第1話:慙愧の限り
『勝を得る者には……白き石を與へん、その石に新しき名を録せるれど、之を受くる者の外は知るなし』
ヨハネ黙示録、2章17節
「先の事は既に過ぎ去りたればなり……見よ、我すべての物を新にするなり」
ヨハネ黙示録、21章4-5節
震える。
指先からだった。
恐怖なのか、抵抗なのか、自分でもわからない。ただ、名前のつかない感情がひとつ、胸の底に沈んでいる。
慙愧。
それも、ずっと前に地面に埋めた。深く、深く。もう誰にも見つけられないくらい。
帰り道、俺は邪笑を浮かべていた。
夜は、なんとなく眠った。朝は、なんとなく目が覚めた。
いつもと同じ、味のしない朝食を食べる。いつもと同じ角を曲がり、学校へ向かう。
何も変わらない一日になるはずだった。
教室に着くと、空気がいつもとは違った。
人が固まり、誰かのスマホを覗き込んでいる。声のトーンも低い。
興奮と恐怖が半分ずつ混ざったような、独特のざわめきだった。
「殺人だってさ」
「うわ、この辺じゃん」
全身の毛穴から、生暖かい汗が噴き出した。
廊下から、複数の足音が近づいてくる。
揃っていない。三人か、四人。
革靴の硬い音。
それだけで、埋めたはずのものが、音を立てて掘り返されていくのがわかった。
慙愧は、土の中で腐ってなどいなかった。
邪笑も、もう消え失せていた。
どちらも、ただ息を潜めていただけだ。
教室の戸が開く。
足音の主のひとりが、まっすぐに俺の名前を呼んだ。
「瀬宮圻。抵抗するな。そのまま来い。令和八年一月十三日、八時十分、殺人の容疑で逮捕する」
クラスメイトの視線が、一斉に俺の背中に突き刺さった。
誰かが息を呑む。椅子が一脚、倒れる音がした。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「嘘でしょ……圻くん、君が……」
その言葉を無視して、歩き出す。
俺はこれから先の人生、ずっとこの重さを抱えて歩くことになるのだろう。
――なぜ、こうなったのか。
それを話すには、少しだけ昔に戻らなければならない。
「彼」は、自分のことを不幸だと思っていた。
***
うちの家族には、僕より二つ年下の義妹がいた。名前は、瀬宮栞。初めて顔を合わせた日、彼女は玄関先で腕を組んでいた。
「ふうん。お兄ちゃんって呼べばいいの? べつに呼びたくないんだけど」
生意気な口調だった。だが嫌な気持ちにはならない。同情も、腫れ物扱いも、そこにはないと感じたから。
あの家の言葉には、いつも裏があった。
「あなたのため」の裏には拳が。「悔い改めなさい」の裏には、次の一発が隠れていた。
だが、栞の言葉には裏がなかった。ただ、思ったことがそのまま口から出ているだけだった。
「呼びたいように呼べばいい」
「じゃあ呼ばない。名前で呼ぶから、圻」
息が止まった。身体が、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
罪と呼ばれることには慣れていた。子やお前とも呼ばれた。だがそのどれも、僕自身を指してはいなかった気がする。
圻。
ただの二文字が、こんなにも重く胸に落ちてくる。
栞には、遠慮というものがなかった。
僕の部屋にノックもなしに入ってくる。机に広げてあるノートを後ろから覗き込み、赤ペンのバツ印を指でなぞりながら、
「こんな問題も分かんないの」
と、鼻で笑う。制服からまだ抜けきらない柔軟剤の匂いが、ふわりと僕の後ろで揺れる。
夕食の席で、僕が箸をつけられずにいると、両親より先に気づくのはいつも栞だった。
「早く食べなよ。冷める」
湯気が皿の上でゆっくりとかたちを崩していくのを、僕は黙って見ていた。
