第10話:飯野のどかは考える
「えー、座席は決まりましたね。では本題の四泊五日、長野の高原施設の話をします。バスの移動時間を含めると、実質の滞在は少し短くなりますが」
教室の壁に貼られたカレンダーには、赤丸で出発日が囲われていた。誰かがその横に「あと三週間後」と小さく書き足していた。
だが一週間後、思わぬ問題が起きた。
最初は、些細な違和感だった。廊下ですれ違うたびに、飯野のどかが妙に長く目を合わせてくる。挨拶の声も、以前より少し高くなっていた気がした。
『気のせいじゃないと思うぞ』
「そうか?」
『あれ、完全に狙ってる目してるからよ』
「大袈裟だろ」
そう言って取り合わなかった数日後、その予感は現実になった。
「圻くーん、お昼一緒に食べよ!」
昼休みになるたび、飯野のどかが弁当を持って机に突撃してくる。それだけならまだいい。彼女は椅子を引き寄せ、肩がぴったりくっつくほどの距離まで詰めてきた。
「見て見て、卵焼き作ってきたの。食べる?」
箸で摘んだ卵焼きを、こちらの口元まで運んでくる。彼女は椅子を引き寄せ、かなり近い距離まで詰めてきた。甘い香水の匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
「じ、自分で食べれるし」
彼女の指先が、こちらの手の甲に軽く触れる。意図的なのか偶然なのか、判断がつかなかった。
「えー、いいじゃん照れなくても」
彼女はそう言いながら、大きな声で笑う。
『ギン、これやってんぞ』
「……」
彼女の笑い声は隣の机まで届いている。視線をずらすと隣の席で美桜が、机の上のノートに視線を落としたまま、箸を止めているのが見えた。
『これまずいぞ。お前は飯野のことも狙ってるわけじゃないもんな?』
「も ってなんだよ……柊を好きなわけじゃないから」
近くの席の男子が、露骨に「うわ、リア充かよ」と呟くのが聞こえた。別の誰かはこちらを気の毒そうに見ていた。
「圻くん、あーんしてあげよっか?」
周りでくすくすと笑い声が漏れた。美桜が弁当を閉じ、静かに席を立とうとするのが見えた。のどかの顔には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
その顔を見た瞬間、俺は居ても立っても居られなくなった。
「『いい加減にしろ』」
僕の口から出た声は、思っていたよりずっと低かった。
のどかの手から箸が滑り落ちた。誰かが小さく息を呑む音がした。時計の秒針の音まで、やけにはっきりと聞こえる気がした。
「……え」
「『人を巻き込んで、見せつけるようなことをするな』」
のどかの顔から、みるみる血の気が引いていった。目に涙が浮かび唇が震えている。
「わ、私、そんなつもりじゃ……」
声が震えていた。手の甲で目元を拭いながら、彼女は言葉を続けられずにいた。
それだけ言うと椅子を蹴るように立ち上がり、教室を飛び出していった。廊下を走る足音が、しばらく響いていた。ドアが閉まる音の余韻だけが、静まり返った教室に残った。
教室に、気まずい沈黙が落ちる。
「……ちょっと、言い過ぎだよ」
美桜が、静かにそう言った。責めるような口調ではなかった。ただ、事実を告げるような、落ち着いた声だった。
「『悪い』」
俺は素直に頭を下げた。だが美桜は、それを見て小さく笑った。
「でも、そういう圻くん、面白くて好きだけどね」
その一言に、教室の喧騒が急に遠のいた気がした。
『だってよギン。良かったな』
ネオが、頭の中で少しからかうように言った。
「……」
ギンの返事は、少し遅れて聞こえてきた。嬉しそうな、それでいて少し不満げな声だった。
「それ、僕のことじゃなくて、ネオのことが面白くて好きってことだろ」
『俺らの体は一緒だろ?』
俺は思わず笑った。その笑い声に、美桜が不思議そうな顔をする。
「何、一人で笑って」
「『いや、なんでもない』」
窓の外では、初夏の日差しが木々の緑を濃く照らしていた。グリーンスクールまで、あと二週間。
***
教室を飛び出したのどかは、階段の踊り場で、壁にもたれて座り込んでいた。窓から差し込む午後の光が、床の埃をぼんやりと照らしている。
悔しかった。自分でも、なぜここまでやってしまったのか分からなかった。柊美桜のことを考えると、どうしても心がざわつく。
先に手を挙げて席を奪った。なのに満たされるどころか、あれからみんなの視線が少しでも柊に向くたび、もっと心がモヤモヤするようになった。
あの柊と仲が良い瀬宮の目に、自分がどう映っているのか。それを確かめたくて、必要以上に距離を詰めた。柊に見せつけるように笑い声を大きくした。分かってる。こんなやり方は馬鹿だって。それでも止められなかった。
制服の袖で目元を拭っても、次から次へと涙が溢れてくる。
何やってんだろ、私……
膝を抱えて、のどかはしばらく顔をスカートに埋めた。ただこの鼓動を止めてくれる人を待っていた。
「……大丈夫?」
優しく包みこんでくれるような声がした。




