第6話:二十四年目の返還
——十日後。
昼は面会の呼び出しがあった。予定より三日も早い。
「『早いな』」
ガラス越しに座った文矢は、前回よりも顔色が悪かった。目の下の隈が、二十四年分の疲労を物語っている。
「早めたんだ。理由は、あとで話す」
彼は、指輪を右手で無意識に触っていた。
「『柊の死因を、教えてくれ』」
俺は先に切り出した。文矢は少しの間、口を閉ざした。
「病死、と記録されている」
「『記録されている、って言い方だな』」
「……解剖記録には、別の所見が残っていた。だが遺族の希望で、公にはされなかった」
「『別の所見?』」
「言えない。今は」
文矢の目は、噓をついている目ではなかった。むしろ、何かを言わないようにするために、必死に力を入れている目だった。俺はそれ以上聞くのをやめた。
「『なあ文矢。お前、なんで二十四年もこれに時間を使ったんだ』」
「……ギンと柊さんに、借りがある」
「『借りって』」
「今は、それだけ言わせてくれ」
その言葉に、それ以上踏み込む隙間はなかった。ただ、指輪を触る文矢の指の動きが、いつもより少しだけ長く続いていたことを、俺は覚えている。
『起きてくれギン。ここからはお前の出番だろ』
俺はしばらく黙っていた。頭の中でギンの声を探した。応答はない。もう何年も応答がない。
文矢に求められているのはギンなのに。
「『一つだけ、条件がある』」
「言ってみてくれ」
「『戻った先で主導権はギンに渡す。俺は……消えても構わない』」
文矢は驚いた顔をしなかった。まるで俺がそう言うことを、最初から分かっていたかのように。
「それは、保証できない」
「『なぜ』」
「装置は、脳波と記憶を過去に送る。だが、意識の主導権がどちらに渡るかまでは、制御できていない。……理論上は君が消えて、ギンが目覚める可能性もある。理論上は逆もある」
「『逆、って』」
「お前だけが戻って、ギンは二度と戻ってこないかもしれない」
俺は自分の右手を見た。ギンの手だ。24年間、俺が代わりに動かしてきた手。爪の形も、指の長さも、俺のものではない。それなのに、こんなにも馴染んでしまっている。
「『それでもいい』」
「本気か」
「『ギンは俺が殺してしまった。もう今はギンに謝る機械なんて一切ない。ニブイチで機会ができるなら、安いもんだ』」
俺は自分の胸に手を当てる。
「『ギンだってそれを望むはずだ』」
文矢はしばらく俺を見つめたあと、静かに頷いた。
「準備にはあと十日かかる」
「『文矢。最後にひとつだけ』」
「なんだ」
「『柊は……ギンのことを、どう思っていた』」
文矢の表情が初めて崩れた。ほんの一瞬だったが、俺は見逃さなかった。
「それは戻ってから、自分の目で確かめてみろ」
面会時間終了のブザーが鳴った。
「じゃあな、瀬宮」
文矢は立ち上がり、今度は振り返らずに面会室を出て行った。
俺はしばらくガラスを見つめていた。反射した自分の顔は瀬宮圻だ。だが、その表情筋の動かし方は、間違いなく俺のものだった。
24年かけて、俺はこの顔を自分のものにしてしまっていた。
——それを、また明け渡す。
怖くなかった、と言えば嘘になる。だがそれ以上に、確かめたいことがあった。
柊美桜がどうして亡くなったのか。そしてギンが目覚めたとき、俺のことを少しでも許してくれるのか。
独房に戻った夜、消灯の直前、また声が聞こえた。
『——お前のせいだ』
今度ははっきりと分かった。
これはギンの声じゃない。
俺自身の声だった。
あれから十日目の朝は、いつもと同じ音で始まった。看守用AIロボットの車輪が廊下を滑る音。配膳口が開く、小さな金属音。
だが俺は動かなかった。
