扉を開く前に - 1
ヴェイルの拠点は、珍しく静かだった。
いつもなら聞こえてくる誰かの足音や、ロイの軽い笑い声もない。
皆、分かっている。
明日、王宮へ向かうことを。
イリスは簡素な寝台に腰掛け、両手を膝の上で組んでいた。
指先が、わずかに震える。
「……王宮」
口にしただけで、胸が締め付けられた。
生まれて、育って、
そして“鍵”として扱われた場所。
そして、母の部屋。
時間が止まったような、あの空間。
セラと共に足を踏み入れた記憶が、鮮明に蘇る。
あそこに、扉がある。
知らなかった。
知らされていなかった。
自分が、世界を開くための存在だなんて。
「……私は……」
声が震える。
逃げたかったわけじゃない。
父を、憎みたくなかった。
けれど、母を利用し兄を消し、自分を道具にしようとした。
その事実から、もう目を逸らせない。
「……ノクス」
双子の兄。
同じ顔、同じ瞳。
それでも、まるで違う道を歩かされてきた存在。
私が、王宮に残された理由は……。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、分からないまま。
「……まだ起きてたのか」
低い声。
ノックはなかった。
「……ノクス。いくらなんでも、ノックくらいはして」
振り返ると、扉のそばに彼が立っていた。
仮面は外され、そこには同じ顔、同じ瞳。
「ごめん」
「……」
ノクスは距離を保ったまま、壁に背を預ける。
「明日だな」
「……あぁ」
短い沈黙が落ちる。
「鍵として使われるのが、怖いか?」
「……それも、怖い。でも」
イリスは、言葉を探した。
「一番怖いのは……私が、逃げたくなるかもしれないこと」
ノクスの視線が、わずかに鋭くなる。
やがて、ため息と共に歩み寄った。
「その時は、逃げればいい」
「……え?」
「逃げるな、なんて言わない」
淡々とした声。
「母さんも、逃げた」
「……」
喉が、かすかに鳴る。
「イリス。もし明日……」
「……」
「王宮で、足が止まったら」
ノクスは、はっきりと言った。
「俺が、連れ出す」
「……世界の、外へ?」
「そこまで行かなくていい。でも――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「“王の娘”じゃなく、“俺の妹”としてなら、どこへでも行ける」
優しくて、残酷な言葉。
「……ノクス」
「どっちでもいい。俺は味方だ」
それだけ言い残し、ノクスは部屋を出ていった。
残されたイリスは、胸元を押さえ、静かに息を吐いた。




