第5話:『ネオストレフォ』
【新・ネオとギンの約束】
一、ネオは瀬宮圻の体を使う時、ギンに報告をしなければいけない。
二、夜はどちらも静かにしなければいけない。
三、わがままを言って、相手に押し付けてはいけない。
四、いかなることがあっても、これらの約束を破ってはいけない。
五、ネオとギンは対等な関係であることを忘れてはいけない。
独房の中で、俺は背筋を伸ばし、両手を膝の上に置く。コンクリートの床は、素足の裏から体温を奪っていく。二十四年間、毎晩繰り返してきた姿勢だった。ギンがそうしていたからだ。深い理由も知らずにただ真似ていた。
「『先の事は既に過ぎ去りたればなり』」
最初は意味も分からず口にしていた。宗教にも神にも興味はなかった。だが唱えるたびに、ギンの記憶が薄く滲み出てくることに気づいた。叩かれた夜の床の冷たさ。父の低い声の振動。母が本を閉じる音。
「『見よ、我すべての物を新にするなり』」
お前が支えにしてきたものを、俺が壊した。
だから俺はこれを唱え続けなければいけない。
新しくなる資格が俺にあるとは思わない。二十四年間もこの身体を支配し続ける資格もない。昔、ギンが俺に冗談交じりで言ってきたことがあった。
「もし僕がどうしようもなくなった時、ギンが身体を動かしていいから」
『どういうことだよ』
「勝を得る者には……白き石を與へん、その石に新しき名を録せるれど、之を受くる者の外は知るなし。ヨハネ黙示録、2章17節」
『どういう意味なんだ』
「約束の五項目、忘れてないな? ……君が何かで罪悪感を感じた時、これを唱えると良い」
俺はその言葉をここで反芻させる。
「『勝を得る者には……白き石を與へん、その石に新しき名を録せるれど、之を受くる者の外は知るなし』」
本当にこれは励ましの文なのか、俺にはわからなかった。それでも、いつかお前が戻ってきたとき、この二つの言葉だけは、汚さずに返したかった。
「瀬宮、面会だ」
看守は毎回、俺を侮蔑した目で見てくる。金属の扉が開く音は、二十四年経った今も慣れない。骨に響くような重い音だ。
面会とはいえ家族はもういない。弁護士でもない。名簿にはただ一つの名前だけがあった。高校の同じクラスだった男の名が。
面会室の椅子は、尻の形に窪んでいた。何百人が座った跡か考えたことはない。考えないようにしている。合成皮革の座面はひんやりと冷たく、座った瞬間に小さく空気の抜ける音がした。ガラスの向こうに座った文矢は、記憶より瘦せていた。顔つきはあの頃とあまり変わらない。ヒゲを伸ばしているのか。そして人差し指には白銀色のリングがはめてある。リングにはAgと彫られていて、コートの隙間からは白衣が見える。蛍光灯の光を受けて、リングの表面だけが小さく光っていた。
「久しぶり、瀬宮。老けたな」
声はとても低くなっていた。ガラス越しでもわかるくらい、疲れが混じっている。
「『何の、用だ』」
文矢は優しく指輪を撫でた。爪の先が金属を滑る、小さな音だけが聞こえた。
「……単刀直入に言う。君を、ここから出す方法がある」
「『脱獄の話なら、聞かない』」
「違う。出すんじゃない」
文矢は鞄から何かを取り出そうとして、看守用AIロボットの視線に気づき、手を止めた。代わりにUSBのような小型機械と、その上にロボットの死角としてA4の紙を渡してきた。
紙には、長い英文がびっしりと書かれていた。ざっと見たところ、俺が刑務所に入っている期間に起きた大きな出来事をまとめたものらしい。そして本命の小型機械を触ってみる。表面はひやりと冷たく、指先に触れた途端、微かな振動が伝わった。触ると空中に青い板のようなものが生成された。淡い光が面会室の薄暗さの中に浮かび上がる。
「『これは?』」
開くためには、パスワードが必要ですという画面が表示された。
文矢は口元を隠した。
「A2SG88」
「『なぜそのパスワードなんだ』」
「犯人を示すコードだ。このコードだけは過去でも覚えておけ」
空中をタップし、丁寧に打ち込むと何やら製図のようなものが出てきた。専門用語は俺には分からない。ただ隅に書かれた名前だけは読めた。
「『ネオストレフォ?』」
「あの日から、私はずっとこれを研究していた。これは脳波を、正確には——君の脳が発している信号ごと、過去の自分に送り届ける。理論上は」
「『理論上は』」
「まだ、人体では成功していない」
ガラス越しに、彼の目だけが以前と変わらず澄んでいた。あの頃、教室の隅でいつも本を読んでいた目だ。
「『なぜ』」
彼は少しの間、答えなかった。
文矢が手招きをして、俺はガラスに耳を当てる。ガラスは冷たく、耳の輪郭にひんやりと吸い付いた。
「クラスメイトの柊さんは、死んだ」
その一言で、喉の奥が勝手に締まった。足が地面についている心地がしない。耳から全身にわたって熱くなっていく。心臓の音だけが、面会室の静けさの中で異様に大きく聞こえた。
「あの日、君が捕まった後のことだ」
「『死んだ? 柊が』」
「驚くのも無理はない。逮捕後の君といったらもう……」
彼はしばらく、俺に目を合わせようとしなかった。
「『じゃあ、戻れたとして……何か変わると』」
「何も殺さない世界に戻れる」
「『戻った先で、また同じことが起きなければ、な』」
「起きさせなければいい」
言葉は簡単だった。だがその簡単さの裏に、俺の知らない何かが張り付いている気がした。彼はなぜ、こんな技術を持っている。なぜ、二十四年越しに俺の元へ来た。そして柊が……聞きたいことは山ほどあった。だが、面会時間の残りを告げるブザーが、先に鳴った。無機質な電子音が、面会室の空気を切り裂くように響いた。
「返事は、次までに」
彼は立ち上がり、一度だけ振り返った。
「藍晶に、戻りたくないか」
文矢は面会室を出て行った。ドアの閉まる音だけが、しばらく耳に残った。俺はしばらく動けなかった。
夜、独房の天井を見上げながら、ずっと考えていた。天井のシミの形が、いつもと違って見える気がした。
——ネオは、まだいるのか。
——本当に、戻れるのか。
——戻った先で、俺はまた同じ場所に立ってしまうのか。
俺は、なんとなく柊のことも頭に浮かんだ。
柊を好きなのは俺じゃない。もう一人の俺だ。
きゅっと胸の奥が痛む。
ああ……ギンにとって彼女の存在は大きかったのか。
色々腑に落ちないことがあるが、消灯の時間はやってくる。廊下の電灯が落ちる、カチッという乾いた音。暗闇の中で久しく聞いていなかった声が、頭の中で小さく響いた。
——お前のせいだ。
目を閉じた。また聞こえてきた。
それでも聞こえなかったふりを、貫いた。
朝食はいつも通りだった。小さなゼリーだけ。ひんやりとした甘さが舌の上に広がり、喉を通り過ぎていく。だけとはいえ、一口一食分の栄養を補える、刑務所ではお馴染みの食事だ。
看守用AIロボットが配膳の記録のチェック音だけ残していく。無機質な電子音が、独房棟に規則正しく響きまわっていた。




