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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第7章 岐路 -桜沢文音-
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――私は。

 幼いあの日。姉に暴力を振るわれ続けて、両親や周囲の人々にも見捨てられて、手を取ってくれた雪以外は誰も信用しないと心に決めました。得意だと胸を張っていたこと、誰かが認めてくれた喝采はまやかしで、私には何一つ誇れるものはないのだと思いました。

 実際に私は、学校で活躍する吹奏楽部の人たちみたいな才能も技術もない。世界を股にかけて慈善事業を続ける当主様みたいな力もないし、当主様に代わって温泉街を見守るあきちゃんみたいな信頼もない。目指したい将来もなければ、やってみたいこともなくて、私の中は、空っぽでした。

 空っぽのまま生きる日々。

 死んだまま生きているような、生きているのに死んでいるような。

 ただ生かされているだけの、約十年だったように思います。

 生存するだけであれば苦労しない。親の言うことを聞き、姉の否定を受け入れて、私自身を殺す。私には何もない、何も成し遂げられない無能な人間なのだと認めれば、叩かれずにご飯が出て、空腹も満たせたのです。

 私は生ける屍となってエスカレーターに乗り、何もしないまま年を重ねて、社会人へ近づいていきました。高校二年生になった今、両親に甘えて過ごせる日々はあとわずか。周囲を突き放して生きるのは、もう無理だろうと思い始めるようになりました。私のような人間が、社会の歯車として機能するはずがない。むしろ、真っ先に社会から排斥される歯車であると気づきました。険しい社会を生きるために必要なものが、私の手には何も残っていなかったから。

 勇気や自信、希望、信頼。自らの意志すら、残っていませんでした。

 私自身が切り捨てたものもあれば、両親や姉に否定されたものもあります。でも、どうであれ、私の中に何も残っていない事実は変わらないのです。

 社会に出れば、両親も姉も『すべて私のせいだ』と言って、幼い頃から今まで与え続けた苦痛を認めないでしょう。大人になったのだから、私が考えて私が決めろと、彼らは私を切り捨てるでしょう。無論、大人になった後、社会人として様々な責任が生じるのは私でも分かります。でも、その責任と戦うために、向かい合うために必要な『武器』や『経験』は、きっと幼い頃から大人になるまでに獲得していくはずのものだと、私は思うのです。

 たとえば、雪が文芸部のやり方に納得せず、退部して新しい部活を探し続けること。たとえば、針ノ木先輩が棘科グループに就職するために、たった一人でこの町に引っ越してきたこと。彼女たちは自分の運命を切り拓くために勇気を出して行動しています。こうした一歩の勇気、一歩の行動こそが、大人になったときに必要な『武器』や『経験』に繋がっていくのです。そしてその行動を起こせるのはきっと、彼女たちの周囲で誰かが支えてくれていたからに違いありません。そう、断言できます。


「そのとおりだ」

 黙って聞いていたあきちゃんが口を開いた。私の言葉を後押しするように、両親の方へ身体を向けて続ける。

「針ノ木蓮華先輩は、訳あって幼い頃に姉を亡くしている。亡くなった姉は、幼い蓮華先輩にある言葉を遺した。――『強くなって、生きてください』。天国へ行っても必ず先輩を守り続ける。だから生きてくれと。蓮華先輩は姉の言葉を支えにして運命に立ち向かい続けた。そしてついに、棘科グループへの就職を前提に、グループからの援助を得て、大学への進学を勝ち取ることができたんだ」

 あきちゃんが私を見てうなずく。話を続けて、ということらしい。

 針ノ木先輩にそんな過去があったなんて知らなかった。先輩に抱いている羨望と嫉妬が、ほんの少しだけ鳴りを潜めた。


 未来を切り拓くために、勝ち取るために必要なきっかけは必ず存在します。針ノ木先輩は慕う姉の言葉を信じて、支えにして生き抜いてきました。雪も、両親の『正しいと思うことをしろ。尻拭いはいくらでもしてやる』という言葉を信じて自分の正義を貫いているのです。彼女たちには紛れもなく、家族の思いやりがありました。

