第4話「折れざる槍、時代に背を向ける ―渡辺了(渡辺勘兵衛)―」
忠義という言葉が、武士にとって絶対的な美徳として固定化され、主君への盲目的な服従が倫理の頂点に置かれるようになるのは、徳川幕府による太平の世が到来し、儒教的な道徳観が社会の隅々にまで浸透してからのことである。それ以前、すなわち血と鉄の匂いが立ち込める戦国乱世においては、主君と家臣の関係はより乾いており、ある種の契約的な側面を色濃く残していた。「渡り奉公」と呼ばれる生き方がある。己の武勇や才覚だけを頼りに、より高い禄、より良い待遇を求めて主君を次々と変えていく者たちのことだ。己の命を差し出すに値しないと判断すれば、容赦なく主家を見限る。それは決して不忠や裏切りではなく、明日をも知れぬ戦国の世を生き抜くための正当な生存戦略であり、己の腕に対する絶対的な自信の表れでもあった。
渡辺了。通称、渡辺勘兵衛。
彼は、そんな戦国特有の野性味あふれる「渡り奉公人」の、最後の生き残りにして、最も純粋な結晶のような男であった。浅井、織田、阿閉、豊臣、増田。天下の趨勢が目まぐるしく変わり、昨日の勝者が今日の敗者となる苛烈な時代の中、勘兵衛は自らの身の丈よりも長い槍一本を携え、数々の戦場を己の実力のみで渡り歩いた。彼の名は、単なる腕利きの傭兵としてではなく、一切の妥協を許さない気骨の士として、諸大名の間に広く知れ渡っていた。彼は強大な権力に媚びず、相手が誰であろうと己の意地を曲げることはなかった。その強烈な自我と誇り高さは、彼を比類なき猛将たらしめると同時に、極めて扱いづらい劇薬として権力者たちを悩ませ続けたのである。時代が次第に平穏へと向かい、多くの武将たちがその野性を捨てていく中で、勘兵衛だけは決して自身の在り方を変えようとはしなかった。
勘兵衛の武将としての真骨頂、そしてその異常なまでの頑固さが歴史の表面に浮かび上がったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦における事である。西軍に属した主君・増田長盛が本戦で敗れ、高野山へと追放された後、勘兵衛は増田家の居城である大和郡山城の留守居役を任されていた。天下の趨勢はすでに決し、東軍の圧倒的な大軍勢が城を包囲する中、主君が降伏したという正式な報せが届いても、勘兵衛は城門を固く閉ざしたまま決して開けようとはしなかった。
主君の命であろうと、正式な手続きと武士としての作法に則った開城でなければ、決して応じない。もし無理に押し通ろうとするならば、城と運命を共にし、寄手の大軍に一泡吹かせて自害するのみ。その徹底した抗戦態勢と、理路整然とした大義名分は、包囲する東軍の諸将を大いに手こずらせた。力押しで攻め落とすことは造作もないが、無用な血が流れることは避けたい。かといって、一介の留守居役のわがままを無視して通り過ぎるわけにもいかない。大和の地に重苦しい緊張感が漂う中、最終的に、徳川家康直々の書状と、それに伴う正式な使者が派遣されることによって、勘兵衛はようやく堂々と城を明け渡したのである。敗軍の将でありながら、少しも臆することなく敵の大軍を翻弄し、己の顔と武士としての体面を完全に保ったこの一件は、渡辺勘兵衛という男の底知れぬ胆力を世に知らしめることとなった。
この時、東軍の交渉役として勘兵衛と相対し、その度胸と尋常ならざる能力に惚れ込んだ男がいた。後に築城の名手にして外様筆頭の地位にまで上り詰める大大名、藤堂高虎である。高虎自身もまた、生涯に七度主君を変えた生粋の渡り奉公人であった。時代の流れを冷徹に見極め、生き残るためならばいかなる泥水もすする。己の才覚のみで下剋上の世を這い上がってきた高虎の目に、損得勘定を度外視して己の美学のみを信じて生きる勘兵衛の姿は、ひどく眩しく、そして自らの覇業に不可欠な得難い人材として映ったに違いない。
高虎は勘兵衛に対し、二万石という破格の禄を提示して召し抱えた。小大名にも匹敵するこの法外な待遇は、高虎の勘兵衛に対する評価の高さと、彼をなんとしてでも自らの陣営に引き入れたいという強烈な執念の表れであった。こうして、二人の稀代の「渡り奉公人」は、主従という新たな関係を結ぶこととなった。
しかし、この関係は最初から致命的な矛盾を孕んでおり、いずれ破綻する運命にあった。高虎が目指していたのは、来るべき徳川の治世において、盤石な領国経営を行い、組織の歯車として完璧に機能する強力な家臣団を作り上げることである。一方の勘兵衛は、いかに禄が高かろうと、己を一介の歯車に押し込められることを最も嫌う男であった。彼にとって主従の契約とは、己の槍を振るう最高の舞台を提供されることと同義であり、決して個人の意思を全体に奉仕させることではなかったのだ。
