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第3話「己の名を刻む病、死地にて咲き誇る ―塙直之(塙団右衛門)―」

武士にとって、自らの名を後世に残すことほど甘美で、かつ呪わしい欲望は存在しない。家名を守り、武勲を立て、主君から感状を賜る。それは単なる名誉欲を超えた、自らの存在証明そのものであった。しかし、その「名を残す」という行為に対して、まるで不治の病にでも冒されたかのように、常軌を逸した執着を見せた男がいる。

塙直之。またの名を、塙団右衛門。

彼の生涯は、自己顕示欲という名の業火に焼かれ続け、ついにはその炎に自らの身を投じた、一人の道化にして狂戦士の記録である。歴史の大きな転換期において、ただ己の個人名だけを世界の中心に刻み込もうと足掻いた彼の姿は、滑稽であると同時に、痛切なまでの哀しみを帯びている。

直之の武将としての経歴は、決して華々しいものではない。元は豊臣秀吉の子飼いである加藤嘉明に仕え、鉄砲大将としてそれなりの武功を挙げていた。しかし、彼の過剰なまでの自尊心と、他者を見下す傲慢な気質は、厳格な軍律を重んじる主君との間に決定的な亀裂を生むことになる。関ヶ原の戦いにおける些細な戦術の相違から主君と激しく衝突した直之は、ついに加藤家を出奔する。

だが、この時すでに時代は彼のような男を必要としていなかった。徳川家康による天下の平定が進み、社会は戦乱から法治へと急速に舵を切っていた。武の腕一本で成り上がれる時代は終わりを告げつつあったのだ。

加藤家から執拗な奉公構(他家への仕官を禁じる回状)を出された直之は、仕官の道を完全に閉ざされ、惨めな浪人生活へと転落する。托鉢僧に身をやつし、諸国を流浪する日々。かつて戦場で勇名を馳せた肉体は薄汚れた墨染めの衣に包まれ、誰の目にも留まることはない。世間から完全に忘れ去られていくという恐怖。それは、自己の存在価値を他者からの称賛にのみ依存していた彼にとって、緩やかな死にも等しい拷問であった。

この絶望的な暗伏の期間が、彼の精神の中で「名を残す」という執念を、異形の怪物へと育て上げていったのだろう。

慶長十九年。豊臣と徳川の間に決定的な亀裂が生じ、大坂の陣の火蓋が切られようとしていた。全国から数万の浪人たちが、一獲千金と再起を夢見て大坂城へと集結する。その群れの中に、還俗し、再び武士の魂である刀を帯びた直之の姿があった。

彼が豊臣家に忠誠を誓っていたわけではない。徳川への反逆の意志があったわけでもない。彼が求めたのは、ただ一つ。日本中の耳目が集まる、史上最大にして最後の大舞台であった。己の名を歴史に刻みつけるための、これ以上ない死に場所である。

大坂城に入城した直之は、後世の常識では測り知れない奇妙な準備に取り掛かる。彼は、自らの名前である「塙団右衛門直之」という文字を大書した木札を、大量に作らせたのだ。

戦場において、兜に前立てを付けたり、目立つ意匠の甲冑を纏ったりして自己を誇示することは珍しくない。しかし、自らの名刺代わりとなる木札を大量生産し、それを戦場にばら撒くという発想は、前代未聞の奇行であった。

冬の陣における本町橋の夜襲。この局地戦において、直之の狂気は遺憾なく発揮される。

彼は闇夜に紛れて徳川方の陣営に奇襲をかけると、混乱して逃げ惑う敵兵たちを次々と討ち取った。そして、血溜まりが広がる陣屋のあちこちに、用意していた自らの名入りの木札をばら撒いて回ったのである。さらには、陣営の柱にまでその木札を釘で打ち付けた。

夜が明け、凄惨な襲撃の跡を検分した徳川の将兵たちは、至る所に散らばる「塙団右衛門直之」の文字に戦慄し、そして呆気にとられた。敵の首を取るよりも、陣地を占拠するよりも、ただひたすらに「自分がここで戦った」という署名だけを残していく異様な手口。彼の目論見通り、この一件により塙団右衛門の名は、敵味方を問わず大坂の陣に参加したすべての将兵の口に上ることとなった。

自らの名が人々の舌の上で転がされる快感。徳川の本陣においてすら己の武勇が語られているという事実。それは、長きにわたる浪人生活の中で干からびかけていた彼の自尊心を、最高純度の劇薬となって満たしていった。

しかし、破滅の足音は確実に近づいていた。翌年の夏の陣。大坂方の敗色が濃厚となる中、直之は紀州・樫井の地で、浅野長晟の軍勢と激突する。

もはや大局的な勝敗など、彼にはどうでもよかったのかもしれない。あるいは、木札をばら撒くという前回の演出すら、もはや生ぬるいと感じていたのだろうか。直之は、味方の陣形が整うのも待たず、圧倒的な兵力差を誇る敵の大軍に向かって、ただ一人、猛然と突撃を開始したのである。

それは戦術的な合理性を完全に欠いた、ただの自殺行為であった。供回りの兵たちすら置き去りにし、愛馬に鞭打って敵陣の真っ只中へと飛び込んでいく。四方八方から突き出される無数の槍。雨あられと降り注ぐ銃弾。その死の嵐の中心で、彼はただ己の渾身の力を込めて槍を振るい続けた。

血風が舞い、肉が裂ける。自らの身体から噴き出す鮮血すらも、彼にとっては己の存在を証明するための極彩色の絵の具であったのかもしれない。全身に無数の傷を負い、ついに落馬した直之は、群がる敵兵の刃の前にその命を散らした。

彼が最期にどのような表情を浮かべていたのか、語る者はいない。しかし、彼の首を取った敵兵は、その顔に恐怖や後悔の色はなく、どこか満足げな、凄絶な笑みが張り付いていたのを見たかもしれない。

塙直之の死体は無惨に踏み躙られ、首は戦利品として高々と掲げられた。大坂の陣は豊臣方の完全な敗北に終わり、戦国という時代そのものが完全に息の根を止められた。

武士たちは刀を鞘に納め、算盤を弾き、家系図の編纂に精を出す平和な時代がやってきた。己の命を燃やして戦場を駆けた男たちの記憶は、急速に過去の遺物として風化していく。

だが、あの樫井の砂地に血まみれになって倒れ伏した男の異常なまでの自己顕示欲は、彼が望んだ通り、確かに歴史の片隅に深く、奇妙な爪痕を残した。

彼の残した木札はただの木片であり、やがて土に還る運命にあった。しかし、自己というちっぽけな存在を歴史という巨大な壁に刻み込もうとした彼の狂おしいまでの情念は、平和な世を生きる行儀の良い武士たちには到底持ち得ない、禍々しくも純粋な熱を帯びている。

誰の記憶にも残らずに死んでいくことを何よりも恐れた男。彼は、名誉ある死などではなく、ただ己の名前だけをこの世に縛り付けるために戦国最後の火の海に身を投げた。その醜くも哀れな執念の炎は、数百年という時を経た今もなお、歴史という書物の行間で、誰かに読まれることを待ちわびながら静かに燻り続けているのである。

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