第5話 楽園
千代田区の要塞の一角、かつては無機質なサーバーラックとモニターの光に占拠されていた邦明の私室は、今や不思議な調和に包まれていた。
高性能ワークステーションの隣には、可愛らしい小花柄のマグカップが並び、常に情報の濁流を監視していたデスクの隅には、情報科学の分厚い専門書と、まさ子が丁寧に淹れたハーブティーの香りが漂っている。
「邦明さん。今日の体調はどうですか?」
まさ子が、ふわりとした足取りで部屋に入ってくる。二十一歳になった彼女は、理学部情報科学科の学生として、最先端の理論を学びながら、この閉ざされた「聖域」の主婦としても立ち振る舞っていた。
邦明は、調子の良い日にはキーボードを叩き、世界の情報の綻びを縫い直す仕事を続けていた。だが、その背後にまさ子の温もりが寄り添うとき、彼はかつてない「人間らしい幸福感」に包まれるのを感じていた。
彼にとって、女性との深い交流がこれで初めてというわけではない。かつて戦場のような情報の最前線で、魂を通わせた女性もいた。しかし、それは互いに死を覚悟した上での、張り詰めた精神の連帯に過ぎなかった。
まさ子との日々は違う。
朝、彼女の寝息の乱れで目を覚まし、彼女が作った素朴だが滋味深い食事を摂り、時折、彼女が大学の課題に「ほんわか」と詰まるのを笑いながら助ける。
自制心と規律という檻の中で、一生を「機能」として捧げてきた邦明にとって、まさ子がもたらす「ふわゆる」とした日常は、神が死の直前に与えてくれた最高に甘美な救済だった。
「邦明さんは、私の『先生』ですから。大学の課題、今日もご指導ください、ね」
まさ子はそう言って、邦明の膝の上にちょこんと座る。ふわふわした外見に反して、その頭脳はエス家の女らしく、時折、邦明さえも唸らせるような鋭いコードを書く。
邦明は彼女の腰を優しく抱き寄せながら、その穏やかな時間に浸った。デジタル・ウィルスの侵食は止まっていない。だが、まさ子の「全肯定」という名の防壁が、彼の脳内のノイズを最小限に抑えていた。
しかし、楽園の時間は、命の萌芽とともにその相貌を変えた。
季節が巡り、まさ子の身体に小さな変化が訪れた。彼女が「ほんわか」とした笑顔の中に、どこか凛とした母親の強さを宿し始めたある日、邦明はその事実を知らされた。
「……私のなかに、邦明さんの『バックアップ』ができました」
まさ子の言葉は、愛する男に対する、照れ隠しの告白であった。
邦明は、震える手でまさ子のまだ平らな腹部に触れた。自分というシステムが間もなくシャットダウンしようとしている中、自分の本質を受け継ぐ「種」が、この愛らしい女性の中に宿った。
それは、エス家において常に「影」として、自らを消去し続けてきた邦明が、初めてこの世に残した確かな「実体」だった。
だが、新しい命の躍動と呼応するように、邦明の病状は急坂を転がり落ちるように悪化し始めた。
デジタル・ウィルスが、ついに主要なニューラルネットワークを焼き切り、彼の意識を現実から引き剥がそうとする。高熱とノイズの嵐の中で、邦明は自らの終わりが「数ヶ月単位」から「数日単位」に変わったことを、ハッカーとしての冷徹な直感で悟った。
「まさ子……もう、隠し通せないな」
病床で、邦明は掠れた声で言った。
まさ子は、邦明の手をしっかりと握り締め、静かに頷いた。
二人は、すべてをいずみと葵に告白することを決意した。
翌日、要塞の重厚な電子錠が開かれ、二人の女性が足を踏み入れた。
菩薩のような慈愛と、全てを見透かす鋭さを併せ持つ、母・いずみ。
そして、人類の太陽として君臨し、弟の献身を一身に受けてきた姉・葵。
変わり果てた邦明の姿と、その傍らで彼を支えるまさ子の「女」の顔を見て、葵は一瞬だけ、その太陽のような瞳を揺らした。
いずみは何も驚かない。彼女はただ、深い微笑みを湛え、息子と孫を見つめていた。
「……母さん、姉ちゃん。ごめん。俺、最後の最後で、この家の規律を破った」
邦明の告白は、静かだった。
まさ子の懐妊、そして自分たちの八年に及ぶ物語。
葵は、弟の頬にそっと触れ、かつてないほど優しい、しかし揺るぎない声で言った。
「バカね、邦明。……あなたは、何も規律なんて破っていないわ。あなたは、ただ『自分の幸せ』として、一番ふさわしい場所で見つけただけ。……まさ子、よくこの子を救ってくれたわね」
葵の全肯定の言葉に、邦明は初めて、子供のように涙を流した。
姉の影として生き、自分を殺し続けてきた男が、最期に「家族」という絆のなかに、真実の居場所を見出した瞬間だった。
だが、告白を終えた安堵が、皮肉にも邦明の生命力を最後の一滴まで吸い出していく。
いずみと葵が部屋を後にし、再び二人きりになった「楽園」で、邦明は眠るように意識を失い、死の淵へと向かう確実なカウントダウンが始まった。
(了)




