慶良間の海に消え去る声
2022年8月17日。那覇国際通りコンフォートホテルにて。快晴。
太陽の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。爽やかな夏の朝の海風を受けて、レースカーテンがゆらゆらと揺れている。今日は、昨日とは打って変わって、メンタルの調子が良いみたいだ。だが、安心してはいけない。恭子と元宮の生存確認ができるまでは何が起きるか解らないからだ。橋本アキラ。
アキラはスマホに短い日記を書いた。涼子におはようというと二人は静かに見つめあい、涼子はキスをねだったが、アキラはハグをして焦らした。
涼子も早朝の出発に備えて、すでに化粧を終えて椅子に座って読書をしていた。本を読む姿は、ひと際美しく見えるのは気のせいだろうか。アキラがシャワーを浴び終えて、髪の毛を乾かし終えると、さっと着替えて、いつでも出発できる準備が整った。
朝食は一階のレストランで食べようと涼子が言うので、スマホだけを持ってエレベーターで一階まで降りる。
宿泊客はビジネスマンの姿は、ほぼ見かけない。大抵は、他のホテルが取れなかった観光客ばかりで、若い女子の三人組という姿もあった。
ビユッフェスタイルの無料朝食で、パンやワッフル温かいスープやサラダなど多彩なメニューが並べられていた。アキラはマンゴーソイのスムージーとクロワッサン、卵料理とサラダを皿に盛りつけた。涼子はホットコーヒーとワッフル、サラダだけでいいという。
「アキラ君。いよいよ運命の日だね」
「えぇ。たぶん生きてますよ」
「そうかなぁ」
「こんな太陽の恩恵を受けた美しい島で死のうだなんて、普通は思わないですよ」
「でもねぇ」
「まぁ元宮なら大丈夫です。殺しても死なない奴ですから」
「元宮君の心配なんてしてないよ。私が心配してるのは恭子だけ………」
「あ。そうでしたか」
「元宮君は根っから明るいからねぇ」
「まぁ昔から明るかったですけど、意外と繊細ですよ」
「でも、慶良間っても、渡嘉敷とか座間味とかあるらしいね」
「僕も良くは解らないんです。でも、座間味じゃないですかね」
「なんで?」
「座間味の方が水の透明度が高くて、みんなダイビングしに行きたがるみたいですよ」
「はぁダイビングかぁ。私も恭子のことがなければ、リゾート気分でダイビングでもして、美しいサンセットを観て、夢心地な気分で東京に帰りたいわ」
「しかし、アーティストって、本当に自由人ですよね。帰りの予定も決めずに沖縄に来れるなんて」
「それを言ったらアキラ君だって自由人じゃない」
「僕の場合は自由人ですけど、貧乏なんで意味ないです」
「言うほど貧乏じゃないと思うけどな」
「貧乏ですよ。服だってユニクロですら高いと思ってますから」
「まぁ。アキラ君は心配いらないよ」
「え?」
「もうすぐ大物になる予感がするもの」
「そうなんですか?」
「えぇ。女の予感は当たるのよ。詩音だってアキラ君の将来性を見抜いて付き合ってたと思うな」
「まぁ将来性だけの男ですから」
「そうやって拗ねるとこ。女って母性本能をくすぐられるのよね」
「まぁよく解りませんけど、そろそろ行きますか」
アキラが行動を促すと涼子は少しめんどくさそうにアイスカフェラテを飲み干してから、スマホを持って立ち上がった。
ホテルを出ると、朝の清々しい空気に包まれて、南国沖縄の天然の癒しを感じいていた。
フェリー乗り場がある泊港ではタクシーで行くことにした。バスやモノレールでも行けるらしいが、いちいち調べてるほどの時間的余裕は、二人にはなかった。
タクシーは泊港へ向けて出発する。国道58号線をひた走る。アキラは船酔いすることを心配して、風邪薬でも効くのかをネットで調べてみた。正確な情報は出てこないが、どうやら、酔い止めと風邪薬は成分が重なるため、併用しないで下さいと記述されている。ということは、いつも飲んでいる風邪薬でもある程度効果はあるかもしれない。アキラは母親から貰った黒いカバンから風邪薬を取り出して、ペットボトルで流し込んだ。
涼子にも勧めたが、乗り物酔いはたぶんしないとのことだった。きっと音楽家からしたら、自分の音にでも酔うことがあるだろうから、三半規管が強いのかもしれないとアキラは思った。