 思いやり。それは絆。

 桜沢文音とは決定的に異なる、家族との絆こそが、支えだったのです――。


「私たちにはなくて、他の家庭にはあるもの。周囲を突き放し続けた私が口にするのもおこがましいですが、私たちには明らかに思いやりが欠けていました。絆を育むのもままならない家族関係なのに、姉の結婚だって、祝えるわけがないでしょう……!」

 少し強く口にしたら瞼から涙がこぼれた。言葉と一緒に、やり切れない悔しさが涙となって溢れてしまった。私の涙を見たせいか、父が頭を抱えてうつむいた。母も、顔を両手で押さえて嗚咽を漏らしている。姉は話の最中ずっと半笑いだったけど、どうにか、両親には想いが伝わったみたいだ。

 父は祖母の問題を放置し続けた。母はそれに気づきながらも沈黙した。そして、姉は私に対して暴力を振るい続けた。すべて、思いやりに欠けた行動だった。私の家族は、私も含めて思いやりを取り戻さなくてはいけない。そのために、私は今回の保護を受け入れる。両親が協力して家庭を立て直すために、姉のその狂気を改めるために。

 私自身が、これから先の未来をやり直すために。

「お父さん、お母さん。姉さんと一緒に、この保護を受け入れてください。三人の負担が少しでも軽くなるように、私は家を離れます。私も家を離れて、未来を切り拓けるように努力します。――だから。だから、意地を張るのは、もう止めてください……」

 熱い雫が瞳からこぼれて止まらなかった。

 父は頭を抱えてうつむいたまま、母は嗚咽を漏らし続けたまま。それでも、私の想いを否定しないで、ただ、沈黙して聞いてくれた。あきちゃんや当主様がいるせいもあるかもしれないけど、今回は否定せず、私の想いは受け止めてくれたのだと、そう思えた。

 静寂の中、私と母の嗚咽だけが聞こえる。

 永遠の決別ではないと分かっていても、家族との別れを告げる言葉が胸を締めつけ、涙を絞り出し続ける。あれだけ憎い憎いと思っていたのに、別れを実感した途端に、誰よりも家族を信じたくて、愛されたかったのだと、幼い頃に見た父や母の笑顔を思い出してしまった。

 昔、絵を褒めてくれた父の笑顔を覚えている。

 昔、歌を褒めてくれた母の笑顔を覚えている。

 虐げられ続けた過去の中に輝く、信じたい、愛されたいと願った笑顔。

 信じられなくなっても、この十年、私が高校二年生になるまで育ててくれた。私はそれを、親として当然の義務だとは言わない。

 この涙が流れるのなら、娘として最大の感謝を送ります。

 お父さん、お母さん。ありがとう。

 私は、愛する人と人生をやり直します。

 そしていつの日か、思いやりと一緒に笑顔を浮かべて。

 家族みんなで笑って暮らせる日を――。

「ガキみたいなこと言いやがって」

 私の想いを伝え終え、静寂に包まれていたリビングを醜い言葉が貫いた。当主様とあきちゃんの赤い瞳が途端に鋭くなって姉へ向く。棘科姉妹の敵意は完全に姉一人に向けられているように思えた。

「笑わせるなよ。借金の苦労も知らないガキが甘えたこと言ってんな。父さん、母さん、文音は大富豪の前で両親をこき下ろしたんだよ。両親をバカにしたんだ。こんなやつ娘として受け入れちゃいけないよ! 騙されちゃだめ!」

 まだ言うのか。強い落胆が胸に鉛を落とした、そのとき。

「……止めんか、安珠。お前の負けだ」

 頭を抱えていた父が、低い声で顔を上げた。顔を上げた父の瞳は真っ赤になっていて、目元が涙で濡れていた。嗚咽も漏らさず、うつむいて涙を隠していたのか。

「父さんが借金を隠して何も手を打たなかったのは事実だ。借金に追われて仕事とギャンブルに振り回され、娘に気が向かなかったのも本当だ。借金の苦労を知れだなんて、まだ学生の文音にする話じゃない」

「でも、親をバカにしたんだよ!?」

「バカにされたと思うからいかんのだ。文音は娘の視点から、家族としておかしいと思う部分を指摘しただけだ。親としてのプライドは捨てんが、つまらん意地や見栄を捨てれば分かる話だった。それに、お前も散々父さんや母さんをバカにしてきただろう」

