第330話『見えるものと見えないもの① 喫茶店』
見えるものだけが世界ではない。
ページの隙間、風の揺れ、目に映らない気配にこそ、心は静かに触れる。
ある日、アスは買い物を頼まれ、何となく気分を変えようと、いつも通らない脇道へ足を向けた。歩くごとに、空気がゆっくりと過去へ戻っていくようだった。軒並み立ち並ぶ建物はどれも古く、外壁の色は陽に焼け、ガラスもわずかに揺れて見えた。まるで大正の街並みに迷い込んだような、不思議な静けさが漂っていた。
ふと視線の先、小さな古い図書館がぽつんとあった。隣には、それに寄り添うように小さな美術館が繋がっている。
アスは好奇心にまかせて図書館に入り、背の高い棚から気になった本を数冊取った。木の匂いの残るカウンターで図書カードを発行してもらい、借りた本を抱えて隣の美術館へ。エントランスの一角にあるベンチに腰を下ろし、静まり返った空間でページをめくっていた。
『アスくん?』
聞き覚えのある柔らかい声に顔を上げると、通路の影から露葉が立っていた。
白い光の中に浮かぶようなその姿は、ここにいるはずのない誰かにふいに会ったような印象を与えた。
『こんなところで会うなんて』
露葉が微笑むと、アスも自然と笑みを返した。
『本当だねお姉さん。初めて通った道に図書館があったからさっき借りて、そしたら気になっちゃったから読んでたとこ。』
露葉は周りをさりげなく確認し、声を少し落として言う。
『あっちの喫茶店で少しお話しよ?』
アスは頷き、二人で並んで喫茶店へ向かった。
ガラス越しに古い柱時計の音が聞こえてきそうな、昔からあるレトロな喫茶店。低い照明が、木のテーブルに淡い琥珀色を落としている。
『雰囲気ある店だね?』
アスの言葉に露葉は頷き、
『いい感じ…』と小さく呟いた。その声には、この店の静けさをそのまま吸い込んだような余韻があった。
『アスくん、私の事気にしないで本読んでいいからね。』
露葉がニコニコして言うと、アスは軽く笑い、本を開いた。
しばらくして、注文した飲み物とケーキが運ばれてくる。湯気がふわりと立ちのぼり、甘い香りが漂った。
露葉は画集を開いたまま携帯を指先でいじり、時おり珈琲をすする。
アスはちらりと露葉の横顔を見て、紅茶に口をつけながら呟いた。
『上村松園』
『うん。そう、よく知ってるね。』
『その画集、兄ちゃんちに置いてたよね?前、タケルと見たことある。』
『そうなの。ずっと忘れて置いたままにしてたの。龍賢の家からもってきた。』
アスはチーズケーキを一口食べ、もぐもぐしながら画集に視線を向ける。
着物姿の女性たちが向かい風の中、どこかへ急ぐように歩いている。片方の女性は、もう一人に傘を差し出し、そっと気遣うように寄り添っている。悪天候の中でも、裾は風を的確に捉え、今にも吹き抜ける風の形まで描かれているようだった。
『雪吹美人図っていう絵。』
アスが見入っていることに気づいた露葉が、小さく説明する。
アスは紅茶を飲み、上目遣いで露葉を見て言った。
『へ〜雪も降ってるんだね。』
『うん。雪吹だから、見えないけど降ってるかも。』
『風が見える』
『そうなんだよね。上村松園の絵は風を感じるのよね。』
『裾が風を捉えてるみたいに描いてるのがすごいね。』
露葉は嬉しそうに、うんうんと相づちを打つ。
『傘を差し出し温かく見つめる女性の眼差しがいいよね。解説に“裾を翻していながら卑俗に陥らないのはさすが松園”って書いてあったけど、確かに上村松園の作品はどの作品も気品がある。』
アスはその言葉を聞きながら絵を見る。
『本当だね。こんな悪天候で向かい風なのに所作の美しさが滲み出てるね。』
『うん、本当に美しい。』
露葉は珈琲を一口飲み、アスの顔をそっと見てから、また画集に視線を落とした。
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静かに並んで座るだけで、世界の細やかな美しさがそっと胸に落ちる。
見えない風や気配を感じる力は、心の奥に残る小さな光になる。




