第8話:もう一度、春
合格通知を開いた翌朝。
僕は、いつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床に細い光の筋を落としている。埃が光の中でゆっくりと舞っているのが見えた。
「……合格、したんだよな」
『したよ』
「夢じゃない?」
『昨日から何回聞いてんだよ』
「だって実感がない」
『じゃあ頬でもつねってやろうか?』
「それはいい」
僕は布団の中で小さく笑った。頬に押し付けた枕の感触が、いつもより柔らかく感じられた。
その笑い声を聞いて、俺も笑った。
――懐かしい。
こんな朝が、ずっと続くと思っていた。
いや。
続くはずだった。
俺は知っている。約一年後、この日常が壊れることを。知っているからこそ、昨日までの俺なら何かを変えようとしただろう。誰かを遠ざける。危険な場所に近づかない。起こる出来事を先回りして潰す。そうすれば、未来は変わる。そう思っていた。
でも――。
『ギン』
「何?」
『今日、何する?』
「……え?」
『高校の合格も決まったんだろ。暇じゃん』
「……そうだな」
俺は少しだけ黙った。天井の木目を数えるふりをしながら、頭の中で言葉をいくつも選び直す。
『ゲームでもする?』
「それもいいけど」
『じゃあ勉強?』
「合格した翌日に勉強する奴いる?」
『ここにいるだろ』
「お前だけだよ」
そして、ふと思った。
――これでいい。今はこれでいい。先のことを知っているからといって、今日まで奪う必要はない。俺が戻ってきたのは、未来を完璧に操るためじゃない。ギンにこの時間を返すためだ。
「なあ、ネオ」
『ん?』
「……ありがとう」
『何が?』
「昨日」
『ああ』
窓の外で電線に止まった二匹の雀が、鳴いてすぐに飛び立った。
『礼を言うのは、まだ早いだろ』
「え?」
『お前、これから高校生活始まるんだぞ』
声が少しだけ弾んだ。
『楽しめよ』
***
四月。入学式の日。藍晶高校は、僕が想像していたよりもずっと大きかった。ガラス張りの校舎が朝の光をまっすぐに跳ね返している。広い中庭には、まだ真新しい植え込みの土の匂いが残っていた。正面には、春の風に揺れる桜。花びらが数枚、はらはらと舞い落ちて、制服の肩に張り付いた。
『でかいな』
「でかいな」
声が重なり合う。
「……」
『……』
「ふ」
『何笑ってんだよ』
「いや。お前と同時に喋ると、なんか変だなって」
『今さらだろ』
校門をくぐる。制服姿の生徒たちがあちこちで友達と話している。笑い声、上履きの擦れる音、遠くの吹奏楽部が音合わせをしているらしい管楽器の音が、風に乗って途切れ途切れに届いた。
「席、ここだよ」
教室に入ると、隣の席らしい女子が声をかけてきた。
「……え?」
「そこ、君の席」
「あ、ありがとう」
「よろしくね」
柔らかい笑顔。茶色がかった髪が、窓から差し込む光を受けて、輪郭だけがうっすらと透けて見えた。声は、思っていたよりも落ち着いていた。
机の上に置かれた名札に、目が吸い寄せられる。
柊。棘を持つ、あの常緑樹の名だった。なのに、名前に続くのは美しい桜色。棘と儚さ。矛盾した二文字が並んでいるだけなのに、それを見た瞬間、心臓が強く波打った。耳の奥で自分の鼓動の音がやけにはっきりと聞こえた。
『……かわいいな』
「……」
『おい』
「……うるさい」
『何でだよ』
柊が首を傾げる。
「どうかした?」
「いや……何でもない」
「そう?」
彼女は小さく笑った。
「じゃあ、改めて。よろしくね」
「……よろしく」
美桜は前を向いた。僕はしばらく、その横顔を見ていた。
『ギン』
「何?」
『惚れたか?』
「惚れてない」
『動揺してるな』
「……うるさい」
教室の席に、生徒が全員座り終わった頃。ガラガラ、と引き戸の音がして、先生が教室に入ってきた。
「今日からこのクラスの担任の、佐々木です」
入ってきたのは、ムスッとした顔つきの三十代前半の男だった。未来では、佐々木先生はまあまあ好かれることになる。だが今この瞬間の第一印象は、面倒くさそうなハズレ枠の先生、それに尽きた。
「さっそく自己紹介をお願いします。どうする、前からか後ろからか」
「後ろからがいいでーす」
真っ先に声を上げたのは、教室の後方に座る女子だった。快活な声が、静まり返っていた教室の空気を一瞬でかき混ぜる。
「では、前からで」
「え! なんで」
クラス中に、小さな笑いが漏れた。それまで新入生特有の緊張でカチカチだった空気が、彼女の一声で少しだけ緩んだ気がした。
自己紹介のトップバッターは、一番前の席の男子だった。緊張した面持ちで立ち上がる。
「田正広です。出身は近所の中学で、部活は野球部に入ろうと思っています。よろしくお願いします」
まばらな拍手。前方に座っていた男子二人が、小声で「テニス部くる?」「いや野球部行くわ」と話しているのが聞こえた。
「石川寧々です。趣味は読書です。よろしくお願いします」
身長はとても小さかった。そして短く、それだけ言って座った。声は小さかったが、姿勢はまっすぐで綺麗な顔をしていた。近くの男子が「静かそう」と隣に耳打ちしているのが、僕の席にまで届いた。
