第3話:僕の中のもう一人
高校の試験当日。
手が震える。
鉛筆が上手く握れない。
問題文だって曲がって見える。
でも、あの日、あの景色。
そう、もう僕は震えない。
絶対に合格してやる。あの日常を無駄にしない。
試験を終えた帰り道、電車の窓に映る自分の顔を、僕はしばらく見つめていた。
お前は案外、幸せそうな顔をしているよ。
家に着くと栞が玄関で待ち構えていた。
「どうだった?」
「……分からない。全力は出した」
「ふうん。まあ、圻がダメならこの世に受かる奴なんていないでしょ。あんだけ勉強してるんだし、大丈夫だって」
栞なりの応援が混じっていることくらい、僕も分かるようになってきていた。
夕食の席で、両親は何も聞いてこなかった。ただ、いつもより少しだけ豪華なおかずが並んでいるだけだった。それが二人なりの気遣いだと気づいて、目が湿ってくる。バレないように俯くので必死だ。
その夜、自室に戻ってから、僕はあの一節を久しぶりに声に出して読んだ。
「先の事は既に過ぎ去りたればなり。見よ、我すべての物を新にするなり」
もしかしたら、本当に古いものは過ぎ去ったのかもしれない。両親に殴られていた日々も、施設で過ごした夜も、全部、今日で終わりにしていいのかもしれない。そう思えた瞬間、初めてあの一節が祈りではなく、答え合わせのように聞こえた。
だが、安堵したのも束の間だった。その夜遅く、頭の中に妙な違和感を覚えた。耳鳴りのような、それでいて確かに声のような何かが、頭の奥の方でざわめき始めていた。眠ろうとして、必死に姿勢を変えてもその音は消えない。
『俺の名前はネオ。まあこれからお前の中に住むんだし、お前も俺を好きに呼んでくれればいいよ』
僕の中にもう一人生まれたのだ。
「だ、誰だ。なんで直接話しかけてこれる」
『そりゃお前の身体の一部なんだからさ。正確には精神の一部的な』
「人格がもう一人?」
こんな夜中に馬鹿だとも思うが、「人格 消し方」「解離性同一性障がい 治し方」「精神科 受診」ネットで文献をできるだけ調べた。
『なーお前好きな人いる?』
うるさい。
『俺さ、ボブがタイプなんだよね。紹介してくれね』
うるさい、うるさい。早く治したい。治せるの? いや治せなきゃ困る。なんでこうなった。夜までは普通だったのに。もしかして寝る時だけ? それでも寝れないからだめで……
「ネオ!」
『ん?』
「なんで勝手に僕の脳内に入ってくるの。出てけよ」
『出ていけないよ。俺は君の中で生まれたんだからさ。身体を持たないし自殺して抜け出す、みたいなことなんて出来ないし』
「じゃ、じゃあせめて夜は静かにして」
『寂しいから少し話したいんだよね。そう言えば君の名前は?』
「圻」
会話を続けていくと、僕とは何もかも真逆だった。腹立つほど勉強はどこまでも出来るくせに、性根は捻くれていて、平然と嫌なことを言ってくる。それでも、助けられた回数は数え切れない。僕たちはルールを決めた。
「一、ネオは瀬宮圻の体を使う時、ギンに報告をしなければいけない。
二、夜はどちらも静かにしなければいけない。
三、わがままを言って、相手に押し付けてはいけない。
四、いかなることがあっても、これらの約束を破ってはいけない」
そして月日が立つにつれて、僕はネオを上手く利用するようになった。
「ねえネオ。こっちは宿題やってるから、ネオはあのゲームのダンジョン攻略を考えておいてくれない?」
『じゃあどっちが早く終わるか勝負な』
なぜか僕らは仲良くなっていた。たとえば僕が手を動かしている間、ネオが頭の中で別のことを考える。お互いの意識が混ざり合う、特殊なタイプだった。一人で二人分のことを考えられる代わりに、頭の中はいつも騒がしい。それでも、物事は一人の時よりずっと早く進んだ。それが嬉しく頼もしかった。感謝してもし切れないと思っていた。
夜、電気を消した後の時間が、一番よく喋った。
『なあギン、今日の数学の小テスト、何番が一番簡単だった?』
「三番。お前は?」
『俺は全部簡単だった』
「うざ」
『褒めてほしいなら褒めてほしいって言えよ』
「言うわけないだろ」
会話が終わると、なぜか口角が上がってしまう。僕はどんな変な顔をしているのだろうか。誰かと言葉を交わすことに、誰の言葉も素直に受け取れなかった。だがネオの言葉には、その恐怖がなかった。同じ身体の中にいるという安心感のせいか、それとも、ネオがどこまでも遠慮なく踏み込んでくるせいか。
ある日、栞が僕の部屋のドアを勝手に開けて、こう言った。
「圻、独り言多くない? 最近ずっとブツブツ言ってるけど」
「……独り言じゃない」
「じゃあ何」
「『俺と会話してるんだよ、お嬢さん』」
思わず口をついて出た言葉に、僕自身が驚いた。ネオが喋りたがっている時、時々僕の口を借りることがあった。栞は目を丸くしてから、盛大に噴き出した。
「は? 何、圻ってばキャラ変わってる。声も高くなったし」
「……気のせいだ」
『気のせいじゃないだろ。ちゃんと自己紹介したのに』
頭の中でネオが不満げに言うのが分かった。僕は思わず笑ってしまった。栞も釣られたように笑い、部屋には珍しく、明るい空気が流れた。
『なあギン、あいつ良い奴じゃん』
「……そうだな」
『お前、笑う時あんな声出すんだな』
「うるさい」
勉強も、ゲームも、栞への軽口も、全部がネオと二人で積み重ねたものだった。一人だった頃には想像もできなかった賑やかさが、頭の中にはいつもあった。誰にも心を開けなかった僕が、頭の中の他人にだけは、少しずつ心を許していた。それがどれほど歪な安心の形か、その時の僕は気づいていなかった。
でも、あの一節についてだけは、ネオに話したことがなかった。
話す必要がないと思っていた。
ネオは強かった。
恐怖も、罪悪感も、縋るものを必要とする弱さも、ネオにはないように見えていた。
だから、これは僕だけのものだと思っていた。
誰にも見せたくない、最後の砦。
――けれど。
ある夜、ふと思った。
僕とネオは対等だ。
だったら、これもいつかは渡していいのかもしれない。
もし、いつかネオが何かを失ったとき。
もし、支えを必要とする日が来たとき。
そのときは、僕が教えてやろう。
僕を救ってくれた、あの聖典を。




