第9話:隣の席の争奪戦
入学して二週間が経った。
各部活の仮入部期間が始まり、僕はテニス部の体験に顔を出していた。ラケットを握るのは、正直そこまで得意ではない。
「一年、そこ打ち返してみろ」
先輩が放ったボールは、思っていたよりずっと速かった。ラケットに当てるだけで精一杯で、返球は明後日の方向に飛んでいく。
「もう一本」
次のボールも、その次も、まともに返せなかった。
「本当にやる気あるのか、それ」
周りで見ていた同期の視線が、じわじわと痛くなってきた。額から汗が伝い、コートの白線がやけに眩しく見える。
『代われ』
頭の中で声がした。
「……いや、いい」
『いいから代われ。見てられない』
言い合っている間にも、次のボールが飛んでくる。僕は目を閉じた。次に開けたとき、視界の質感が、ほんの少しだけ変わっていた。
ラケットを持つ手の力の入れ方が、さっきまでと違う。
「お、おい、さっきと動き違わないか?」
先輩の声が、微かに動揺していた。ネオは何も答えず、次のボールを鋭く打ち返した。ボールはコートの端すれすれを抜けていく。
「……っ、まぐれだろ」
次のボール。今度はさらに強く打ち込まれた。ネオはそれを、まるで待っていたかのような角度で叩き返す。ラケットとボールが当たる、乾いた高い音がコートに響いた。
「うそ、だろ」
先輩の顔から、余裕が消えていた。
「一年、お前、経験者か」
「『いい、初めてです』」
周囲がざわついた。
「え、うそ」
「今の見た? すごくない?」
隣のコートで練習していた女子たちが、こちらを指さしているのが見えた。何人かが小声で話しながら、ちらちらとこちらを窺っている。
『いい気分だ』
「……調子に乗るなよ」
ネオはやっぱりすごいやつだ。
***
その日を境に、クラスでの俺の扱いが、少しだけ変わった。
「瀬宮くんって、クールだけど時々変な冗談言うよね」
「テニス部でめちゃくちゃ強いって聞いたけど」
「なんかそつなくこなしそうな感じ」
そんな評判が、廊下ですれ違う誰かの会話から漏れ聞こえてくる。だが、それは表向きの評価に過ぎなかった。
「なあ瀬宮ってさ、柊さんと仲良すぎじゃね」
昼休み、廊下の角から聞こえた声に、足が止まった。
「話しかけてるとこ、よく見るよな」
「調子乗ってんじゃねえの、あいつ」
声の主たちは、俺に気づいていないのか、あるいは気づいていて言っているのか、判断がつかなかった。
『あんなやつら、気にすんな』
「別に気にしてない」
嘘だった。体が異常に重く感じられた。
***
「来月、グリーンスクールがあります」
佐々木先生が、ホームルームの黒板に「バス席順」と書きながら言った。
「県外に行きます。長野の高原です。バスで五時間くらいかかりますが」
教室のあちこちから、小さなどよめきが起きた。
「バスの席順、決めます。基本は自由席。ただし、お互いの合意がないまま隣に座るのはなしです」
その言葉を合図に、教室の空気がざわつき始める。男子がそれとなく美桜の方を見ていた。堂々と見る者、視線をすぐに逸らす者、様々だった。
文矢は、その光景を横目に小さく肩をすくめていた。だが彼の視線は、美桜には向いていなかった。教室の斜め前、石川寧々の席の方を窺っている。
『あいつ、石川好きだろ』
「……そうみたいだな」
そして飯野のどかというと、男子の視線が柊に集中していて眉根を寄せていた。何かを企むような目つきで、頬杖をついている。
『なんか企んでるな、あの顔は』
「嫌な予感しかしない」
女子のグループの一人が、無邪気に聞いた。
「ねえ柊さん、誰と座りたい?」
美桜は少し考えるそぶりを見せてから、口を開いた。
「せ……」
その一文字目が、教室の喧騒の中に落ちた瞬間だった。
「私、瀬宮くんと隣がいい!」
柊の声を遮るように、のどかの声が教室に響いた。周りの視線が、一斉にこちらへ集まる。
「え」
「いいよね? 瀬宮くん」
のどかは、返事を待つ様子もなく、俺の机の前まで来て両手を合わせて詰め寄ってきた。距離が近い。逃げ場がない。
「え、あ……」
『どうすんだよ』
「知らない、お前が決めろよ」
『無理言うな』
周りの視線が、痛いほどこちらに集まっていた。断る言葉を探している間に、のどかの勢いに押し切られる形で、口が勝手に動いた。
「う、うん」
「やった! 決まりね!」
のどかは満面の笑みで自分の席に戻っていった。
俺は、ゆっくりと美桜の方に目をやった。美桜は、何も言わなかった。ただ、さっきまで浮かんでいた小さな笑みが、少しずつ消えていくが見えた。
『あの展開の「せ」は……』
「ああ、そうだな。悪いことしたよ」
窓の外で雲が一つ、ゆっくりと形を変えながら流れていった。




