第2話:期待してはいけない
施設には埃がいくつもあった。でも心地が良い。暖炉の炎は僕に温かさをくれる。友達は出来なかったが、殴られることも、何か言われることもなかった。
夜になると僕は自然と唱えてしまう。口が言うことを聞かない。止めようとしてもそれは続いた。
「すべて勞るる者、重荷を負ふ者、我に來れ、われ汝らを休ません。
我は心柔和にして謙遜なり、我が軛を負ひて我に學べ、然ば靈魂に安息を得ん。
我が軛は負ひ易く、我が荷は輕ければなり」
周りの子は耳を塞ぎ、施設職員は僕のことを取り押さえようとする。僕の口はそれでも止まることを知らなかった。
半年が過ぎた。十三歳の誕生日を迎えた少し後、僕はある夫婦に引き取られた。
二人は僕を殴らなかった。
怒鳴りもしなかった。
朝になれば「おはよう」と言い、帰宅すれば「おかえり」と言う。
ただ、それだけだった。なのに僕には、それがひどく不思議で、落ち着かなかった。
夜、布団に入ってからも、体はいつまでも強張ったままだった。振り下ろされるはずの何かを、ずっと待ってしまう。殴られない夜の過ごし方を、僕はまだ知らなかった。
そして夕食の今、新しい両親は困ったような顔をした。優しさで包み込もうとしたが無駄だったように、僕に呆れてまた捨てられてしまうのか。だが彼らはそれ以上何も聞かず、責めもせず、ただ辛抱強く、僕の前に座り続けてくれた。
その沈黙が、逆に苦しかった。
やっぱり――父さんも母さんも、本当は嫌気が差しているはずだ。こんな、精神に異常をきたしている子供を押しつけられて。悪いのは、こんな反応しかできない僕の方だ。腹の奥から喉にかけて、辛い何かがせり上がってくる。それを飲み込むことでしか、僕はその場に座っていられなかった。
優しさは嫌いで、殴られるのも嫌いだ。
けれども栞の生意気さは、不思議と怖くなかった。関係に、対等さがあったからだと思う。彼女は僕を憐れまなかった。同情の匂いを、一切させなかった。ただ家に増えた面倒な兄として、僕を雑に扱った。それだけのことで、指の震えは止まった。
「圻ってさ、たまに死んだ魚みたいな目してるよね」
ある晩、リビングのソファであぐらをかいている栞が、唐突にそう言った。僕は隣に座る。ソファは沈み込まず、硬い。表面は柔らかい布で覆われており、ほっとすることができた。
「悪いか」
「べつに悪くはないけど」
テレビの音が沈黙を埋めてくれる。横目で栞を見ると、膝の上で手を弄んでいた。
「……まあ、生きてるだけで良しとしとくか」
偉そうに言い放って、リビングから駆けていった。足音が、だんだん遠ざかっていく。その後ろ姿を見送りながら、僕は口の中だけで、あの一節を唱えていた。
「先の事は既に過ぎ去りたればなり。見よ、我すべての物を新にするなり」
もしかしたら。
このフワフワした感情と、この温かい景色が。
――いや、いけない。違う。期待なんてするだけ無駄だろ。期待した分だけ、失ったときの落差が深くなる。それを、僕は一番わかっているはずだ。
新しい両親にさえ、僕は祈りの言葉を隠し続けた。優しさに応える自身が、自分にはないから。ただ、栞にだけは一度だけ、この言葉に近いものを漏らしたことがある。
夏休みのある午後だった。栞が僕の部屋のベッドに勝手に寝転がり、扇風機の風にうたた寝しかけながら、勉強中の僕に話しかけてきた。
「圻ってさ、何のために勉強してるの?」
鉛筆はノートを走り続け、僕は答えた。
「見返すため」
「誰を」
「……全員」
部屋の中に、扇風機の首振りの音だけが残った。栞は少しの間、天井を見たまま黙っていた。
「ふうん」
それだけ言うと、彼女は寝返りを打ち、僕に背を向けた。
その背中越しに、小さな声が聞こえた。僕に聞こえないつもりの声だったと思う。
「……かっこいいじゃん」
ノートを走る鉛筆は減速した。
ちゃんと聞こえていた。
やがて鉛筆は立ち止まる。僕は鉛筆の先端を、入念に尖らせた。じんわりと熱が広がっていくのがわかった。体がふわりと軽くなっていくような熱だった。
――このまま、少しくらい浮いてしまってもいいのだろうか。
窓の外で、蝉の声が一段と強くなった。夏の匂いのする風が、カーテンを揺らして部屋に入ってくる。その風の匂いを、僕はいつまでも覚えていることになる。
独房の中でもそれを思い出す。それは彼の記憶だろう。俺は背筋を伸ばし両手を膝の上に置く。
彼はもういない。
コンクリートの床は、素足の裏から体温を奪っていく。24年間、毎晩繰り返してきた姿勢だった。深い理由も知らずにただ真似ていた。
「『先の事は既に過ぎ去りたればなり』」
最初は意味も分からず口にしていた。宗教にも神にも興味はなかった。だが唱えるたびに、記憶が薄く滲み出てくることに気づいた。
「『見よ、我すべての物を新にするなり』」
お前が支えにしてきたものを、俺が壊した。
だから俺はこれを唱え続けなければいけない。
犯人は俺なのだから。




