第37話・娘の婚約
葛城皇子が皇太子として天皇の影で政治を動かすようになり数年が経った。
皇太子の宮が放火されたり、石垣の工人が反抗して大量脱走したこともあったり、葛城皇子はその度に激怒していたが、僕的には大きな事件もなくそこそこ平和だった。
その間、左大臣の巨勢臣が亡くなったが、葛城皇子は次の左大臣を任命しなかった。今の大臣は右大臣だけ、蘇我連子が就いている。
世代交代がうまくいかない感じで、阿倍臣も巨勢臣の嫡男もまだ若く、大臣の年齢になっていない。
僕は、若爺から「跡取りを早く」とせっつかれ、努力の結果、鏡王女との間に娘ができた。
「この度は、お子のお誕生おめでとうございます」
お祝いにきてくれた佐伯子麻呂が大袈裟に頭を下げる。
「おお、ありがとう」
「いやあ、それにしても姫様が鎌足とご結婚するなど、今でも信じがたい」
「姫様はやめてくださいませ。私も信じられませんわ。人の縁とは不思議なものです」
鏡王女が葛城皇子の妃だった頃、皇子に付いていた子麻呂とは顔見知りだったのかもしれない。ちょっと微妙な気持ち。
「まあ、久しぶりに訪ねてくれたんだ。ゆっくりしていってくれ」
「そういえば鎌足、有間皇子と最近会ったか? 」
「いや、会っていない。どうやら僕はあまり良く思われてないらしく、昨年末ご挨拶に伺っても居留守を使われた」
「有間皇子? 亡き先帝の大兄皇子ですか? 」
「うむ。そっちもそんな調子か。近頃は有間皇子が気狂いのようだとか、なんとか噂を聞いたのでな、知ってるかと思って」
「噂は知ってる。一応、宮の人間から時々こっそり聞き出してるよ。ただ、最近は警戒が強くなってね、僕はあまり近付けない」
「ああ。俺も近寄れないから、人から伝え聞いただけだ。最近は難波にいることの方が多いらしいが、難波からあちこちの湯治場に出かけては大騒ぎをしていると言われている」
「おそらくは気狂いのふりをしておられるのでしょうね」
「そうだな、そういう気はする。皇太子の目を逸らせるおつもりなのだろう」
「皇太子が先帝になさった仕打ちを思うと、いつ有間皇子に向けられるか、恐ろしいからな」
部屋の外の縁側に若爺が現れて目配せする。
「どうした? 」
「皇太子の宮の使いが持って来られました」
若爺が木簡を差し出す。
「何かありましたか? 」
皇太子からの使いと聞いて、鏡王女があからさまに眉間に皺を寄せる。
「建皇子が薨去なされたそうだ。明日、葬儀について打ち合わせをするので、今日の弔問は控えるようにと」
建皇子とは葛城皇子の息子で、母親は妃の蘇我造媛、かつて冤罪で死罪となった前右大臣石川麻呂の娘である。
「まだ十歳にもなっていないだろうに。なんと、不憫な」
「陛下はさぞお嘆きのことだろう。母親の顔も知らず口がきけない孫皇子を手元に置いて、大層かわいがっていたからな」
「このようなことを言っては不謹慎ですが、皇太子は陛下ほどには悲しんでおられないでしょうね」
「うむ、まあ、正直、安心した気持ちもどこかにあるだろうな」
「建皇子がお生まれになった時も、男の子と聞いて喜ばなかったくらいだ。右大臣家の妃が産んだ男子だぞ。普通なら大喜びのはずだろう? 」
「うむ、皇太子はずっと、大友皇子に跡を継がせたいと思っておられるからね」
「悩んでおられましたから。あれでも」
「でもまあ、これで大友皇子に決まりだろうな」
天皇の宝皇女は、孫皇子の建皇子の死去を嘆き悲しみ、殯でも涙を流した。
「この幼い皇子をたったひとりで埋葬するのはかわいそう。我が死後には同じ場所に葬るように」と命じるほどだった。
それから数日後、まだ建皇子の服忌が開けないうちに、葛城皇子は僕を呼んだ。
「殯に有間皇子が来ていただろう」
「ええ、」
「噂では有間皇子は気狂いだと聞いたが、ちゃんと礼儀を尽くしていた。だとすると気狂いのふりなのか、本物か、確かめてくれぬか? 」
「どうやら私は有間皇子に嫌われております。昨年末ご挨拶に伺っても居留守を使われました」
「ほお。そなたが。てっきり、親しくしているのかと思った」
「ええ、私は親しくしたいのですが、ね」
「ふうん……。まあよい、いずれ探ってみてくれ」
「……はい」
「ところで、そなたの娘、まだ結婚していないな? 」
「はい」
「我にくれぬか」
僕はこれまで葛城皇子に娘を嫁がせる話をしたことがなかった。葛城皇子が外戚を滅ぼすのはわかっているからだ。皇子もそれは承知している。
「お断りします。私はまだ死にたくありません」
「ははは、警戒しておるのか」
皇子は楽しそうに笑った。
「いや、我の妻ではない、息子のことだ」
「というと、大友皇子」
「うむ」
「しかし、そうなると私は大友皇子の岳父となり、権勢を振るうようになるかもしれませんよ」
「そなたなら構わぬ。それよりも、大友皇子の後見が欲しいのだ。そなたも存じているように、皇子の母は身分が低く母方の力はあてにできない。皆を納得させられるほどの人物を後見につけなければ、我の後継とするのは難しいのだ」