優しさにも、僕はうまく馴染めなかった。ある日の夕食に、見たこともないくらい分厚いステーキが置かれた。皿の上で肉汁がじゅうじゅうと小さな音を立てている。焼けた脂の匂いが、鼻の奥まで入り込んでくる。本当なら、今すぐにでもがっつきたい。なのに、身体が先に強張った。ナイフを握った指が、細かく震える。握り直しても、震えは止まらない。
「どうしたの?」
新しい母の優しい声。その声を聞いた瞬間、うなじから背中にかけて、鳥肌が立つのがわかった。丸まっていた背中が、勝手に伸びる。あっちの当たり前を思い出し、僕は目をつぶった。
「……良いことされると、次に殴られる予兆がするから」
口が滑った。言うつもりなどなかったのに。
頬の熱さと、耳の奥で鳴る高い音。
それが、僕にとって一番古い記憶だった。
家には居場所がなかった。
そして、いつも同じ一言に行き着いた。
「悔い改めなさい」
父はそう言いながら、座っている僕の頬を平手で打った。埃一つない綺麗なリビング。ソファの表面のテカテカとした感触。パチンと乾いた音の後に残る、耳鳴り。
母は正面の椅子に座り、聖書を朗読していた。
暖炉は音を立てながら炎を宿している。
「なぜ、泣き喚くのです」
母は本から目を上げずに言った。
「お父さんは、あなたのためにやっているのよ。分かるでしょう?」
僕は「分かります」と答えた。
もちろん、本当は分からなかった。
食事を残せば「強欲」
テストで点を落とせば「怠惰」
黙っていれば「傲慢」
泣けば「弱さという、いちばん醜い罪」
そして何をしても、最後には同じ言葉に辿り着いた。
「悔い改めなさい」
夜になると、僕は冷たいリビングの床に正座をさせられた。
「今日の分を、声に出して読みなさい」
父がそう言うと、母が聖書を差し出す。開かれたページには、しおりも折り目もない。毎晩、どこを読ませられるのかは、二人の気分次第だった。
「批判するな、然ば批判せられざらん」
骨が床に当たり、じんじんと痺れてくる。その痺れが両膝の感覚を奪っていく。その時間の中で僕はある夜、ひとつだけ輝くものを見つけてしまった。
いつもと同じように目で追っていた文字の連なりが、その一節だけ、急に光を帯びたように感じた。
「先の事は既に過ぎ去りたればなり……見よ、我すべての物を新にするなり」
ヨハネの黙示録、二十一章四節から五節。
「母、これはどういう意味ですか」
「あら、ようやく聖書に興味を持ち始めたのですね」
その顔は、邪笑に塗れていた。
母は難しい単語と表現を使った。
悲しみも、涙も、叫びも、苦痛も、そして死さえも――いつかすべてが過ぎ去る。そんな意味なのだと、僕は聞かされた。
僕は、しばらく何も言えなかった。
過ぎ去る。
その言葉だけが、妙に胸に残った。
今までのことも、いつか過ぎ去るのだろうか。
あの声も。
あの手も。
この家の夜も。
全部、いつか過ぎ去ったことにできるのだろうか。
部屋の電灯は、いつもと同じ薄暗い蛍光灯のはずだった。なのに、その一節を読んだ瞬間だけ、世界のあらゆるものが綺麗に光って見えた。
あいつらが僕を傷つけるための道具として振りかざしていた、あの分厚い本の中に。僕を傷つけた、その同じ本の、同じインクの中に。皮肉にも、僕だけを救うために書かれたとしか思えない一節が、隠れていた。神様が二人の目を盗んで、僕にだけこっそり合図を送ってくれたような気がした。
僕はその夜から、読まされていたはずのその言葉を、自分のためだけの祈りとして、胸の中で何度も繰り返すようになった。
――先の事は既に過ぎ去りたればなり。
――見よ、我すべての物を新にするなり。
ああ。
今すぐ空を飛び回りたいほど、この言葉は美しい。
僕の口角が上がると、二人は殴るのを止めた。
二人の表情は、引きつっていた。あいつらはやがて、僕を追い出した。
「汚い」
「醜い」
「罪深い子」
最後まで僕を哀れむような目で、そう繰り返しながら。そして僕は施設へと送り込まれた。それでも、あの夜に見つけた一節だけは、僕の中から消えなかった。




