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ローズの泉で壊れる夜

 お盆休み初日目。

アキラは寝ぼけ眼で窓の外を眺めた。東京は曇り空が広がり、天気予報によると昼過ぎからは雨が降るという。時計をみると10時を回っている。朝食には遅すぎる目覚め。無造作に布団を二つに折ってまとめる。

 築50年近く経つぼろいアパートだが、鉄筋コンクリートで音にも強いし、1DKでトイレ風呂別の優良物件に住んでいる。ダイニングキッチンには壊れかけてキンキンと低音の金属音が鳴り響く冷蔵庫の上に、電子レンジが置かれ、台所には空き缶やペットボトルなどが散乱している。アキラは片づけがあまり得意ではない。

 折り畳み式のテーブルの上には、飲みかけの微糖の缶コーヒーと朝食用に買ってきた総菜パンが置かれている。腹は空いていなかったが、長年の習慣によりパンを食べることにした。キッチンに背を向けて、アキラの視界には本が山積みにされたメタルラック。その隣には、お気に入りの本だけを収納した木目調のカラーボックスがある。

 ふと宮沢賢治の銀河鉄道の夜が目にとまり、アキラは立ち上がってそれを手にした。貧しい主人公のジョバンニと素晴らしい人格を持つ副主人公のカムパネルラ。夢の中で二人は銀河鉄道に乗って旅をする。アキラは少年の頃にこの作品を読んで宮沢賢治こそ世界一の作家だと確信した。

 宮沢賢治と同じ誕生日に生まれ、章という名前の謎を追い求めた青春の日々が蘇ってくる。アキラはスマホを手にして、橋本章を姓名判断で占ってみた。              

 外格以外は全て大吉と出る。弱点が見当たらないほどの吉数を持ってこの世に生まれてきたようだ。現実はどうだろうか。

 占い上で運命の人という鑑定結果がでる金持ちでジャズシンガーの星崎詩音とお付き合いをしていて、それだけでも人から羨ましがられるに違いないが、自らの夢と言えば、幾らインディーズ作家として名を上げたとはいえ、プロの小説家にはとうてい敵わない。売れる作品が書きたいとは思わない。ただ、不器用に生きてきたこの人生の爪痕みたいなものを、文壇の歴史に刻みたいだけなのだ。

 アキラは食べかけのパンをゴミ箱に入れて、タバコに火をつける。元宮の失踪のことについて、考えを巡らせていた。彼ほどの実力者が失踪する理由など到底思いつかない。ただ、彼の考え方は自分には解る気がする。誕生日が一日違いだからかもしれない。


 小雨の東京を一人歩く。低気圧の影響で少しだけ頭が痛い。夏の雨は独特の匂いがする。焼けたアスファルトを優しく包む水の匂い。こうして街を歩いていると、だいぶ街に活気が戻ってきたような気がする。蒲田の裏路地を抜けると、ラーメン屋の前には行列ができているし、パチンコ屋の出入りも激しい。    

 お盆休み初日目とはいえ、大田区最大の歓楽街である蒲田はたくさんの人で賑わっている。

 JR蒲田駅にたどり着く。スタバのカフェラテの良い香りがしてくる。駅中のコンビニでブラックコーヒーを買って、一口だけ飲んだ。幸いなことに帰省ラッシュに巻き込まれずに銀座へと迎えそうだ。

 アキラは有楽町までたどり着く。東京交通会館の一階にある本屋で詩音と待ち合わせていた。職業柄、占いの本に目がいってしまう。2022年下半期星座別運気ランキングなる本がすでに100万部も売れているようだ。ビニールで包装されているため、試し読みもできない。12星座だけで運気が解るようならば、自分と元宮と詩音だって同じ乙女座なのだから、とてもじゃないけど、元宮が失踪した理由の解明の参考にもならないだろう。

「アキラお待たせ」

 振り返ると星崎詩音がいた。詩音は胸元がⅤの字に空いた裾の長い黒のワンピースにチャコール色のブーツ姿で現れた。皇室ご用達のエメラルドグリーン色したショルダーバッグをかけている。ほんのりシャネルの香りがしていた。金髪に近い直毛の前髪をくるりとカールさせているのが特徴的だ。

「今日はお洒落してきたんだね」

 詩音はロングTシャツにジーパンというスタイルが定番なので、アキラは面くらった。

「いちおう久しぶりのデートだからね。アキラのほうこそお洒落じゃん」

 アキラは詩音に買って貰った緑色のラルフローレンのポロシャツに、桜色したしたサマーカーディガンを羽織っている。黒い本革のブーツにジーパンなのはロック好きな彼のこだわりでもある。

「アーティストも正月とお盆は休みってわけか。売れない小説家だけが年中無休ってわけだ」

「せっかくのデートなんだから、辛気臭いこと言わないでよね。どう小説は進んでる?」

 詩音はアキラの手を掴んでいった。

「まぁ、今年一年は自分を鍛える年にしても良いかなぁ」

 アキラは手に取った本を戻しながらいう。さぁ、これからどこにいこうかと詩音に尋ねると、せっかくのデートだしアキラの故郷に行きたいと詩音は言った。アキラは蒲田なんかに行ってもやることがないと渋ったが、詩音はアキラをJR有楽町駅へと誘導した。

