなのにどうして、あきちゃんの殺意や復讐の念を鎮めようと、心穏やかにしていられるのか。問いかけに答えるのは、たやすかった。

「可愛い恋人ができたからですよ」

 さも当然のように即答すると、小さな恋人がまた目を見開いた。先程とは違い、今度は開かれた瞳に温かい光が差し込んでいた。

「私一人では今もきっと震えています。姉を恐れながらも殺してやりたいと、ぐちゃぐちゃになって、醜い恨みを抱いていたでしょう」

 黒髪から手を引いて、血色に染まる瞳を見つめ続けた。

「でも、私にはあなたがいる。私のために、笑って、怒って、涙を流して、一生懸命悩んでくれる可愛い人……」

 麗しく流れる長い髪と、青白く、澄んだ肌。

 苦悩の先に見つけた愛しい恋人。

 私だけの、可愛い可愛いお嬢さま。

「そんな可愛い恋人に、醜い自分は見せられませんから」

 浮かべられない笑顔に代わり、輝く想いをあなたに語ろう。

 瘴気に満ちた森に眠る、歪んだ私を救った英雄へ。

 いつも誘惑されてばかりだったから、その、お返しだ。

「そんなこと言われたら……。復讐なんて、できるわけないよ……」

 切られてしまいそうな横顔はどこへやら。あきちゃんは気の抜けた苦笑いを浮かべて、今度こそあきらめたように首を横に振った。

 今のやり方が正しかったかは分からないけど、伴侶として心を支え、寄り添うためであれば十分だろう。現代に生きる棘の巫女を人殺しになんてさせない。あきちゃんが私の手を引いてくれたように、あきちゃんが迷ったときは私が手を引こう。

「当主様。ボク、小さい頃から頑張ってふーみんを守ってきたつもりです。でも、ボクの力じゃ結局敵わなくて……。どうか、どうかふーみんのこと、よろしくお願いします!」

 ふと、談笑していた雪が正座をしたまま、当主様に深々と頭を下げた。

「顔を上げて、雪さん。……ふみさんも輝羽も、素敵な友人を得たみたいでよかったわ」

 雪の顔を上げさせて微笑む。当主様が放つ言葉、その仕草の一つ一つが心強い。

「あなたの願い、聞き届けたわ。守護者として生きてきた棘の巫女の矜持を持って、あなたの親友を守りましょう」

――私から事情を聞いて、雪への説明も済んだ。

 あきちゃんと当主様は桜沢家に向かい、私の家族と直接話をする。あきちゃんたちが話をする間、高熱を出した私は診察がてら病院に預けると話が出たけど、断って無理やりついて行くことにした。たった一人では敵わなかったけど、あきちゃんや当主様が一緒にいてくれるなら、両親と姉に私の苦悩を理解してもらえるかもしれないと思ったからだった。

 でも、私は甘かった。

 苦悩を伝えるどころではない、もっと深い闇が桜沢家には存在していた。

 ベーカリーカミシロを出て、短い道のりを当主様の真っ赤なセダンで移動する。当主様に道案内をしながら、後部座席であきちゃんと一緒に調査員からの報告を眺めていた。気を取り直した彼女は最新モデルのタブレットを手に、送信されてきた調査報告書を凄まじい速さで読み進めていた。

「ふみのご両親は棘丘出身じゃないんだね」

「はい。父も母も、祖父母も、もともとこの土地の人間ではありません」

 あきちゃんのスクロールするペースが速いから、内容を詳しく読み取ることはできなかった。ただ、『父親に多額の借金』、『祖母からの異常な要求』、『詐欺まがい』などの言葉が見えて、父と祖母が抱えていた暗い闇を予感させた。

「お父様の母、つまりふみのおばあ様が何かの団体に騙されていたみたいだ。お父様はおばあ様から頻繁に異常な金銭を要求されていた。お父様が貯蓄していた貯金はすべておばあ様へ渡っている。君にかかっていた生命保険も小学生の頃に解約されているそうだ」

 父と祖母の間にそんな問題があったなんて知らなかった。幼い頃から姉にいじめられて、自分を守るのに精いっぱいだった。両親や家族との会話も希薄なら、問題の存在も気づけるはずがない。

「それだけじゃない。お父様はギャンブルでも借金を作った。おばあ様の件も含め、およそ一千万」

「いっせん!?」

 心臓を握りつぶされるようだった。

 私が母からもらう微かなお小遣いを遥かに凌ぐ、比べ物にならないほどの大金。価値を想像するのも困難な金額が、我が家にのしかかっていた。

「十年前を思い出すわ……」

 ハンドルを握る当主様が寂しそうに、そして、悔しそうにつぶやいた。タブレットを見ていた恋人が指をピタリと止めて顔を上げる。端末が発する青白い光に照らされた横顔は険しく歪み、悔恨の念が薄っすらと宿っているように見えた。

