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3-1 お花畑の告白【ザラメ砂糖三代記】  作者: 妹ノ小路真紀


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第4話 救済

 デジタル・ウィルスによる浸食は、邦明の脳内を意味を持たないノイズの集積所へと変えていった。

 視界の端で常にパケットが衝突し、過去の通信記録がフラッシュバックのように網膜に焼き付く。ある時は十一歳の夜に姉と一緒に盗み見た両親の凄絶な情愛であり、ある時は自らの内に封印した「太陽」への背徳的な情念であった。

「……来るなと言っただろう、まさ子。俺の脳はもう、ドブの底の廃棄データと同じだ。感染うつるぞ」

 病床の邦明は、震える手でモニターを遠ざけようとした。だが、指先はキーボードを叩く力さえ失い、虚空を掻くだけだった。ウィルスによる高熱が彼の論理を焼き、現実と仮想の境界線を溶かしていく。

 そこに、ひんやりとした涼風のような気配が重なった。

 まさ子が、邦明の熱い額に自分の手を重ねていた。彼女は邦明の教え子として、叔父の病状を「数値」ではなく「質感」で理解しようとしていた。

「叔父さま、ハッカーは独りで戦うものだなんて、誰が決めたんですか?」

 まさ子の声は、相変わらず「ほんわか」として、どこかおっとりしている。しかし、彼女の手元には、邦明のメインサーバーに直結された最新鋭のラップトップが鎮座していた。

「叔父さまの余命も、葵お母さまへの消えない想いも、この家で背負ってきた汚いお仕事の記憶も……私が全部、デフラグしてあげます」

「……馬鹿なことを。これは俺の罪だ。お前のような綺麗な娘が触れていていい領域じゃない」

「『綺麗』なだけでは、これまでだって、叔父さまの隣にはいられませんでしたよ」

 まさ子は微笑んだ。その瞬間、彼女の瞳から「ゆるゆる」とした光が消え、エス家の女だけが持つ、底知れない深淵の闇が覗いた。

 彼女は迷わず、邦明のニューラルネットワークに、自ら構築した「介入プログラム」を流し込んだ。


 邦明の意識は、真っ黒なノイズの海に沈んでいた。

 そこには、かつて彼が「おかず」として消費し続け、同時に聖域として守り抜いた姉、葵の幻影が無数に浮遊していた。

『邦明、私を守ってくれるんでしょ?』

『バカね、邦明……』

『邦明、こちらにいらっしゃい』

 幻影の葵たちは、彼を責めるように、あるいは誘惑するように囁きかける。罪悪感という名のデジタル・ウィルスが、邦明の心を内側から食い破ろうとしていた。

「……ああ、そうだ。俺は汚れている。姉ちゃんを汚い目で見て、それでいて守護者のフリをしてきた……」

 邦明が自ら闇に飲み込まれようとしたその時、黒い海に一筋の「白い光」が差し込んだ。

 それは、重厚な鎧を纏った騎士でも、鋭いナイフを持った暗殺者でもなかった。ただの、ふわりとしたワンピースの裾を揺らして近づいてくる、綿菓子のような少女の姿だった。

「見つけました、叔父さま」

 まさ子が、ノイズの海を素足で歩いてくる。

 彼女の存在が触れるたびに、黒い廃棄データが浄化され、穏やかなひだまりへと変わっていく。彼女は幻影の葵たちを一瞥もせず、ただ一人、震えている四十七歳の男の前に跪いた。

「お母さまは太陽ですから、叔父さまを焼き尽くすだけです。でも、私は『沼』なんです。叔父さまのどんな汚れも、どんな罪も、ただ静かに飲み込んで、温めてあげられます」

 まさ子は邦明の首に腕を回し、その耳元で、かつてないほど淫らで、かつ慈愛に満ちた声を漏らした。

「お母さまの代わりじゃありません。叔父さまの『絶望』の、本当の居場所になりに来たんです」

 その瞬間、邦明を縛り付けていたデジタル・ウィルスのノイズが、霧散した。

 姉への執着、守護者としての矜持、そして死への恐怖。それらすべてを「まさ子」という巨大な受容体が、音もなく吸い込んでいく。

 邦明は、生まれて初めて、論理ロジックではない「救済」を理解した。


 現実の病室。

 邦明が目を開けると、そこにはモニターの警告灯を背景に、少し汗ばんだ顔で自分を見つめて微笑むまさ子の姿があった。

 幻影ではない。今、自分を救い出したのは、この可憐で、おっとりとしていて、そして誰よりも「エス家の闇」を深く理解している姪なのだ。

「……まさ子。お前は、自分が何をしようとしているのか、わかっているのか」

 邦明の声から、冷たさが消えていた。

 まさ子は、返事の代わりに、自分のブラウスのボタンを一つ、静かに外した。

 若々しく、しかし和樹譲りの確かな存在感を持つ彼女の肌が、デジタル信号の青い光に照らされる。

「覚悟なんて、中二のあのお花畑で済ませてきました。叔父さまが、お母さまを想って自分を律するたびに、私はそれを見て、叔父さまを抱きしめたいって思っていたんですよ」

 邦明は、自らの内にあった最後のファイヤーウォールを、自らシャットダウンした。

 余命がいくばくもないこと。この行為がエス家の倫理から外れていること。そんな「正しい情報」は、今、彼女が放つ「人間としての体温」の前では何の意味も持たなかった。

 邦明は、震える手でまさ子の腰を引き寄せた。彼女は喜びと不安の混ざった瞳で、叔父を受け入れる。

 それは、長年「影」として生きてきた男が、死の直前に見つけた、唯一の本物の光だった。

 その夜から、二人は千代田区の要塞の一角で、誰にも知られることのない「夫婦」としての生活を始めた。

 デジタル・ウィルスは消えたわけではない。しかし、邦明の心からは、あの不快なノイズは消え去っていた。

 隣でスヤスヤと眠る「ふわゆる」な妻、まさ子。その温もりに包まれながら、邦明は人生で初めて、明日が来ることを穏やかに待ち望んだ。


(了)

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