「ふざけるな! そんなこと言ってない!」

 姉がすぐに反論するも、父は呆れるように首を横に振るだけだった。

 これについては父が正しい。姉は昔から両親ともたくさん衝突した。そのたびに両親に辛辣な暴言を吐き、自分の取り巻きにも両親への恨み言を漏らしていたものだ。自分も両親をこき下ろしておきながら、それを棚に上げて私ばかりを責める。姉の中に渦巻く狂気は一千万の借金同様、その規模を想像できないほどに深淵なのだと感じた。

 父が虚ろな眼差しを空間に置く。

 低い声が独り言のように、乾いた唇から漏れた。

「当主様のおっしゃる通りです。俺は、詐欺団体に騙されていた自分の母を放置しました」

「ふむ……。認めるのね」

 当主様がまた腕組みをした。人差し指のトントンは、ペースが緩やかだった。

「情けない話ですが。連中に目をつけられるのが面倒だと思って避け続けました。金を払い続ければいつか解決すると、根拠もなく楽観していたら、こんなことになってしまった……」

 詐欺被害を相談したら、問題が明るみになって桜沢家が笑い者になる。更には詐欺団体に目をつけられてしまう可能性もある。父は自らが危険な目に遭うことと、体裁が悪くなることを恐れ、祖母の抱える問題を『面倒』だと判断した。抱いた『面倒』は、自分への罪悪感や責任感を薄れさせるために甘い言葉を囁いた。

 なるようになるさ。

 その楽観がいけなかった。

 やがて祖母は高額な借金を遺したまま他界してしまう。父は返済に追われ、借金の恐怖や責任感から逃れるためにギャンブルに溺れるようになった。当然、家庭や娘に気持ちが向かなくなり、年月を経て、深刻な問題に発展してしまった。

「なんて無責任な親なんだと、たった今、気づかされた思いです……」

 父の低くて静かな声を最後に、リビングがもう一度静寂に満たされる。散々噛みついていた姉も沈黙し、父が認めた罪と向かい合っていた。息苦しくて鋭い、落ち着かない静寂は、学校の自習室を思い出すようだった。

「……ふみさんの気持ち、お父様には分かってもらえたようね」

 沈黙からしばらくして。守護者の姉が温かく、柔らかい声でそう言った。父も意地や見栄を捨てて楽になったのか、普段見せていた顔よりも険が取れているようだった。彼は指先で目元を拭いながら二度、うなずいた。

「はい、母さんにも伝わったでしょう。文音の言うとおり、意地を張るのを止めて聞けば、きちんと分かりました。思いやりを持たず、面倒だと逃げ続けたせいで、文音を、娘を苦しめていたのだと」

 いつも険しく、あまり私とも目を合わせない父が、声を震わせながらもしっかり私に目を合わせて言った。

「文音。お前の気持ちはよく分かった。保護先はまだ聞いていないが、一緒に暮らす人たちに失礼のないようにしなさい。借金と安珠については棘科グループの人と相談していくから、お前は何の心配もするな。分かったな」

「はい。分かりました」

「よし。……今まで、すまなかった」

 短い言葉と共に、父が少しだけ頭を下げた。

 親としてのプライドは捨てない。ただ、つまらない意地と見栄は捨てる。

 これは父ができる最大の謝罪。そして、償いの始まりなのだと思った。


 想いを伝え終えた後、私は自分の部屋で実家を離れる準備を始めた。あきちゃんと母に手伝ってもらい、少しの着替えと私物を学校のスポーツバッグやビニール袋に詰めていく。母は私を心配して、ポケットティッシュやハンカチをたくさん用意してくれた。あきちゃんも受け取っておくべきだと肯定的だったので、素直にもらっておく。

「こっちのタンスは開けてもいい? 必要なものがあれば出すよ」

 あきちゃんがベッドの隣にある白いタンスを指差す。私はぎょっとして、タンスの前に走り、立ちはだかった。

「ま、待ってください。必要なものはありますが、ここをあきちゃんに見られるわけにはいきません」

「えっ、どうして?」

 強く言い過ぎたのか、悲しそうに目元を潤ませる。あきちゃんにそんな悲しい顔をされたら、もう何でも許してしまいそうになる。でも、このタンスだけは譲れない。恋人になりたての今、あきちゃんには見せられないものがある。

