最終話 夜勤明けじゃない日に
いよいよ最終話です。
限界だった夜勤明けの朝に、カフェ「月とミルク」で爽太と出会った美緒。
患者さんに優しくしたいのに、余裕をなくしてしまう自分を責めていた彼女は、少しずつ「ちゃんとできない自分」も受け止められるようになっていきます。
今回は、美緒が看護師としての自分を少しだけ許し、爽太との関係も一歩先へ進む回です。
夜勤明けではない朝に、二人がどんな時間を過ごすのか。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
数日後、横田さんの退院が決まった。
午前中の退院指導を終え、荷物をまとめるのを手伝っていると、横田さんがふいに言った。
「あんた、最初、怖い顔してたな」
美緒はぎくりとして笑った。
「すみません。そう見えてました?」
「見えてたよ。でも、まあ……世話になった」
横田さんは照れくさそうに咳払いした。
「夜中に何度も呼んでも、ちゃんと来てくれたしな」
「それは仕事ですから」
「仕事でも、できないやつはできないよ」
その言葉に、美緒は一瞬返事ができなかった。
「あんた、たまにすごく疲れてる顔してたけど、本当は優しいの、わかったよ」
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
優しくできなかった日もあった。顔が固かった日もあった。コール音を聞いて、心が先に疲れてしまった日もあった。
けれど、その全部で自分が否定されるわけじゃないのかもしれない。
「……ありがとうございます」
今度は自然にそう言えた。
*
夜勤明けの朝、美緒はいつもの店へ向かった。
空気は少し湿っていて、梅雨の気配があった。
けれど気持ちは、前よりずっと軽かった。
扉を開けると、爽太が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
「おはようございます」
「今日は、ちょっと違いますね」
「え、何がですか」
「顔」
また顔だ、と美緒は笑う。
「失礼ですね、ほんと」
「今日はちゃんと眠れそうな顔してます」
その言い方が、少し前の自分ならくすぐったくて受け止めきれなかったかもしれない。
でも今は、素直にうれしかった。
「……うん。たぶん、眠れそうです」
窓際の席に座ってカフェラテを待つ。
しばらくして爽太が運んできたとき、美緒は何気ないふりで言った。
「この前、ありがとうございました」
「何のことですか」
「わざとらしい」
「じゃあ、どういたしまして」
爽太は少し笑った。
「でも、三上さんが少し元気そうでよかったです」
その一言に、美緒はカップの縁を指でなぞりながら、ふと尋ねた。
「爽太さんって、お休みの日、何してるんですか」
「急に聞きますね」
「別に。会話です」
「そうですね……散歩したり、本読んだり。プリン食べたり」
「まだ言うんですね、それ」
「好きなんで」
「子どもみたい」
「三上さんも甘いもの、嫌いじゃないでしょう」
「……まあ、嫌いではないです」
「じゃあ、今度、夜勤明けじゃない日に来てください。プリン、食べてみます?」
その言葉に、美緒は一瞬息を止めた。
今度。
夜勤明けじゃない日。
それはつまり、看護師と店員としての短い会話の延長ではない時間に、会いたいという意味に聞こえた。
「それ、お客さん全員に言ってるんですか」
自分でも驚くくらい、少し意地悪な言い方になった。
爽太は目を細めた。
「言ってないです」
「……そうですか」
「三上さんは?」
「何がですか」
「来てくれますか」
美緒は視線をカップに落とした。
白いミルクフォームに、窓の光がやわらかく反射している。
こんなふうに胸のあたりが落ち着かなくなるのは、いつ以来だろうと思った。
疲れ切った朝に立ち寄るだけだった場所が、いつのまにか、少しだけ特別になっていた。
「……休みの日なら」
そう答えると、爽太は声を立てずに笑った。
「じゃあ、待ってます」
*
次の休日、美緒は少しだけ早く起きた。
夜勤明けじゃない朝にカフェへ向かうのは初めてだった。