 蒲田に着くとお腹が空いたねと詩音が言うので、蒲田駅東口を散策することにした。

 大田区最大の歓楽街である蒲田は、ラーメン屋やとんかつ御三家、羽根つき餃子など、B級グルメで戦わせたら、世界一と言えるほど豊富にラインナップされている。

「詩音ちゃんは何が食べたい?」

「ん。そうだなぁ。蒲田と言えば、ラーメンか餃子かなぁ」

「それじゃうちのアパート近くに羽根つき餃子が美味しい店あるからそこに行こう」

 天気は小雨から曇り空へと変わっていた。蒲田は昔、沼地で海抜が低かったためか、都内の天気予報が外れることがよくある。詩音は折り畳み傘をしまい、アキラはそれを自分の肩掛けバッグにしまった。詩音が手を繋ごうとしてきた。手を優しく撫でて、道が狭いし並んで歩くと危ないからと言って、アキラはその手を離した。

 付き合って7年も経つというのに、詩音が蒲田に来たのは、今日を含めて数えるほどしかない。大抵はアキラの方が蒲田に飽き飽きしているので、どこか違う街で新しい発見をしたいと言って詩音を騙してきた。なぜならば、蒲田は良い面だけでなく、夜になると中国人の立ちんぼやキャバクラの呼び込みなどが路上で声掛けをしていて、お世辞にも治安が良いとは言えないからだ。

 しかも彼は時々、悪友の竹田などに誘われて風俗遊びもしている。風俗嬢とは身体の関係は持たないことにはしているが、それも小説家になるための芸の肥やしと考えているのだ。しかし、純愛から始まった詩音にはそのような言い訳は通用しないだろう。

 アキラがはじめてお付き合いをした女性も、絶対に怒らないからと前置きした上で、アキラの風俗経験について尋ねてきたことがある。アキラはしつこく迫る彼女の根気にまけて本当のことを話した。しばらくは、笑っていた彼女だったが、だんだんと泣き顔になっていき、しまいにはぽろぽろと涙まで流して泣いてしまった。初恋というのは、そういう面倒くささを伴うものなのだ。

 詩音だってアキラが初恋の人だから、同じようなリアクションをするに違いない。身体の関係は持っていないとか、話を聞いているだけだとか、そんな言い訳は通用しないことなのも解っている。けれでも、学がないアキラにとっては普通とされる生き方をしていたらとてもじゃないけれど、面白い小説などかけるはずもなかった。占い師になったのも、すべては小説家になるためと割り切っている。しかし、なぜそこまで小説世界にこだわるのかは彼自身でも理由が解らないでいた。


 コンビニでお菓子とお茶を買い、アキラのアパートへとたどり着いた。詩音は入るなり、タバコの匂いでむせた。詩音はマスクを取るとお茶を開けてグビグビと飲んだ。相変わらず人を虜にする容姿をしているものだと思う。詩音を畳の部屋に座らせたまま、アキラは換気扇の下でタバコを吸う。なんて事はない日常の風景だと思っていた。この後は、詩音とまったりと映画でも観て夕食を共にして一夜を共にする。詩音が隣で寝ていると、まるで赤ちゃんと一緒に寝ているみたいで、とても癒される。そんな日常がこの先、結婚して夫婦になっても続くと思っていた。アキラがシャワーを浴びている時に事件は起こった。

 アキラがシャワーから出ると、いつものようにコーラを飲んでいた。詩音は不審な様子でそわそわとしている。気のせいかと思ったが、その直感は正しかった。

「アキラ。一つ質問してもいい?」

 気づくと詩音は帰り支度を済ませていた。

「今日何を食べようかって?」

 アキラは能天気なまでに今日の幸せな日々を噛みしめていた。

「リエって誰?」

 詩音の言葉にアキラは絶句した。なぜ、詩音の口からリエの名前がでてきたのだろうか。

「女友達だよ。ほら俺って、占術師じゃん?女性客相手の商売だからいちいち名前は憶えてないこともあるけれどな」

 詩音はさらに疑いの目をアキラに向ける。こんなに怖い目つきを見るのははじめてだ。

「ローズの泉のリエちゃんでしょ?ローズの泉って蒲田では有名な風俗店なんですってね」

 詩音は有名私大のK大卒で頭が良い。LINE通知でリエの名を知り、すぐに検索をかけたのだろう。アキラはこんな日に限ってメールしてくるリエを恨んだ。

「友達の付き合いでさ。一度だけ言った店だよ。でも、エッチなことは何一つしていない。信じてくれとは言わないけれど、俺にとって詩音ちゃんが一番大切なんだ」

 アキラはこのような修羅場にはなれていない。明らかに自分が犯した罪を違う話にしてごまかそうとした。詩音はその隙を逃さなかった。

「一番がいるってことは二番も三番もいるってことじゃん。悪いけれど、アキラとはもうこれでお別れだね。7年も付き合ってきて、アキラがこんなに浮気性だったなんてはじめて気づいた。じゃあね」

 詩音はそういって玄関で靴を履いて飛び出していった。シャワーを浴びたばかりで裸だったアキラは追いかけることすらできずにぼんやりと玄関のドアを眺めるだけだった。


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