第4話:クリティカル・モーメント1
入学式の朝、俺は校門の前で立ち止まった。高校の校舎は、想像していたよりずっと大きかった。ガラス張りの建物が光を反射している。校舎の正面は湖が広がり、かすかな潮の香りが漂う。正面玄関の吹き抜けは、天井まで見上げると首が痛くなるくらい高い。
「でかいな」
『でかいな』
俺とネオの声が、ほとんど同時に重なった。
教室に入ると、まだ誰も座っていない机が、整然と並んでいた。窓際の一番後ろの席に座り、外を見る。校庭の向こうにグラウンドが広がり、さらにその奥に体育館とプールが見えた。
入学式が終わり、最初のホームルームで、隣の席になったのが柊美桜だった。
「よろしくね」
振り向いた瞬間、目が合った。艶のある茶髪を耳にかけながら、少し照れたように笑う。頬に光が当たって、教室の白い光がその輪郭を柔らかくしていた。
『……かわいいな』
ネオが勝手に呟いた。俺は何も言わずに、机の中の教科書を並べ直した。それだけで指先が少し熱くなった気がした。
授業が始まると、高校の勉強は中学より格段に速く進んだ。数学の教師は黒板いっぱいに数式を書き、現代文の教師は文庫本を片手に早口で解説する。ノートを取る手が追いつかない。柊は隣の席で、時々こっそりノートを見せてくれた。
「ここ、写す?」
「……助かる」
それだけのやり取りが、毎日少しずつ増えていった。
数ヶ月が過ぎ、秋になった。
「今度、うちの学校の文化祭あるから。来てもいいけど、来なくてもいい」
栞のそれは素っ気ない言い方だったが、行かない理由もなかった。
栞は中高一貫校に通っている。中学でも文化祭をやるらしい。
『どうせ行くなら、ちゃんとした格好で行くぞ』
ネオが言い出したのは、文化祭の前日のことだった。
『せっかくの文化祭だぞ。栞に「圻、ダサ」って思われたらどうすんだよ』
「別に」
『お前は別にでも、俺は嫌なんだよ』
こいつに言われると、妙に説得力があった。結局、俺たちは駅前の美容室に足を運んだ。
「今日はどんな感じにしますか」
「……普通で」
「『いや、普通じゃ普通すぎる。もう少し明るい印象で』」
鏡の中で、ネオが勝手に注文を付け加える。美容師は少し戸惑いながらも、鋏を動かし始めた。切られた髪が肩に落ちる感触。鏡の中の自分の輪郭が、少しずつ変わっていく。
仕上げに、ワックスを指先に取った美容師が、髪を立ち上げるように整えていく。
「こんな感じでどうですか」
返事は頷いただけだった。自分でも恥ずかしい。ちゃんとお礼を言えばよかった。
『いいじゃん。栞、驚くぞこれ』
鏡の中の自分は、少しだけ知らない誰かのようだった。
栞の学校の文化祭当日、校門をくぐると太鼓の音と呼び込みの声が入り混じって聞こえてきた。校庭には模擬店が並び、焼きそばの匂いと綿あめの甘い匂いが交互に鼻先をかすめる。
「ねえ見て、あれ藍晶高校の制服じゃない?」
栞の学校の生徒は僕を指さした。藍晶高校は全国的に見てもトップに近い高校だ。物珍しさに指さすのもわかる。
『結局は制服が及第点だよな』
「まあ視線は集めるけど」
栞の屋台は、すぐに見つかった。長い行列ができていたからだ。「たこ焼き」と書かれた看板の下で、栞はエプロン姿で忙しそうに鉄板をひっくり返していた。
列の最後尾に並ぶ。前に並んでいた女子たちが、こちらをちらちらと振り返っていた。
順番が回ってきて、栞と目が合う。
「よう」
「圻……何、その髪」
栞がまじまじとこちらを見た。
「似合ってないか」
「……べつに」
『そう言いながらも、口の端が少し上がっているんだよな』
横で見ていた同級生らしき女子たちが、栞の袖を引いた。
「ねえ栞、この人だれ?」
「めっちゃかっこよくない?」
「彼氏?」
栞は鉄板の油をヘラで整えながら、面倒くさそうに答えた。
「兄」
「えー、うそ、兄弟なの!?」
女子たちの声が一段と高くなる。栞は取り合わず、たこ焼きを紙皿に盛って突き出した。