「やめて、紅羽」

 彼女はそれ以上の言葉を続けなかった。当主様から投げかけられた話題を拒絶する、冷たい断ち切り方。途端に漂い出した冷たくて湿っぽい空気に、声が喉の奥で詰まってしまった。妹の冷淡で察したのか、当主様もそれ以上続けずに沈黙する。あきちゃんも無言でタブレットの画面を消し、座席の上に置いてしまった。タブレットが放っていた光が消えると、車内は途端に暗くなって、あきちゃんの表情は見えなくなる。その代わりに、彼女は私の右手を両手で力強く握ってきた。痛みすら覚える手の感触に、恋人の嘆きを聴いた気がした。

「……ふみになら、話してもいいよ。このまま黙ってたら不自然だ」

「無理をしないでください。あきちゃんも当主様も、つらそうです……」

「つらいからこそ、大切な人には知っていてほしい。棘科家の、大きな失敗を」

「失敗……?」

 低い声で静かに語られたのは、ある女性の話だった。

 彼女は短大を卒業後、地元の自動車ディーラーに就職。不器用で、仕事は上手といえず、失敗も多かった。日本人と外国人のハーフという自身の生い立ちも上司から嘲笑され、入社数ヶ月で大いに傷つきながらも、責任を果たそうと懸命に働いていた。そんなある日、外国人である母親が母国に里帰りすることになり、飛行機代などの旅費を用意しなければならなくなった。しかし、父親は昔から金銭に無頓着で、貯金も一切せず、仕事で稼いだお金は毎月の生活とギャンブルに消費していた。当然旅費など用意できるはずもなく、父親は社会人となって働き出して間もない娘に頼み、消費者金融から金を借りさせた。

「最初は二十万という話だった。更に、彼女に迷惑をかけないよう、父親が責任を持って返済していくと確かに約束したんだ。でも、結局は家族の中で行われた口約束。父親は返済するどころか、彼女が借り入れできる満額を借りさせた」

 母のためと思って借りたお金。父を信じて借りたお金だった。しかし、彼女がこつこつ返済しても、返済した分を父親がすぐに借りるため、いつまで経っても彼女の借金は消えなかった。それから数年後、とうとう、当時交際していた恋人に借金が知られてしまう。

「恋人の動きは速かった。すぐに関係を終わらせて、彼女を捨てた。当然だよね、金銭に無頓着な家庭と関係を持てば、自分も巻き込まれるんだから。『生活の安定があって初めて愛情が通用する』――そう、言ったそうだ」

 重たくて悲しい声に、ため息を混じらせながら言った。

 十年前といえばあきちゃんは五歳くらいになる。守護者の末裔として堂々と振る舞えるのは、幼い日々から積み重ねてきた経験があったからこそなのだろう。

 両親への不満と終わらない借金の恐怖、そして、恋人に突き放されたショックで、女性はついに心身の調子を崩してしまう。壊れた彼女は自動車ディーラーを退職、一年の療養の後、職を転々とする。環境を変えてやり直そうとしても立ち直れず、仕事上のミスが増えたり、人間関係が上手く構築できなかったり、身体を壊してしまったりと、転職する先々で失敗や不運が続いた。そんな中でも父親は借金を返さず、女性がもう一度貯め始めたわずかな貯金まで要求するようになった。母親も娘の苦悩を理解せず、盲目的に父親の言葉を信じるだけ。家族の中に、女性を理解してくれる人は誰もいなかった。

 そして、女性はついに――。

「巫女の石座に行くときに通った橋、覚えてるかな」

 今日、あきちゃんに連れて行かれた聖地。車に揺られている途中、渓谷に架けられたコンクリートの橋を通った。色褪せた青い手すりが設けられていたのを覚えている。

「はい、覚えています」

 返事をしたけど、話はすぐに続かなかった。恋人に捕らえられていた右手が握り直されて、細い指が絡められる。車窓に差し込んだ街灯の光が一瞬、あきちゃんの青白い横顔を冷たく浮かび上がらせた。

「……女性は、あの橋で消息を絶ってしまったんだ」

 橋で消息を絶った。

 それが意味することは――。

「ま、まさか、飛び降り……!?」

「そう。彼女は橋から身を投げたんだ」

 六月。大雨のある日。

 橋の上には彼女の靴と、着ていた衣服がきれいに畳まれて置かれていたという。それを見つけたのは、女性のトラブルを知って、解決のために動いていた当主様とあやめさん。解決に向けて奔走していた最中に起きた悲劇だった。

「遺書は彼女の車から見つかったわ。でも、肝心の遺体が見つかっていないの。当主の私が未熟だったせいで救えなかった。文字通り、あの子は世界から消えてしまった」

 ずっと沈黙していた当主様がようやく口を開いた。

「ふみさんがこのまま何も知らずに成人してしまったら、将来お父様の借金で追い詰められる可能性がある。あの子と同じ悲劇を、結末を、たどらせるわけにはいかないわ……!」

 声が震えていた。泣き出しそうなのを必死で堪えるような声。守護者の末裔、棘科家の当主が救えなかった女性。彼女の死は、当主様に深い傷を残しているように思えた。

 私も、借金のことを打ち明けられたり、あるいは丸投げされたりしたら、不安と恐怖で立ち直れないと思う。ただでさえ家族や周囲の人間を疑って生きてきたというのに、その上で理不尽な借金を重ねられたら、きっと耐えられない。話の女性が選択した行動と同じ選択をしてしまいそうな気さえした。