「ああ、輝羽さん。そこには文音の下着が――」

「ちょっと、お母さん!」

「あ……。うん。そっか、そうだね。うん、うん。大丈夫、ごめんね」

 妙な納得をしながら小さな恋人が踵を返す。悪いことをしてしまったなぁ、という風に背を向けて頭をかいていた。

「あ、あら。ごめんなさい、デリカシーなかったわ」

「まったく……。タオル交換するのも忘れるし、ちゃんとしてよ」

「そうね。文音に言われないと忘れちゃうから、しっかりしないと」

 母の顔には少しの疲れと一緒に悲しげな陰が見えていた。姉との確執が大事に発展した今回、私が実家を離れる事態になって、母はまだ、混乱しているだろう。父は受け止めていたけど、母には受け止めきれない部分もあったかもしれない。

 でも、この苦悩は私も母も、乗り越えなくてはいけない。

「お母様」

 疲れる母に、私の小さな恋人が優しく呼びかける。リビングで怒鳴ったときとは違い、とても気を遣っているのが分かった。

「今回の保護は一時的なものです。問題の解決には時間が必要ですが、決して永遠ではありません。ふみとも定期的に面会できます」

「は、はい。よかった」

 どうやら母は一生私に会えないものかと心底大げさに考えていたようだ。泣き腫らした目元が明るくほぐれて、私とあきちゃんを行ったり来たりした。

「保護の間は棘科家と棘科グループがふみを支援します。もちろん、問題の解決に向けて、ご両親たちへもグループの職員が手助けをします。だから、ふみが安心して戻って来られるよう、お父様と協力して頑張ってください」

「……はい。自分がお腹を痛めて産んだ娘だもの。母がしっかりしなくちゃ。おいで、文音」

 手を引かれて、母に抱き寄せられた。抵抗せず、黙って私も腕を返した。

 こうして母の腕に抱かれるのは何年ぶりだろう。母の匂いを近く感じたのは、母の温もりを感じたのは、涙がこぼれそうなほど儚い昔の記憶だった。

「お母さんね、あなたが絵に夢中になっていたとき、怖かったの。娘が絵に取られてしまう、絵が娘をおかしくしてしまうんじゃないかって思って、あなたにひどいことを言ったわ。私、あなたの可能性を、奪ってしまったのね……」

 昔、歌以外に絵も好きだった頃があった。学校や地域の催しもので何度か賞をもらって嬉しかった私は、毎日のように、何度も何枚も絵を描いたものだ。しかし、一生懸命取り組む私の姿が、母にとっては狂気に憑りつかれたように見えてしまった。その結果、母は私にある一言を突き立てる。

『調子に乗るな』

 未だに私の中で鮮明にこびりついている一言。

 絵を描く行為が誤りなのだと思ってしまった一言だった。

「ごめんなさい。あなたの好きなものも奪って、安珠からも守らなかった。ごめんね、文音。本当に、ごめんなさい……」

 母の抱擁を受け止めながら、懺悔も一緒に、受け止めた。

 私もあきちゃんも、もう責めたりしない。

 今回の出来事で、母も自分の過ちに気がついたはずだから。

 準備を済ませた私は、あきちゃんたちと一緒に駐車場へ戻ってきた。外はもうすっかり夜の闇に包まれ、軒下に取り付けられたセンサーライトの光がすごくまぶしく感じられた。

 見送りには父と母が顔を出した。姉は結局、最後の最後まで自分の非を認めず、私がすべての元凶で、私が生まれて来なければよかったのだと叫び続けたそうだ。我慢の限界に達した当主様が「きついお灸を据えてやった」と話していたけど、私はあきちゃんや母と旅立ちの準備をしていたから何をしたのか分からなかった。深く聞かない方がいいのだろうか。

