第7話:酔いしれるブツ
ギンは不思議そうに言った。
「受かってるかわからないじゃないか」
机の上には、まだ手つかずの封筒。僕の指先が、その端に触れたまま止まっている。破れば全部わかってしまう。それだけのことが、こんなにも怖い。机の角に置かれたままの筆箱、開けっぱなしの参考書。何気ない部屋の景色までもが、今日という日の重みを引き立てているように見えた。
『ギン……』
言いかけて、また止まる。俺は本当に、何をしているんだろう。謝るために戻ってきたはずだった。独房の暗闇の中でずっと練習してきた言葉のはずだった。なのに、今この瞬間さえ、恐怖に呑まれて言葉を差し出せずにいる。
「謝るって?」
『……もしかして、聞こえてた』
「まあ、お前が僕に謝ることなんて、山ほどあるだろうしな」
ギンは笑ってみせた。緊張を誤魔化すための笑いだと、すぐにわかった。瀬宮の手が微かに震えている。追い詰められると笑って受け流す。それは昔から変わらない、こいつの癖だった。俺はその癖を、誰よりも近くで見てきた。夏でもないのに、手のひらだけがじっとりと汗ばんでいた。
『受かってるよ。絶対、受かってる』
「根拠を言えよ」
『根拠なんてねえけどよ。お前は頑張ってきたじゃないか。理不尽なことがあっても、辛いことがあっても、ちゃんと机に向かい続けてきた。それを一番よく知ってるのは、俺だ』
言いながら、視界がにじんだ。まずい、と思った瞬間にはもう遅かった。瀬宮圻の右目から、頬を伝って熱いものが流れ落ちていく。拭っても拭っても、袖が濡れるだけで余計にあふれてくる。
「おい、どうしたんだよ。なんで泣いてるんだ、お前らしくない」
『忘れてくれ。なんでもないからよ』
なんでもない、わけがなかった。この涙の理由をギンはまだ知らない。何度、この日に立ち会えるなら他のことは全部いらないと思ったか。
僕は机に向かって歩き出す。封筒を手に取った。
大きく息を吸う。
ああ、これが親の気持ちというやつなのか。子どもの積み重ねた苦悩を知っているからこそ、報われてほしいと、胸が潰れそうになる。答えはもう知っているはずなのに、ギンの緊張までまるごと引き受けてしまう。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいた。
封筒を横一直線に破く。ビリ、と乾いた音。中から白い紙が覗く。取り出す手が直前で止まった。
二十四年間、この身体を動かしてきたはずなのに。こういうときだけは、身体の方が俺より先に答えを知っているような気がする。馬鹿げてると思う。だが否定できない。
俺は知っている。
この一秒先に何が書かれているか。
『見てみろよ』
ギンが積み上げてきた夜も、飲み込んできた言葉も、拳の下で丸めた背中も――全部、俺は覚えている。
『な、言ったろ』
絶望はいつか裏返る。
白い紙が光を弾いた。
【合格】
「まじ、か」
声が震えていた。
『認めろよ。お前はすごい。ちゃんと報われたんだ』
瀬宮は部屋を飛び出し、ドタドタと階段を駆け下りる。
『はしゃぎすぎだ、お前』
階段の下にあの三人がいた。顔を見ただけでわかる。忘れられるはずがない顔だった。
「母さん、父さん、栞。僕、受かったよ」
両親は顔を見合わせて笑い、栞は肩を震わせながら、瀬宮を見て微笑んでいた。そして瀬宮の胸を軽く小突いた。母は目元を指で拭いながら、何度も頷いていた。その仕草のひとつひとつが、あの家では見たことのないものだった。感情を隠さなくていい。ここにはそういう空気があった。
僕の両目から、涙が止まらなくなる。拭っても拭っても、袖が濡れるだけだった。やがて声を上げて泣き始める。この家族の前で、こんなふうに感情を剥き出しにできる日が来るなんて、あの家にいた頃の僕には、想像もできなかった。
窓の外で、夕方の風がカーテンを揺らしていた。西日が壁を薄いオレンジ色に染めている。
俺はふと、独房の天井を思い出した。染みだらけの灰色の天井。あそこで何度も、この瞬間を想像した。もし戻れたら、真っ先に謝ろうと決めていたはずだった。なのに、いざこうして目の前に立つと、言葉のひとつも出てこない。情けないと思う。ようやく手に入れたはずのこの機会を、俺はまた無駄にしようとしている。でも話すべき言葉と、今出せる言葉はいつも違う。俺はそのことを、独房で嫌というほど学んだはずだった。
俺は、それ以上何も考えないようにした。考えれば余計に胸が苦しくなる。
ギンは知らない。母さんも、父さんも、栞も、誰も知らない。この瞬間、瀬宮圻の右目から流れているのがギンの涙ではなく、俺の涙だということを。
『天が下の万事には時期があり、すべての事には時がある』
コヘレトの言葉 第3章1節
――僕は
俺なのか
それとも
俺の中で
ずっと眠っていた僕なのか
名前を失った者よ
名前を与えられた者よ
新しい名を
白き石に刻まれた者よ
その名を呼ぶのは
誰なのか
生きている者か
死んだ者か
それとも――