「信じてちょうだい。私と輝羽で、必ずあなたを救ってみせる」

「当主様……」

 赤い車は見慣れた横断歩道を過ぎて、大通りを右へ曲がった。私が走って逃げてきた道はもう夜の闇に沈んでいる。闇の先、ヘッドライトに照らされて、家の前に何台か黒い車が停まっているのが見えた。パトカーも一台停まっている。

 家が近づくにつれ、首を絞められたあの瞬間が浮かび上がってくる。消えた首の痛みが、むくんだような頭の重たさが戻ってくる。それに加えて、父が隠していた大きな経済問題が私の心臓を握り続けていた。怖くて、つらくて、胸を押さえて深くうつむいた。

 夢であってほしい。私は高熱を出して悪い夢を見ているのだ。

 そう思わなくては、潰れてしまいそうだった。

 胸の奥が、心臓が、痛い。

 姉の存在と、父の隠していた真実が怖くて、吹雪に見舞われたように震えた。

 どうして桜沢家は、こんなことに。

「ふみ」

 痛みに沈んでうなだれていたら澄んだ声に呼ばれた。顔を上げたら、あきちゃんが私の首に両腕を回して抱きついてきた。驚いたけど、瞼を閉じてその細い背中を強く抱きしめた。私の手を取り続けてくれる、恐怖から守ってくれる華奢な恋人。

 頼れるのはもう、棘の巫女しかいなかった。

「大丈夫、絶対に見捨てない。君の家族も必ず立ち直らせてみせる。十年前の悲劇は、絶対に繰り返さないよ」

 黙って首を縦に振る。恋人の言葉を信じて、何度も何度もうなずいた。

 赤い車は他の車から離れた場所に停まった。闇に沈む我が家からは生活感のある温かい光が漏れていたけど、真実の欠片を知った後ではあの光が地獄へ誘う恐ろしい幻影のように思えた。車から降りると、我が家の駐車場で待っていたのか、きれいな背広を着た若い男性が毛布を片手に駆け寄ってきた。

「代表、妹様、お待ちしておりました。文音様、ご無事で何よりです」

 代表とは当主様のことだろうか。ともかく、はきはきとした人だ。黒髪をオールバックにして背広を着こなす姿は、いかにも大富豪の関係者、といった印象だった。男性は棘科グループ調査員、青山あおやまと名乗った。自宅が棘丘にあったため、私の件を受けて調査の招集に応じたらしい。

 当主様は青山さんの出迎えに明るく応じた。

「休日なのにごめんなさいね、青山くん。奥さんと娘さんはお元気かしら?」

「はい、おかげさまで。文音様、こちらの毛布をどうぞ。落ち着きますよ」

「あ、ありがとう、ございます……」

 青山さんはオレンジ色のブランケットを私の肩にかけてくれた。軽くて薄手だけど、温かくてほっとした。

 私の家族に対峙する前に、青山さんから簡単に状況の説明があった。

 雪から連絡を受けた後、当主様の指示で棘科グループから調査員と、家庭問題を専門に扱う機関の職員が我が家に派遣された。また、私が姉から暴行を受けたため、念のため警察にも同行してもらったそうだ。私が雪の家で休んでいる間に調査員が調べた情報と、家族からの聴取で判明した問題はあきちゃんのタブレットで見た通り。現在、両親と姉は機関の職員と今後について話をしている。今のところ、聴取に対しては素直に応じているらしい。

 なお、私が保護されるのは両親に伝えてあるものの、保護先が棘の館だということは伏せてあるという。姉の報復を警戒してくれているみたいだ。

「青山さんは詐欺団体の調査を。情報は警察にも提供して、彼らが迅速に対処できるよう協力してください。私と紅羽はふみを連れて話をしてきます」

「かしこまりました。妹様がご一緒なら安心です。警護は不要ですね、代表」

「くすっ。そうね、輝羽はすっごく強いから」

 明るく笑う二人に向けて、あきちゃんが苦笑して肩をすくめた。彼女が強いのは私もよく知っている。実際に学校の図書館で撃退された人がいるから。

「では、調査に戻ります。みなさま、お気をつけて」

 青山さんに見送られ、私はあきちゃんと当主様に庇われながら自分の家に上がった。小さな玄関には相変わらずラベンダーの匂いが立ち込めていて、たくさんの靴が玄関タイルの上に並んでいた。リビングから父の話し声が聞こえて、毛布をまとう背筋に悪寒が走り抜けた。熱を出しているせいなのか、家族に怯えているのか。ただ、父の声がいつにも増して引っかかり、不快だった。大きな借金の事実を知り、私の中にある不信感が更に膨れ上がったらしい。

 当主様がリビングのドアノブに手をかけてこちらを見た。

「行くわよ、ふみさん。これが終わったら、我が家でゆっくり休みましょう」

「……はい。よろしくお願いします」

 私の返事を聞いて、頼もしいもう一人の姉がうなずいた。

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