泊港へ着くと緑色の折版屋根の建物内でチケットを購入した。待合所には自動販売機が2台ある。コロナの緊急事態宣言中には考えられなかったが、こうして沖縄旅を満喫できるまでに、日常生活は、平穏無事に戻りつつあるのを感じていた。
一国の首相経験者が、卑劣極まりない凶弾に倒れるなどの痛ましい事件が起こり、ニュースでも連日報道された。一気にカルト宗教と政治の闇がクローズアップされ、関係のない宗教団体への風当たりもだいぶ強くなった。
占星術的に解釈するのであれば、2023年に冥王星がみずがめ座入りすることで、時代の流れが一気に変わるであろうと予測されていた。その前触れには、歴史に残るような事件が起きてもおかしくない雰囲気はあった。すでに、コロナウイルスの蔓延がされにあたる。非公式ではあるが、アキラも占術師として、2015年時点で、近い未来に疫病が流行り、リモートワークが主流になると予測していた。それを一般公開するほどの勇気はアキラにはなかったし、その予言はできれば外れて欲しいと願っていた。
だから、こうして涼子と沖縄旅ができているのも、元宮に感謝しなければならない。ピンチはチャンスといって、良いことが起きる前には必ずピンチが訪れるという宇宙の法則があるのだ。この法則は誰にも変えられない。占術も宇宙のルールに則ってできたものだから、仏法や他の宗教とも当然親和性があるのだ。
アキラは時計を見る。時刻は8時50分を指している。そろそろフェリーに乗り込んで出発する時刻だ。
アキラは母親が沖縄出身だが、離島には今回初めて行く。当然フェリーもはじめての経験だ。座間味島まではフェリーだと約2時間かかる。しかも途中で隣の阿嘉島に寄港する。高速船だとまず座間味まで行って阿嘉島に寄港するらしい。その場合は50分でいけるが、みんな早く座間味に到着したいと考えるだろうから予約でもしないとチケットがなかなか取れない。しかしながら、幸運なことに、急遽キャンセルが出て、アキラと涼子は高速船のチケットを2枚入手することができた。
フェリーには初めて乗船したが、横になれるベッドがあったり、座席もゆったりしているし、デッキに出れば青空と海のコントラストを観ながら海風に吹かれると最高に気持ちが良い。
アキラは先ほど飲んだ風邪薬が効いたのか、全く酔う気配がなかったので、しばらくはデッキにいて、波乗りを楽しむ様に、風と一体化して遊んでいた。
すると、徐々に気分が悪くなってきて、気が付いた時にはデッキの手すりにつかまって、やばいと感じ始めていた。
その時、アキラの背後から女性の声が聞こえた気がして、振り返ろうとした反動で、大げさなまでに激しく転倒してしまった。どうにか大の字に身体を向けるアキラに、先ほどの声の主が「大丈夫ですか?」と話しかけてきたのである。
女性は麦藁帽子を被っていて、さらにサングラスをして、マスクもしているから、若いのか年よりなのかも、良く検討もつかないが、声の透明感からして、アキラよりは年下だろうと思った。
「すみません。調子こいてデッキで遊んでたら急に頭が痛くなってしまって」
「今、冷たいお水買って来ますから。ここで少し寝ていて下さい」
いったいなぜこんな自分に親切にしてくれるのかは解らないが、冷たい水はありがたい。酒に追っ払った時も、大抵は、冷たい水を飲めば、復活すると信じている。
先ほどの女性が帰ってくるまでの間、調子をこいてデッキで永遠の風になっていた自分を思い出して、笑いがこみ上げてきた。タイタニックじゃあるまいし、映画みたいに、ロマンチックにとは生きられないようだ。たぶん、マジカルカラー緑だから、格好つけようなんて思わない方が身のためだ。
「あのぉ。お水買ってきました。起き上がれますか?」
麦藁帽子の女性が介抱してくれて、ようやく起き上がることができた。しかも、幸運なことに介抱して貰うとき麦藁の女性の胸が頭に当たっていた。かなりの巨乳だ。
アキラがニヤニヤしていると奥の方から涼子が歩いてきた。今日はなんて幸運な一日なんだ。両手に花。しかも巨乳が二人。ムフフ。アキラは完全に性の奴隷と成り下がっていた。
「ちょっと。人の彼氏にちょっかい出さないでよ」
涼子が麦藁の女性に文句を言う。麦藁の女性は一瞬むっと眉間にしわを寄せて身体をぷるぷる震わせていた。
「ん?」
涼子は麦藁の女性のことを不審に思い、下から上まで舐めまわすように見ていた。
「詩音?こんなところで何してんの?」
涼子が麦藁の女性に言う。続けて涼子は麦藁の女性が来ていた季節外れのオーバーオールを剥いで、麦藁の帽子ももぎ取った。