いつもより丁寧に髪を乾かして、薄く化粧をして、私服を選ぶ。
鏡の前で自分を見たとき、看護師の三上美緒ではなく、ただの二十六歳の女の人が立っているようで、少し照れくさかった。
店の扉を開ける。
鈴の音が鳴って、爽太が顔を上げた。
そして、一瞬だけ本当に驚いたみたいな顔をした。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「……ちゃんと起きてる顔ですね」
美緒は吹き出した。
「それ、前にも言いましたよね」
「今日はもっとです」
「失礼」
「でも、似合ってます」
「何がですか」
「休みの日の顔」
そんな言い方をされると、うまく返せない。
窓際の席に座る。
いつもの朝とは違う光が差し込んでいる。店内の空気も少しだけ明るい。
カフェラテではなくアイスコーヒーを頼んで、プリンもひとつ注文した。
運ばれてきたプリンは、つやつやしていて、カラメルが少し苦かった。
「おいしい」
「でしょう」
爽太が少し得意げに言う。
「なんで爽太さんが得意げなんですか」
「僕の好きなものを認めてもらえたので」
美緒は笑った。
こうして向かい合ってみると、まだお互い知らないことばかりだと思う。
好きな本も、家族のことも、これまでの恋愛も、何も知らない。
けれど、それが不安ではなかった。
これから知っていけばいいと思えた。
「三上さん、休みの日って、ほんとは何したいんですか」
「急に難しいこと聞きますね」
「看護師じゃない日の三上さんの話」
美緒は少し考えた。
「寝るのも好きだけど……本当は、ちゃんと季節のあるところに行きたいかな」
「季節のあるところ?」
「紫陽花見に行くとか、海見に行くとか。最近、勤務表見て終わる日ばっかりで」
「それは、もったいないですね」
「うん。でも、休みって家事して寝たら終わるんですよ」
「リアルだ」
「リアルです」
爽太は少し笑ってから、まっすぐ言った。
「じゃあ今度、短い時間でも、どこか行きますか」
美緒は目を瞬いた。
「……それは、デートですか」
聞いてから、自分で顔が熱くなるのがわかった。
こんなこと、もっと上手に言える年齢だと思っていたのに、全然だめだった。
けれど爽太は、からかうみたいには笑わなかった。
「そう受け取ってもらえたら、うれしいです」
胸の奥が、やわらかく鳴った。
弱っていることを隠さなくていい場所があるだけで、人はこんなにも救われるのだと知った。
窓の外では、昼の光が街路樹の葉を揺らしていた。
美緒はスプーンを置いて、爽太を見た。
「また来ます」
「はい」
「今度は、夜勤明けじゃない日に」
そう言ってから、美緒は少しだけ言い直した。
「……でも、夜勤明けの日も、たぶん来ます」
爽太が目を細める。
「そのほうが、うれしいです」
美緒は笑った。
あの眠くて重たくて、泣きそうだった朝の先に、こんな時間が待っているなんて思わなかった。
夜があるから朝が来る、なんて、きれいごとみたいで好きじゃなかったけれど。
それでも今は、あの長い夜の終わりに、この店があってよかったと思う。
また朝を越えようと思える理由が、ひとつ増えた。
そして、その理由はきっと、これから少しずつ名前を変えていく。
ただのカフェ。
ただの常連。
ただの店員さん。
そう呼ぶには、もう少しだけ特別すぎる人へと。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
夜勤明けで心まで疲れ切っていた美緒が、小さなカフェで爽太と出会い、少しずつ自分を取り戻していく物語でした。
爽太は、美緒を劇的に救う王子様ではありません。
ただ、疲れていることに気づいてくれて、話を聞いてくれて、「休んだほうがいい」と言ってくれる人です。
でも、そんな何気ない優しさが、限界の朝には何より大きな救いになることもあると思います。
美緒と爽太の恋は、まだ始まったばかりです。
夜勤明けの日も、そうではない日も、二人が少しずつお互いを知っていく未来を想像していただけたら嬉しいです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