後見人は重要である。 葛城皇子の父親である田村皇子も、蘇我大臣の娘を妻にして大臣の後見を受けたことで、他の皇子たちを差し置いて天皇になれた。
「大友皇子が成人したら迎えたいから、承知しておいてくれ」
葛城皇子は、僕にかつての蘇我氏のように外戚として権力を持たせる危険を顧みずに、僕の娘を長男の大友皇子の妻にしたいと言う。それほどまでに大友皇子が可愛いのだ。
屋敷に戻った僕は、鏡王女に相談した。
鏡王女は、思った以上に気持ちの善い人だと感じる。僕に対しては時々サドっ気を出してくるが、トヨや娘たちへの気遣いを見ているとそう思う。
内密な相談もできるようになった。トヨも相変わらず頼りになるのだが、宮殿や貴族の内部の話になると鏡王女のほうが事情を熟知してる。
「葛城皇子から、大友皇子が成人したら娘を妃に欲しいと言われたのだが」
「なるほど。皇子の気持ちはわかります。内臣という味方をつけたいのですね。大友皇子は確か、十一歳でしたかしら」
「おそらく貴女の娘が欲しいと思っているのだろう」
「それは厳しいですわ。私の娘、ヒカミ(氷上)は生まれたばかりですもの。大友皇子の婚姻は早ければ四、五年後でしょう。年齢的にはトメよりミミモでしょうね」
トヨとの長女、トメは亡き爺が名付け親なのだが、次女のミミモはトヨがつけた名だ。
イルカとかトリとかウシマロとか、この時代の名前のセンスが僕には未だに理解できない。きらきらネーム世代の僕に言われたくないだろうけど。
「葛城皇子も三十歳を過ぎたからね。息子の行く末を本気で考えるようになるとはね。ようやく人の親としての気持ちがわかるようになったのかもしれない」
「そうだとよろしいのですが」
鏡王女は信じていない顔だ。
「できるなら有間皇子にも娘を嫁がせたいと思う」
「よろしいと思います。有間皇子のお歳は、ええと」
「来年には二十歳になられる」
「そうしたらやはり、トメかしら。三歳差になりますわ」
「うむ。来年あたりがいいか。そのうち申し入れてみよう」
「それと、まだ先の話になりますけれど、ヒカミはいずれ大海人皇子の皇子に嫁がせたいと思うのですが」
大海人皇子は葛城皇子の弟で、鏡王女の妹の額田王を妻にしている。二十代半ばとなり、なかなかしっかりした大人に成長した。僕が習った歴史通りにいけば、彼が天武天皇になるのだ。
「貴女は大海人皇子をどう思う」
「ひとことで言うと、人から信頼される方だと思います」
「ほお、」
「大海人皇子は葛城皇子と性格が全く違いますわ。正反対と言っていいほど」
「正反対で、人から信頼される方……」
「あら、つい……、ホホホ」
兄弟あるある。甘やかされて育った長男と、しっかり者の次男坊。いや、僕も次男坊だけど僕のことじゃないよ。しっかり者の部分は妹が持ってったから。
「このままですと、葛城皇子が即位した時に皇太子にする皇子がおられません。皆の反発を抑えて強引に大友皇子を立てようものなら、何か起きるかもしれません。ならば一旦、大海人皇子を皇太子に立てるのをお薦めしてもよろしいのでは。皆も大海人皇子なら納得するでしょう」
「なるほど。それもありか」
僕は大海人皇子ときちんと話したことはないし、会議でもほとんど発言しないしどのような人物かわからないが、何となく兄葛城皇子のやり方に不満を持っているところはありそうだ。
次世代の皇子たちが成長するまで、大海人皇子を中継ぎとするのもいいかもしれない。
僕はトヨに「いずれ皇子たちに娘を嫁がせるつもりだ」と話した。
「トメを有間皇子、ミミモを大友皇子に嫁がせたい」
「……前々から思っていたのですが」
トヨは言った。
「娘たちの教育を、奥方様にしていただきたいと」
「どういうことだね」
「そのような身分の御方の妻となるのでしたら、相応の教育が必要です」
「今までだって、ちゃんと教育していたじゃないか。読み書きもできるし」
「いいえ、普通の女性の教育と違うのです。奥方様でしたらお分かりになると思います」
「と、トヨが言うのだが」
と僕が鏡王女に伝えると、彼女は驚いていた。
「トヨ様がそのようなことを」
「僕は今のままで十分だろうと言ったのだが、奥方様に任せたいと言ってきかないのだ」
「ええ、実は私もそのほうがいいかと思っておりましたが、差し出がましいかと言い出せませんでした。トヨ様から言ってくださるとは」
「意味がよくわからない」
「皇族や良家の妻となるのでしたら、それなりの教養や礼儀作法を身につける必要があるのです。そうでないと、貴族社会で肩身の狭い思いをなさるでしょう」
「はあ」
「この先、皇子の妻となるのなら必要だと思いますよ」
「わかった。任せるよ」
「貴方様は、周りの女性に恵まれておられますね」
「ふふふ、そうだな、貴女といい」
確かにそうかも。しっかり者の妻たちがこんな僕でも支えてくれる。ありがたや、ありがたや。
そうして、トメとミミモは僕の本宅の鏡王女の元へ通い、上流階級の礼儀作法や教養の授業を受けるようになった。




