第4話 泣いてもいい朝
夜勤明けのカフェが、少しずつ美緒の逃げ場所になっていました。
けれど、病棟の忙しさは待ってくれません。
六月に入り、美緒は夜勤中の急変対応をきっかけに、張りつめていた心の糸が切れてしまいます。
今回は、美緒が初めて爽太の前で限界を見せる回です。
「大丈夫」ではなく、「休んだほうがいい」と言ってくれる人がいること。
その優しさが、美緒の心に静かに届いていきます。
六月に入ってすぐ、病棟で急変が起きた。
夜中の二時半だった。
呼吸状態が不安定だった患者のモニターアラームが鳴り、駆けつけたときにはすでに顔色が悪かった。
医師コール、酸素投与、吸引準備、ルート確保、採血、心電図。
美緒は頭では手順を追っていたけれど、体のどこかはずっと強張っていた。
看護師三年目。
急変対応にまったく慣れていないわけじゃない。それでも、慣れることなんて本当はない。
処置はひとまず落ち着いた。
けれどそのあとも関連する記録や家族対応が続き、他の患者のコールも重なった。
明け方には別の患者が嘔吐し、シーツ交換と更衣介助が必要になり、ようやく座れたのは朝食前の数分だけだった。
大丈夫、と何度も心の中で言った。
大丈夫。
まだ動ける。
あと少し。
けれど、申し送りを終えて更衣室に入った瞬間、美緒はロッカーの前でしばらく動けなくなった。
制服のボタンを外す指先がうまく動かない。呼吸が浅い。
自分の中に薄いガラスの膜みたいなものが張っていて、少し触れたら全部割れそうだった。
それでも着替えて、外に出た。
駅へ向かう途中で、気づけば「月とミルク」の前に立っていた。
扉を開ける。
鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいま――」
爽太の声が途中で止まった。
美緒は何か言おうとした。
おはようございますでも、カフェラテお願いしますでもよかったのに、口がうまく開かなかった。
喉が詰まって、視界が滲んだ。
「三上さん」
その声を聞いた瞬間、張っていたものが切れた。
泣くつもりなんてなかった。
泣けるような場所でもないと思った。
なのに、目の奥が熱くなって、涙がこぼれた。
自分でも驚くくらい静かに、けれど止まらなかった。
爽太は一瞬だけ周りを見て、それからカウンター奥の、少し死角になる席に美緒を案内した。
「こっち、座れますか」
うなずくのが精一杯だった。
すぐに温かいおしぼりと水が置かれる。
少しして、何も聞かずに、カモミールティーのカップが置かれた。
「これ、サービスです」
美緒は「すみません」と言おうとして、また泣きそうになった。
「謝らなくていいです」
爽太は向かいには座らなかった。
少し離れた位置で、でも美緒が一人きりだと思わないくらいの近さにいた。
しばらくして涙が落ち着くと、恥ずかしさが押し寄せた。
「……ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいですって」
「お店なのに」
「うち、そんなに混んでないんで」
少し冗談っぽく言うから、美緒は鼻にかかった息でかすかに笑った。
「限界、だったんですね」
その言い方は決めつけじゃなかった。
ただ、そっと事実を置くみたいだった。
美緒は膝の上で手を握りしめた。
「患者さんが急変して……もちろん、そういうことがある仕事だってわかってるんです。でも、全部終わったあとも、他の仕事は止まらないし、ちゃんとしなきゃって思うし、でも全然間に合わなくて」
言葉にすると、また涙が滲んだ。
「患者さんにも優しくしたいのに、できない日があるんです。コール鳴るたびに、先に心が疲れる日があって。そんな自分がすごく嫌で」
爽太は黙って聞いていた。
「ナースコールが鳴っても、ほんとは行きたくないって一瞬思うことがあるんです。そんなの、看護師失格だって思うのに」
そこまで言って、美緒は自分で口を押さえた。
こんな本音、誰にも言ったことがなかった。
でも爽太は驚いた顔をしなかった。
少し考えるように視線を落としてから、ゆっくり言った。
「違ったらすみません」
その前置きが、妙にやさしかった。
「それ、失格じゃなくて、疲れてるんだと思います」
「でも」
「仕事そのものを嫌いなんじゃなくて、余裕がなくなってるだけなんじゃないですか」
その言葉に、美緒はうまく反論できなかった。
「ちゃんとしようとする人ほど、壊れる直前まで黙ってますよね」
真帆に言われた言葉と似ていた。
なのに、違う響きで胸に入ってきた。
「毎回すごく疲れてるのに、ここに来て、ちゃんと座って、帰るときはありがとうございますって言うでしょう」
美緒は顔を上げた。
「そういう人、たぶん本当にだめになる前に、少し休んだほうがいいです」
大丈夫、ではなく、休んだほうがいい。
その言い方が、変にきれいごとじゃなくて、救いになった。
*
そのあと、美緒は真帆に少しだけ本音を話した。
「休みの日、ちゃんと休めてる?」
と聞かれて、「休めてないかも」と答えたら、真帆は「やっと認めたか」と言って笑った。
「有休、一日でも取れるように相談しなよ。私もフォローできるとこはするから」
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃないって。顔見ればわかる」
真帆はパソコンを閉じながら、少しだけ真面目な顔になった。
「美緒、患者さんにはちゃんとしてるのに、自分には全然優しくないんだよね」
言い返せなかった。
結局、美緒は半日だけでも勤務を調整してもらった。
それで劇的に何かが変わるわけではない。
病棟の忙しさも、人手不足も、ナースコールの多さも変わらない。
それでも、「もう無理」と思いながら無言で飲み込むしかなかった場所に、ほんの少し出口ができた気がした。
けれど美緒には、まだ確かめられずにいることがあった。
自分は本当に、患者さんに優しくできていたのだろうか。
その答えは、思いがけない人の口から告げられることになる。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、美緒が爽太の前で初めて泣いてしまう回でした。
患者さんに優しくしたい。
でも、ナースコールが鳴るたびに心が先に疲れてしまう。
そんな自分を「看護師失格」だと責めていた美緒に、爽太は「失格じゃなくて、疲れてるんだと思います」と伝えます。
大丈夫だよ、と軽く励ますのではなく、
「休んだほうがいい」と言ってくれる人がいる。
その言葉が、美緒にとって大きな救いになりました。
次回はいよいよ最終話です。
美緒が少しずつ自分を取り戻し、爽太との関係も新しい一歩へ進んでいきます。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。