「はい、お会計。長居しないでよ、後ろ並んでるから」
それだけ言うと、次の客に向き直った。俺は行列の外に出て、熱々のたこ焼きを一つ口に運んだ。ソースの甘さと、舌を焼くような熱さが同時に広がる。
『兄、だってさ』
「……そうだな」
悪い気はしなかった。
それから、季節がいくつか過ぎた。
『お前、柊のこと好きだろ』
「……知らない」
『否定が弱いんだよ』
柊との距離は少しずつ縮まり、栞との軽口も変わらず続いた。何気ない日々が、当たり前のように積み重なっていった。
一月十三日も、いつもと同じようにカーテンの隙間から目を開けた。光の筋は、いつも通り綺麗だった。
だが、身体が重い。胃の奥が、ゴロゴロと鳴っている。昨日、何を食べたっけ。思い出そうとして、思い出せない。それに、いつもならすぐに話しかけてくるネオが、静かだった。
「……起きてるか」
しばらくの沈黙の後、声が返ってきた。
『ギン。俺、殺したよ。人を殺した』
その言葉が、頭の中を素通りしていった。意味を結ばないまま、ただ音として耳の奥に残る。
「お前さ、それ何の冗談だよ」
『ちがう、本気だ』
布団を握った指先から、体温が抜けていく。心臓の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
「僕とお前の間には決め事があったはずだぞ。僕の身体を勝手に動かさない。それだけは、二人で決めたルールだろ」
返事がない。
「本当はやってないんだろ? お前に限って……」
声が、尻すぼみに消えた。布団を蹴りのけ、僕は自分の両手を見た。爪の間、指の関節。特に変わったところはない。ないはずなのに、その手を見ているだけで、喉の奥に酸っぱいものがせり上がってくる。
「本気で、約束を破ったのか」
『ギン。バレることはないから。不安がる必要はない』
「バレるとかバレないとかの問題じゃないって!」
怒鳴った拍子に、肩が跳ねた。
あの家の、畳の感触。父の手。母の声。
身体が、勝手にその記憶の形を取り始める。
『本当のことだ。昨日の夜。地面に埋めた。多分、見つからない。山奥に隠したから』
血が、ゆっくりと重たくなっていくのがわかった。
僕の名前で。僕の手で。
膝から力が抜け、ベッドの縁にへたり込む。
もう、立ち上がる理由が見当たらない。
『そんなこと思う必要はない。言っただろ、見つからないはずだって。だから俺は――』
……。
『ギン?』
返事は、返らなかった。
『なんで黙るんだよ。悪かったって。謝るから、いつも通り仲直りしようって』
『ギン、あいつはお前と、瀬宮栞を苦しめたんだ。あんなやつ、山奥がお似合いだろ』
いくら頭の中で叫んでも、届かない。
扉には、内側から鍵がかかったままだった。
身体の主導権だけが、俺の手の中に残された。
ギンは死んでしまった。
『良かれと思って』
『ギンを守るための、正義のつもりだった』
冷や汗が、こめかみから顎先へ伝って落ちた。
主導権はこっちにある。なのに、この胸の苦しさはどこから湧いてくる。
積み重ねてきた日常。
努力して掴んだ藍晶高校。
栞との軽口。
布団の中で反響していたあの一節。
俺は殺してしまった。もう一人――笑うことを覚えたばかりの、ギンという人間を。
ガタガタと震える足で、俺は学校へ向かった。
教室に着くと、空気がいつもとは違った。
廊下から、複数の足音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
全身から、生暖かい汗が噴き出した。
教室の戸が開く。
「瀬宮圻。抵抗するな。そのまま来い。令和八年一月十三日、八時十分、殺人の容疑で逮捕する」
クラスメイトの視線が、一斉に俺の背中に突き刺さる。
俺はゆっくり立ち上がる。
そして重い足取りで歩き出す。
俺はこれから先の人生、ずっとこの重さを抱えて歩くことになるのだろう。