次に立ち上がったのは、僕だった。
「瀬宮圻です」
名前を口にした瞬間、教室の何人かが顔を上げるのがわかった。珍しい名前だからだろう。
「えっと……」
ああ、声が震えて上手く喋れない。
『俺に任せろ』
「『瀬宮って名字珍しいかもしれないですけど、まあなんか覚えやすいと思うので覚えてください。あと基本的に圻って呼ばれると喜びます』」
「よ……よろしくお願いします」
拍手に紛れて僕は急いで座った。
「ネオ、何してるんだよ!」
小声で俺にそう聞いた。
『ギンの自己紹介はつまらねーだろ? これで友達できるな』
僕は隣席の美桜をひっそり見る。彼女はくすくす笑っていた。
何人かの発表が終わり、柊の自己紹介に移っていた。
「柊美桜です。趣味は特にないですけど、映画は好きです。映画好きって人は話しかけてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
教室の空気が、さっきとは少し違う質感に変わったのがわかった。前の方に座る男子の一人が、隣の友人の肘を小さく突いている。女子の何人かも、「かわいい」と小声で言い合っているのが聞こえた。
柊は特に気にする様子もなく、軽く一礼して座った。
『やっぱりかわいいよな』
「……知らない」
次に立ち上がったのは、眼鏡をかけた男子だった。
「文矢純一です。特技は、あまりないです。物理とかそういうのが好きです」
淡々とした口調だった。誰かが「賢そう」と呟き、別の誰かが「メガネ男子だ」と小声で盛り上がっている。文矢は表情を変えず、静かに席に着いた。
――文矢。
あの目を、俺は知っている。まだ疲労も刻まれていない、まっさらな目だ。
「茂原藍です。自慢じゃないんですけど、藍晶高校の藍って漢字と名前が同じです。よろしくお願いします」
ぐるりと一周した自己紹介が終わると、佐々木先生が黒板にチョークを叩きつけるようにして、日直の順番を書き始めた。教室の中では、まださっきの自己紹介の余韻で、あちこちで小さな会話が続いていた。
「ねえねえ、瀬宮くんって珍しい名前だよね」
振り返ったのは、さっき一番に手を挙げた女子だった。
「飯野のどか。よろしくね」
「よろしく」
彼女は人懐っこい笑顔で、まっすぐにこちらを見ていた。
『友達候補、増えたな』
「あんまり多くても困るけど」
『……』
俺にはギンがどんな顔をしているか、わかっていた。
窓の外を眺めるその顔は、幸せそうだった。
***
入学してから一週間。
「ここ、先生が言ってたところ?」
美桜が僕のノートを覗き込む。シャープペンの芯の匂いと、ノートの新しい紙の匂いが、彼女が身を寄せるたびにふわりと漂った。
「たぶん。じゃあ、ここ写していいよ」
「いいの?」
「うん。私もここ分からなかったから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
僕たちは、そんな会話を繰り返した。朝礼前、休み時間、授業、昼休み。それだけだった。けれど僕には、それが何より大切だった。
『ギン』
「何?」
『あんまり柊に近づきすぎるなよ』
「……なんで?」
『知らない』
「お前が言ったんだろ」
『なんとなく』
「なんとなくで人間関係に口出すなよ」
『俺の勘だぞ? 信じてみろよ』
「それ一番信用できないやつじゃん」
『ひどいな』
その日の放課後。夕方の光が廊下を橙色に染め、窓枠の影が床に長く伸びていた。
「瀬宮」
廊下から声をかけられた。振り返る。眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。
「……何?」
「文矢」
「え?」
「俺の名前。文矢」
彼はそう言って、手を差し出す。手のひらがひんやりしていた。
「同じクラスだろ」
「ああ……うん」
握手する。その瞬間、俺は少しだけ固まった。
「どうした?」
「……いや」
俺は手を離した。手のひらに、じんわりと汗をかいていた。
「よろしく、文矢」
「ああ」
夕焼けが沈んでいく。昼間に温められた廊下には、まだ微かな熱が残っていた。
その日の夜。僕は自分の机に向かっていた。デスクライトの明かりの下、新しい教科書のインクの匂いがまだ残っている。新しい制服はクローゼットの中で綺麗に吊るされていた。新しい学校。そして――新しい一年。
机の端には、合格通知が置かれている。
「ネオ」
『ん?』
「高校、案外面白いな」
『ああ』
返事が返ってくる。
合格通知の下に、一枚の小さな紙が挟まっていた。いつ入れたのか分からない。指先で摘み上げると、紙は思いのほか薄く、蛍光灯の光にわずかに透けた。
そこには、見覚えのない文字が一行だけ書かれていた。
令和九年一月十三日。
俺はその日付を見つめた。
指先が冷たくなる。
『……何で』
「どうした?」
『……いや』
俺は紙を裏返した。
何も書いていない。
それなのに、背中には嫌な汗が流れていた。
知っているはずのない人間が――
この世界にいる。