「くれぐれも失礼のないようにな」

「忘れ物はないわね? 気をつけて行くのよ」

「はい。……行ってきます」

 短い別れの言葉を父と母から聞き、当主様の赤い車に乗り込んでドアを閉めた。当主様も運転席に乗り込もうとして、何かを思い出したように両親と言葉を交わしていた。車窓から見る当主様も両親の顔も明るい。内容は聞こえなくとも、明るい話題ならそれでいい。両親も私も、これから前向きにやり直していくのだから明るい方がいいに決まっている。

「お母様はふみが近くにいないと心配みたいだね。本当はふみが大好きなんだ」

 先に車に乗っていたあきちゃんが嬉しそうに笑っていた。両親が私を見限っているわけではなかったと知って安心しているようだ。もちろん、私も嬉しい。憎い、嫌い、と恨んでばかりいた両親が、私の想いを受け止めてくれた。それは、私への情を捨てていなかったという証明。私は親から愛されているのだと知って、心から嬉しかった。

「嬉しいです。父も母も私の想いを理解してくれて、こうして送り出してくれました。姉はまだ、私を否定していたみたいで残念ですが……」

「本当は理解しているのかもしれないよ。ただ、姉として譲れないんだ。お父様が言っていた意地や見栄を捨てきれないとか」

 ありうる、とうなずいた。

 姉は私を虐げて自分を輝かせようとした人だ。妹には絶対に負けたくない、妹の上に立つんだという意志は誰よりも強いだろう。私の言葉が姉の中に届いていたとしても、彼女が認めるのは難しそうだ。

「ま、紅羽がお灸を据えたそうだし、多少は反省してくれるはずだよ」

「……あきちゃんみたいに背負い投げをしたのですか?」

「まさか。紅羽は私みたいに乱暴じゃないから、言葉で分からせたんだと思うよ」

 あきちゃんが私の向こう、車窓の外で話す当主様に目を向けた。その眼差しは深い信頼と尊敬を予感させる、自信に満ちたものだった。

 しばらく言葉を交わした当主様が軽く頭を下げた。それに合わせて父と母が深く頭を下げる。二人への話は済んだようで、運転席に乗り込んだ当主様もニコニコとご機嫌だった。

「お待たせ。ふみさん、ご両親にしっかり顔を見せてあげて。あなたの顔を見れば二人とも頑張れるはずだから」

「は、はい」

 ドアの内側にあるボタンを押して車窓を開け、もう一度両親の顔を見上げる。私が声をかけるよりも早く、二人が朗らかに声をかけてくれた。

「しっかりね、文音。学校に遅刻しちゃだめよ!」

「無理はするなよ」

 他愛ない言葉。何てことない言葉なのに、どうしてこうも愛しく、胸を締めつけるのだろう。きっと、この言葉と、この言葉を交わせる関係が、私の望んでいた幸せだった。私の求めていた家族の在り方だった。

 そして。たった今、私たちの間で交わせた言葉がある。

 だからきっと、私たちはやり直せるはずだ。

「はい。二人も無理をしないで……」

 車のエンジンがかかる。車がゆっくりと動き出した。

 明るい顔で見送る両親が離れていく。

「行ってきます!」

 大きな声で、離れていく両親に投げかける。精一杯、娘からの感謝と愛情を込めて。それはもう何年も言えなかった、出かけるときの一言でもあった。父も母も大きく手を振って、離れていく私を見送ってくれた。

 私と家族は、今日初めて、全員で同じ選択肢を選んだ。

 互いの思いやりを取り戻すために、同じ決断をした。

 過去に受けた痛みと苦悩は両親と姉に共有してもらった。これからは私一人で乗り越えるのではなく、家族全員で同じものを乗り越えていく。そう、距離は離れていても、乗り越えていくものは同じ。

 両親の姿は、すぐに夜の闇に消えて見えなくなった。

 窓を閉めて車に顔を戻すと、すぐ隣に愛しい人が微笑んでいた。

 小さな恋人に飛びついて、大声で泣いた。溢れ出る涙を止めようとしなかった。全部流しきって干からびてしまえと泣き続けた。

 ようやく分かり合えたのに、家族と離れなくちゃいけないことが悲しくて。

 家族が、私を愛してくれていたことが、嬉しくて――。

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