第2話 優しくしたいのに、できない日
夜勤明けに立ち寄るカフェが、美緒にとって少しずつ特別な場所になっていきます。
でも、病棟での日々は相変わらず忙しく、患者さんに優しくしたい気持ちと、余裕を失ってしまう自分との間で、美緒は苦しんでいます。
今回は、看護師としての美緒の現実と、心が少しずつ限界に近づいていく様子を描いています。
三回目に行ったとき、美緒はもう自然に窓際の席を選んでいた。
その日も夜勤はしんどかった。
下剤調整中の患者が何度もトイレ介助を必要として、入院二日目の高齢患者は環境変化で眠れず、何度も「朝ですか」と聞いてきた。申し送り前には輸液ポンプが連続で鳴って、まだ触っていない記録が画面に残ったままの状態でタイムカードを切った。
でも前ほどの絶望感はなかった。
朝になれば、この店の静かな空気があると知っていたからだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターには、初めて来た日と同じ男性がいた。
美緒が座ると、彼はメニューを持ってくる前に言った。
「カフェラテでいいですか」
覚えられていたことに少し驚いて、美緒は思わず笑った。
「はい。お願いします」
「今日はトースト、焼きたてですよ」
「じゃあ、それも」
「バターとジャム、どっちにします?」
「……バターで」
「かしこまりました」
押しつけがましくないのに、ちゃんと見ている。
そういう接客だった。
トーストを待つあいだ、美緒は窓の外を眺めた。
出勤途中の会社員、自転車で保育園へ向かう母親、コンビニの前で缶コーヒーを飲む作業着の男性。
世の中は普通に午前を始めているのに、自分だけその流れから少し外れているような感覚がある。
夜を働いてきたあとの朝は、いつも少しだけ、世界に置いていかれたみたいな気持ちになった。
トーストは思ったより厚切りで、表面がさくっとしていた。バターがゆっくり染みていく匂いがする。
美緒はほとんど無言で食べた。
誰とも話さずにいられる静けさが、今はありがたかった。
会計のとき、その男性が言った。
「また、お待ちしてます」
店員として自然な言葉なのに、少しだけ本当にそう思っているように聞こえた。
*
病棟の空気は、やさしさだけでは回らない。
そんなことは看護学生の実習のころからわかっていたはずなのに、働き始めて三年目になった今でも、ときどき胸の奥で理想が痛んだ。
「三上さん、五〇三の横田さん、またトイレって」
「今行きます」
昼前のナースステーションで、美緒は電子カルテから顔を上げた。
内科病棟は慢性的に忙しい。高齢患者が多く、点滴、処置、服薬、食事介助、清潔ケア、入退院対応、家族説明、医師の指示受け。
ひとつ終わる前に次が来る。誰かが少し余裕を失うと、そのしわ寄せは患者にもスタッフにも伝わる。
横田さんは七十八歳。肺炎で入院中だが、状態が少し改善してきたぶん、不安を訴える余裕が出てきたのか、頻繁にナースコールを押すようになっていた。
トイレ、喉が渇いた、テレビが映らない、痰が絡む、眠れない。
どれも本人にとっては切実だとわかっている。
わかっていても、重なるときつい。
「今、声かけたばっかりなのにねえ」
隣で記録をしていた同僚の香坂真帆が苦笑する。
「不安なんだと思う」
「それはそう。でも美緒、顔やばいよ。ちゃんと休憩行った?」
「まだ」
「先に行きなよ。倒れたら余計に迷惑」
「うん、あとこれだけ入力したら」
そう言いながら、美緒は立ち上がった。
横田さんの病室に入ると、ベッドの上で不機嫌そうな顔がこちらを向いた。
「遅いよ」
「すみません、お待たせしました。トイレですね」
「さっき来た若い子は、待ってって言ったんだ。そんなの我慢できるわけないだろ」
「ごめんなさい。行きましょう」
車椅子を押しながら、美緒はなるべく穏やかな声を保った。
けれど、戻ってきてベッドに移るとき、横田さんはまた言った。
「あんたたち、いつも忙しい顔してるよ。患者は気を遣うんだ」
その瞬間、美緒の中で何かがきしんだ。
「……気を遣わせてしまって、すみません」
口調は保った。
けれど、たぶん声は少しだけ硬かった。
横田さんもそれを感じたのか、黙り込んだ。
病室を出たあと、美緒は自分の手が冷たくなっていることに気づいた。
怒ったわけではない。泣きたいわけでもない。
ただ、胸の奥が先に疲れてしまう感じがあった。
ナースコールが重なるだけで、心のほうが一歩先にすり減っていく。患者が嫌いなわけじゃない。助けたくないわけでもない。
それなのに、コール音を聞いた瞬間に、ほんの一瞬だけ行きたくないと思ってしまう自分がいる。
その自分を、誰より自分が責めていた。
休憩室で紙コップの水を飲んでいると、真帆が隣に腰を下ろした。
「また横田さん?」
「うん」
「大変だよね」
「……私、向いてないのかな」
つい、口から漏れた。
真帆はすぐには何も言わなかった。コンビニのおにぎりの袋を開けて一口食べてから、ようやく言う。
「向いてない人は、そんな顔しないと思うよ」
「でも、ちゃんとしたいのに、できないことばっかり」
「ちゃんとって何。全部の患者さんに、いつも百点で優しくすること?」
美緒は答えられなかった。
「無理だよ。そんなの。点滴漏れてる人がいて、転倒リスク高い人がいて、オペ出しがあって、家族対応もあって、その中で全員に同じ温度で接するとか、神様じゃないんだから」
「でも、患者さんから見たら関係ないよね」
「まあ、そう」
真帆はそこで否定しなかった。
「だから難しいんだよ、この仕事。でもさ、美緒は、自分に課してる基準が高すぎる」
「真帆はできてるじゃん」
「できてないって。適当に流すのが上手いだけ」
「それができない」
「じゃあ練習しな。あと、美緒はもっと人に頼ったほうがいい」
真帆は立ち上がりかけて、少しだけ動きを止めた。
「私も二年目のとき、一回ほんとに無理だったから」
美緒が顔を上げると、真帆は苦笑した。
「夜勤のあと、更衣室で泣いた。しかも理由、患者さんに優しくできなかったから。笑うでしょ」
「……笑わない」
「でしょ。だから、そういうの、美緒だけじゃないよ」
真帆は空になったおにぎりの袋を丸めてゴミ箱に入れた。
「真面目な人ほど、壊れるの遅いから厄介なんだよね」
その言葉が、妙に耳に残った。
壊れる。
自分にはまだ関係ない言葉だと思いたかった。
けれど次の夜勤明け、美緒はまた「月とミルク」の前に立つことになる。
そしてその朝、あの男性の名前を初めて知る。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
美緒が抱えている「ちゃんとしたいのに、ちゃんとできない」という苦しさが、少しずつ見えてくる回でした。
患者さんに優しくしたい。
でも、忙しさや疲れの中で、心が先にすり減ってしまう。
そんな自分を責めてしまう美緒ですが、同僚の真帆の言葉によって、少しだけ救われるきっかけも生まれます。
次回は、美緒がカフェ店員の名前を知り、二人の距離が少しだけ近づいていきます。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