主君として組織の絶対的な規律を重んじる高虎と、あくまで個の武勇と矜持を最優先する勘兵衛。二人の間には、ことあるごとに激しい火花が散った。作戦会議の場においても、勘兵衛は高虎の戦術に真っ向から異を唱え、一歩も引こうとはしなかった。高虎にとって勘兵衛の存在は、頼もしい無双の矛であると同時に、己の絶対的な統治を揺るがしかねない危険な火種へと変貌していった。平時であればともかく、実戦の場において指揮系統を乱す存在は、軍隊にとって致命傷となる。二人の間に生じた亀裂は、互いの本質が水と油である以上、もはや修復不可能なほどに深まっていた。
決定的な破局は、戦国という時代の完全なる終焉を告げる戦い、大坂夏の陣において訪れた。豊臣家の命運を賭けたこの最終決戦において、藤堂軍は河内国八尾の地で、長宗我部盛親の率いる決死の軍勢と激突する。血で血を洗う凄惨な乱戦の中、勘兵衛は高虎の命令を明確な形で無視した。
高虎は勘兵衛に対し、後方で待機し、自らの馬廻り、すなわち親衛隊として本陣を固めるよう命じていた。それは将としての勘兵衛の力を温存し、大局的な戦術に組み込もうとする高虎の合理的な判断であった。しかし、武功を挙げることこそが己の存在証明である勘兵衛にとって、最も危険な最前線での槍働きを禁じられることは、武士としての死刑宣告に等しかった。目の前で繰り広げられる死闘。次々と討たれていく味方の将兵。血の匂いと硝煙が鼻腔を激しくくすぐる中、勘兵衛の中の戦国武将としての本能が、主命という理性の枷を完全に食い破ったのである。
彼は制止の声を振り切り、手勢を率いて独断で敵陣の真っ只中へと突撃した。その戦いぶりはまさに修羅のごとくであり、猛り狂う長宗我部軍を大いに混乱させ、結果的に崩れかけていた藤堂軍の窮地を救う大きな働きを見せた。しかし、この明らかな軍律違反は、軍隊という組織を束ねる高虎にとって、到底看過できるものではなかった。どれほど圧倒的な武勲を立てようとも、主命に背き、己の我意を優先する者は、これから始まる新しい統制の時代には不要の長物である。八尾の戦場において、勘兵衛が振るった槍は、長宗我部の兵を無数に突き伏せると同時に、主君・藤堂高虎との関係を永遠に断ち切る致命的な一撃となったのである。
戦が終わり、泰平の世が確定した後、勘兵衛は藤堂家を出奔した。自らの命を懸けた戦功が正当に評価されないばかりか、軍律違反として厳しく糾弾されることに、彼の海よりも高いプライドが耐えられなかったのだ。これに対し、激怒した高虎は、勘兵衛に対して「奉公構」という極めて重い処罰を下した。これは、他家が勘兵衛を召し抱えることを固く禁じる回状を全国の大名に回すという、いわば武家社会からの永久追放令であった。
かつて二万石の大身であった猛将は、天下の孤児となり、再び浪人の身へと転落した。しかし、身一つで戦場に放り出された勘兵衛の心に、後悔の念は微塵もなかった。己の生き方を曲げ、膝を屈してまで高虎の下で飼い慣らされることなど、そもそも彼には不可能だったのである。
天下は完全に徳川のものとなり、戦の火種は日本中から完全に消え去った。刀は儀礼的な装飾品へと成り下がり、武功よりも算盤の計算と書類の作成が重んじられる時代。諸大名は、厄介な火種となりかねない勘兵衛を、幕府の重鎮である高虎の意に反してまで雇い入れるリスクを冒すことはなかった。彼の圧倒的な武勇と幾多の戦場を潜り抜けた経験は、新しい時代において完全に無用の長物と化したのである。
晩年の勘兵衛の生活は、歴史の表舞台からは完全に姿を消し、静かで孤独なものであったと伝えられる。京都の片隅に質素な庵を結び、かつての輝かしい武勲を誰に語ることもなく、ひっそりと余生を送った。しかし、彼の背筋が曲がることは決してなかった。時代遅れと嘲笑われようとも、彼の中には常に戦場を駆けた一匹狼としての誇りが、冷たい炎のように燃え続けていた。
寛永十七年、渡辺了は七十九年の生涯を閉じた。戦国という荒々しい時代に生まれ、自らの槍一本だけを信じて天下を渡り歩いた男は、その刃を決して他人に委ねることなく、錆びつくことも拒み続け、誰にも折られることなく、ただ一人静かに時代に取り残されていった。彼が遺した名声は、やがて来る平和な世においてはただの厄介者の記録に過ぎない。しかし、組織という巨大な怪物に決して飲み込まれまいと抗い続けたその強烈な自我は、現代を生きる我々の心に、不気味なほどの凄みをもって、人間の誇りとは何かを無言で問いかけてくるのである。