「な、なにするんですにゃ」
紺色のワンピースに星のモチーフが入ったジーンズが見えた。そして、髪の毛はショートヘアになっているが、前髪がくるりと巻いてあって、星崎詩音のようにも見えた。
「何するんですにゃ。じゃないでしょーに」
涼子はいじめっ子のように、サングラスとマスクも剥いでみせた。
「ちょっと先輩。酷いじゃないですか?」
アキラはその姿を見て顔面蒼白になった。麦藁の女性は詩音だったのだ。
「はぁあ。全く。沖縄まで追いかけてくるなんてルール違反も甚だしいわ」
「詩音。なんでここが解ったの?」
アキラは体育館座りしながら詩音に尋ねる。
「なんでじゃないでしょ。浮気者。スケベ。変態。アキラなんか大嫌い」
詩音はむきーっとした感情をあらわにして、腕をぶんぶん振っている。
「そんなこと言ってる場合じゃないって。マジでゲロ吐きそうなんだから優しくしてくれって」
アキラはホントは酔いが覚めていた。詩音が買ってきてくれた水のお陰かもしれない。
「ちょっと。おままごとなら東京帰ってからやってよ。私の親友が大変な時期だっていうのに」
涼子はふてくされながら言うと、詩音はお腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。
「涼子先輩ってもっとクールな人かと思ってました」
「何よ。親友の心配して何が悪いの?」
「そうやって人の彼氏奪うのもうやめたらどうですか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。いつどこで誰が、他人の彼氏を奪ったっていうのよ」
「元宮さん?でしたっけ?アキラの幼馴染の」
「元宮君と私は関係ないでしょ」
「あれぇ。おかしいな。五反田のホテルから出てくるところ見た人がいるんですけどねぇ」
「冗談言わないでよ。黙って聞いてればすぐにヤラせる女みたいに言いやがって」
「ほら。本性出てきた。その調子ですよ先輩。元宮君だってその勢いで押し倒せば彼氏になってくれますって」
「詩音。いい加減にしな。アキラ君の浮気すら許せなかったくせに、今更出てきてアキラ君とより戻そうたって、虫が良すぎるじゃない」
「別にアキラとは寄りを戻したいなんて思ってません」
「じゃあなんで邪魔するのよ」
「先輩。何か勘違いしてますよ」
「誰がどう聞いても邪魔してるじゃない」
「そもそもアキラと私は別れてなんかいません」
「え?」
「アキラが浮気者なのは事実です。けれど、私は絶対浮気や不倫はしません。アキラ一筋です」
「それは詩音の一方的な願いでしょ。アキラ君だって私の方がいいに決まってる」
「先輩はまた勘違いしてます。アキラが浮気性なのは、7年も付き合ってきて今回はじめてしりました。たぶん先輩とだって寝たかもしれない」
「かもしれないっていうより、彼は素晴らしかったわ」
「そうでしょうね。それも私が一番よく知っています。それでも、いいんです、だってアキラは小説家志望ですもの。それすらも芸の肥やしと思っています」
「はぁ。やってられないわ。あなたアキラ君がはじめての男性だったんですってね」
「はい。何か問題ありますか?」
「ちょっと若いからって調子に乗らないでよ」
「若いけどお金も持ってますよ」
詩音と涼子の意地の張り合いは、聞いていて気持ちの良いものではなかった。しかし、もとはと言えば、彼女たちの喧嘩の理由を作ってしまったのは、自分自身だ。どうにか元宮と恭子さんの無事が確認できるまで、穏便にことが進まないだろうか。
詩音と涼子は口喧嘩に疲れはてて、何も言わないまま無常にも時は流れていった。慶良間の海は、世界でも有数の水の透明度を誇っているらしい。その奇麗な海が、こうして一人の男の奪い合いという、しょうもない理由で穢されていくのは、とても悲しいことだ。
座っていて気が付かなかったのだが、さっきから涼子の様子がおかしい。
「涼子さん。顔色が悪いですけど大丈夫ですか?」
アキラは涼子の背中に手を添えて話しかけると
「触らないで」
といって激しく拒否された。しかし、その瞬間に、涼子はアキラの胸に寄り掛かるようにして倒れ込んでしまった。
「涼子さん!」
「先輩!」
アキラと詩音の声は一つの布を織りなすように、ハーモニーを奏で、慶良間の海の彼方へと鳴り響いていった。