「瀬宮、朝食ですよ」
配膳口から差し出されたゼリーに、俺は手を伸ばさなかった。
「食べないのですか」
AIの声には、感情の起伏がない。それでも、いつもと違う俺の様子は、記録として拾われているはずだった。
「『文矢に伝えろ』」
俺は独房の壁に向かって言った。
「『準備はできた』」
AIは、一拍置いてから答えた。
「承知しました」
車輪の音が遠ざかっていく。世界を変える合図にしては、あまりにも呆気ない。
怖い。二十四年分の記憶も、感覚も、この身体に馴染んだ癖も、今日で終わるかもしれない。それでも、恐怖よりも大きなものが、俺の中にあった。
——ギンに謝りたい。
それだけだった。他のことは、もうどうでもよかった。
***
午後、いつもの面会室。文矢はカバンから、あの日渡された小型機械よりも一回り大きな装置を取り出した。
「時間がない」
文矢の声には、余裕がなかった。
「本来はもっと段階を踏むはずだった。だが、施設側にこの部屋の使用申請が却下された。今日を逃せば、次はいつになるか分からない」
「『却下されたのに、なぜここにいる』」
「聞くな」
文矢は答えなかった。その代わり、装置の配線を繋ぐ手が小刻みに震えていた。
天井のスピーカーから警告音が鳴り始めた。
〈第七面会施設、未承認の機器使用を検知。ただちに作業を中断してください〉
「『文矢』」
〈中断してください。中断しない場合、強制排除に移行します〉
面会室の廊下の向こうから、駆動音が近づいてくる。警備用AIだ。
「『文矢、時間がない』」
「分かってる」
文矢は、震える手を握りしめて止めた。
「聞いてくれ、瀬宮。お前がタイムリープで戻るべきなのは、殺害の夜じゃない。その約一年前だ」
「『そんなに前からどうして』」
「君があいつを殺すことになった原因は、殺害の夜だけじゃないんだろ?」
なぜか胸が熱くなっていく。
「目的は殺人を止めることだけじゃない。柊さんを死なせないこと。そして——君自身が救われること」
扉の向こうで、警備AIの声が響いた。
〈強制排除まで、十秒。作業を中断してください〉
「『文矢……ありがとう』」
文矢は自分の人差し指から、指輪を外した。白銀の輪。刻まれたAgの文字。
「この指輪を持っていけ」
俺は銀の指輪をはめた。少し小さかった。
〈五秒〉
「『文矢、装置は』」
「行け」
文矢は装置に取り付けられたボタンを次々と押す。装置がギシギシと鳴り、震える。
〈作業を中断してください〉
視界が縦に裂けるように歪んだ。
「作業を今すぐに中断しなさい」
今度は人間の声だった。どこか聞き覚えのある女性の声だ。
警備AIが部屋に踏み込んでくる音を、最後に聞いた気がした。それとも、あれは装置の駆動音だったのかもしれない。もう区別がつかなかった。
意識が、粒子のように散らばっていく感覚。24年分の罪悪感が、一瞬にして二つの想いに姿を変えた。
美桜への届かなかった愛。
ギンへの、消えない謝罪。
——ごめんな、瀬宮圻。またお前の身体を使ってしまう。
***令和八年二月十二日
『真っ暗だ』
俺は手探りで壁を探した。
パチッ。
部屋の明かりがついた。
懐かしい書類だらけの汚い部屋、汗と土の匂い。机の上は、未開封の藍晶高校の合格通知と、一冊の本が置かれている。
俺は自分の手を見つめる。
爪の形。指の長さ。——24年間、ネオが動かしてきた手だ。
でも不思議なことに、面会室ではめた銀の指輪は、もう指にはなかった。
「緊張、してきた……」
『え』
低く、どこかやる気のない声だった。
その声を、俺は知っている。
24年間、一度も聞いていなかった声。
——ギンの声だった。




