詩音を失って、元宮を追う朝
アキラはいつの間にか寝ていた。どうやって帰って来たのかも解らない。布団の横には脱ぎっぱなしの衣服が散乱している。窓から差し込む光が今日はヤケに目に染みる。珍しく起床と同時に、何か食べたい欲に駆られた。立ち上がって、キッチンへと向かい、ペットボトルの水を飲んで空腹を紛らわす。
戻りつつある意識の中で、昨日の詩音との別れ話を思い返すと、一気に虚しさが心を支配した。なぜ、詩音の後を追いかけなかったのだろうか。
罪と懺悔の気持ちで頭の中が真っ白になりそうだった。ふと昔のアルバムが見たくなって、畳の部屋の押し入れから古いアルバムを取り出した。ページの最初には、自分が赤ちゃんだった時の写真。アキラは幼少期には女の子に間違えられる子供だった。線が細くふわっとしていて、大きい瞳にまつげがくるりとカールしている。アキラは次々とページをめくり昔を懐かしんでいた。
少年ソフトボールチームに所属していたころの集合写真が出てきた。色黒でいまよりもぽっちゃりとした体形の元宮とアキラが並んで映っている。世話焼きでおせっかい。だけど、元宮はいつだって僕に優しかった。
小学校低学年の時、その日は土曜日で学校が午前中で授業が終わり、元宮と二人でとぼとぼと帰宅していた。異変に気付いたのはマンションに帰ってきてからのことだった。
いつもだったら、祖母がいるはずなので、橋本家の鍵はいつも空いているはずなのに、いくらドアを引っ張っても、チャイムを鳴らしても、誰も出て来なくて、いたずらに時間だけが過ぎて行った。
仕方なくランドセルを背負ったままマンションのエントランスで公園に植えられている樹々をぼーっと眺めていた。
15分ほど経過した後、痺れをきらして、怒りのような感情が涌いていたのである。その時、シャワーを浴びて着替えたばかりの元宮がやってきて『どうしたの?暇なら遊ぼうぜ』と声をかけてきたのであった。
アキラは元宮に事情を説明した。いつもだったら、鍵が開いているはずの家なのに今日に限って誰もいないこと、宿題が入っているランドセルを持ったままだから遊びにはいけないことを。すると、元宮は『はっちゃんのおかぁさんは近くのスーパーで働いてるんだろ。そこに行って鍵を貰いにいこう』と言って、渋るアキラをぐいぐいと引っ張って、実家から徒歩3分のスーパーへとアキラの母親に会いに行ったのだ。
元宮はサービスカウンターまで来ると、『はっちゃん、ここで呼んでもらえばいいんだよ』と言って僕に事情を説明するように促した。口下手だったアキラはもじもじとして、その場に立ち尽くしていると、一人のおばさんがカウンターから出てきて『どうしての?迷子になったの?』と尋ねてきたのである。
アキラは(迷子になるほどこどもじゃない)と思い、そのことが恥ずかしくてその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。その時、助けてくれたのも元宮だった。彼は『この子のおかあぁんがここで働いているんですけど、家の鍵がなくてはいれなくて困っていたんです。ですのでこの子のお母さんを呼んでください』と明確に言った。
サービスカウンターのおばさんは業務連絡と称して母親を呼び出してくれた。しばらくして鍵をもらうと、普段から無口で表情を滅多に変えないアキラだったのだが、帰り道、『君はやっぱり賢いよ。頭いいよ』とテンション高く元宮に言って、最大限の感謝の気持ちを伝えたのである。
アキラは元宮との写真を見て懐かしんだ後に、部屋に飾ってある詩音との記念写真を眺めていた。これまで、詩音とお付き合いをしてきて、一体なぜ、金持ちのご令嬢の詩音のような魅力的な女性が、一介の占い師であり、小説家志望で、貧乏のどん底にいる自分と一緒にいることを選んだのだろうかと、不思議に思った。
詩音と過ごした日々はかけがえのない日々だった。二人でハワイ旅行へ行き、ワイキキビーチで朝食をとった後、レンタカーを借りてダイアモンドヘッドへ行き、ハイキングを楽しんだこと。KCCファーマーズマーケットで見慣れない果物を眺め、ホテルまで戻りトロピカルなカクテルを飲みながら、プールサイドでとりとめのないお喋りをした。沈みゆくサンセットを眺めながら、まるで沖縄に来たみたいだねって詩音が言う。
二人がはじめてお付き合いを決めたあの美しい景色に想いを馳せながら、僕たちにとってはハワイよりも沖縄の海の方が特別なんだって再確認したんだ。
離れてみてはじめて解った、詩音への変わらぬ想い。
しかし、今は元宮を放っておけはしない。時として、男の友情とは、長年連れ添った夫婦よりも、血を分けた実の兄弟よりも、かけがえのない熱い何かで繋がっている気がするのだ。女は子供を産み育てる性質から、子供が生まれれば子供が一番になるだろう。
男は外に出て、仲間と共に危険を顧みず獲物を狩りに行く。このDNAに流れる狩猟採集民族だった頃の記憶は薄れたかに思えたが、それは確かに心の奥底でうごめいていた。
外敵から女と子供を守り、狩りへ行き食べ物を捕ってくる。夏の暑い日には、まぁこれでも飲めよってキンキンに冷えたコカ・コーラを買ってきてさ。いかに俺たちが無能で馬鹿なことばっかりやってきたのかってことで盛り上がって、仲間の一人がふと空を見上げながらいう、俺、この秋に子供が生まれるんだってさ。じゃあ今日は前祝だなって誰かが言えば、夜になってみんな集まってさ、ほろ酔いになったら、月明かりの下で夢を語り合う。
そんな風にして俺たちは、誰ひとり置いてきぼりにせずに大人になった。誰かが泣いていれば行って励ましてやり、誰かが笑えばくだらない話ではしゃいで、いつまで経っても子供のまま変わらないねって、まるで夏の祭りの後みたいにさ、真実を知ることになるんだ。
アキラはスマホを手にして、電話をかけた。連絡先は占術の師匠である佳子だ。
元宮が失踪して、彼は何をしでかすか解らない。うつ病にでもなって自殺企図をしているかもしれないのだ。アキラは全てを失ってみて、はじめて元宮のママさんの気持ちや、失踪した元宮の気持ちが理解できるような気がした。普段は気丈に振舞ってはいるが、そういう人こそ真面目に考えすぎて、現実世界で生きることの意味が解らなくなる。
佳子への電話がつながらない。夜がメインの占い師のお仕事だから、こんな朝早くに起きているわけもないかと肩を落とした。ふと詩音の泣く顔が浮かんだ。ダメだ。追いかけてはいけない。僕たちはもうとっくに終わった関係なのだ。どうにもできない感情を抑え込みながら、今すぐにでも走り出したい衝動に駆られ、コップに水を汲み一気に飲んに干して、タバコに火をつける。もうだめだ、と思われた瞬間スマホから着信音がなった。占術の師匠である佳子からの電話だった。




