第1話 夜勤明けの朝、光が痛い
夜勤明けの朝、世界が少しだけまぶしすぎる。
そんな疲れ切った看護師・美緒が、ふと立ち寄った小さなカフェ。
そこでかけられた何気ない一言が、張りつめていた心に静かに触れていきます。
派手な出会いではありませんが、誰かに「疲れている」と気づいてもらえることの救いを書きました。
よろしければ、最後までお付き合いください。
夜勤明けの朝は、世界の明るさが少しだけ暴力的だ。
午前九時を少し過ぎたころ、病院の自動ドアが開いた。
白い蛍光灯の下に長くいた目には、朝の光がやさしいというより、薄く膜を張ったみたいに滲んで見える。三上美緒は小さく目を細め、肩にかけたバッグの位置を直した。スクラブから私服に着替えても、体の芯にはまだ病棟のにおいが残っている気がする。アルコール綿、点滴の薬液、洗いたてのシーツ、ナースステーションのぬるい紙コーヒー。夜のあいだに染みついたものは、簡単には抜けない。
足が重かった。ふくらはぎがじんじんして、足裏には床の硬さがそのまま残っているみたいだった。
昨夜は、ほとんど座れなかった。
認知症の患者がベッド柵を越えようとして、点滴ルートの自己抜去があって、明け方には呼吸状態の悪い患者の対応が重なった。ようやく落ち着いたと思ったころには採血の時間で、申し送りの準備をしているうちに、記録はまた最後まで終わらなかった。
日勤の先輩に「残り、見とくから。先に上がって」と言われたとき、美緒は「すみません」と答えてしまった。
ありがとう、より先に、すみませんが出る。
そんな自分が、少し嫌だった。
ちゃんとやりたいのに、ちゃんとできない。
その感覚が、ここ数か月ずっと胸の底に沈んでいる。
駅までの道を歩く。病院の裏手を抜ける細い通りには、コンビニとクリーニング店と、昔からあるような喫茶店や食堂が並んでいる。出勤のときは早足で通り過ぎるだけの道だ。
けれどその朝、美緒は一軒の小さなカフェの前で足を止めた。
木枠のガラス扉。
店先の黒板に、手書きでモーニングメニューが書かれている。
月とミルク。
前からあったはずなのに、ちゃんと見たのは初めてだった。コーヒーの匂いが、扉の隙間からほんの少し流れてくる。
家に帰れば眠れる。シャワーも浴びたい。洗濯物もたまっている。
わかっているのに、その日はなぜか、まっすぐ帰る気になれなかった。
夜勤のあと、すぐ布団に入っても眠れない日がある。体は限界なのに、頭だけがまだ病棟に置き去りになっていて、モニター音やナースコールの残響が耳の奥で鳴り続けるような日。
少しだけ、病院の外の空気に慣れたかった。
美緒は扉を開けた。
店内は思っていたより静かだった。
朝の遅い時間だからか客は少なく、窓際に年配の女性が一人、奥にノートパソコンを開いた男性が一人。小さなピアノの曲が流れていて、コーヒーカップの触れ合う音が、ときどき柔らかく響く。
窓辺には小さな観葉植物がひとつ置かれていて、やわらかい光を受けた葉の縁だけが、うすく透けて見えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から声がした。
顔を上げると、黒いエプロンを着けた男性が立っていた。二十代後半くらいだろうか。派手さのない顔立ちなのに、静かに目を引く。
整っているというより、見ている目がやさしいのだと思った。
「お好きな席へどうぞ」
美緒は軽く会釈して、窓際の二人掛けの席に座った。
メニューを開く。
カフェラテ、ブレンド、トースト、スープ。
簡単なはずの文字が、疲れた頭には少し遠い。
少しして、その男性が水を持ってきた。
「ご注文、お決まりでしたら」
「あ……カフェラテ、お願いします」
「ホットでいいですか」
「はい」
彼は伝票を書いて下がる前に、ほんの一瞬だけ美緒の顔を見て、言った。
「お疲れさまです」
営業用の言葉だったのかもしれない。
それなのに、美緒は返事ができなかった。
疲れていることを、見抜かれた気がしたからだ。
病棟では「大丈夫です」が口癖になっていた。眠くても、しんどくても、忙しくても、とりあえず笑って動く。患者の前でも、先輩の前でも、弱っている顔は見せないようにしているつもりだった。
たった一言で、その薄い鎧を指先でつつかれたみたいだった。
運ばれてきたカフェラテは、白いカップの縁からやわらかな湯気を上げていた。
ひと口飲むと、思っていたより苦くなくて、牛乳の甘さが少し遅れて舌に残る。
おいしい、と思った瞬間、美緒の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
それが始まりだった。
けれどそのときの美緒はまだ知らなかった。
この店の扉を、次はただの休憩のためではなく、誰にも見せられない自分を抱えたまま開けることになるなんて。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
夜勤明けの美緒が、小さなカフェ「月とミルク」で爽太と出会う回でした。
彼の「お疲れさまです」という一言は、まだ恋というより、まずは美緒の心を少しだけほどく言葉です。
次回は、美緒が抱えている仕事の苦しさや、「ちゃんとしたいのに、できない」という思いがより深く描かれていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




