第3話 侵食
千代田区のマンションの一室。積み上げられた技術書と、絶え間なく明滅するサーバーのインジケーターが、二人の境界線だった。
高校三年生になったまさ子は、東帝大の理科一類、そしてその先にある理学部情報科学科という、日本最高峰の理系迷宮を目指していた。
「叔父さま、このアルゴリズムの計算量、どうしてもオーダーが合いません。私の想定ではこうなるはずなのですが、どうしてですか」
隣に座るまさ子のノートから、鉛筆の仄かな炭素の金属臭と、彼女の体温が混ざり合った香りが立ち上がる。邦明は、数千万ドルの資金移動を監視する手を止め、姪のノートを覗き込んだ。
まさ子は、父・和樹譲りの均整の取れた骨格を持ちながら、その物腰は相変わらず綿菓子のように「ほんわか」としている。だが、ペンを動かすその速度と論理の正確さは、母・葵の血を隠しきれていなかった。
「……ここだ。お前は計算を簡略化しようとして、エッジケースを無視している。情報は常に、最も汚い場所から漏れるんだ。完璧を求めるなら、その汚れを計算に組み込め」
邦明はぶっきらぼうに指摘しながら、彼女のノートに鮮やかな数式を書き加える。
まさ子は「あぁ、なるほど」と、おっとりした口調で言いながら、邦明の顔をじっと見つめた。その視線は、師を敬う教え子のそれであり、同時に、一人の男の深淵を測る「女」のそれであった。
「やっぱり、叔父さまは凄いです。私のヒーロー。……ねえ、私が無事に理情(理学部情報科学科)に進めたら、何かお祝いしてくれますか?」
「お前、まだ大学にも受かってないだろうが。まずは理一に受かれ。……受かったら、そうだな。またディズニーにでも連れて行ってやる」
「子供扱いですね。でも、叔父さまと二人なら、どこでもいいです」
まさ子はそう言って、邦明の腕に一瞬だけ自分の肩を預けた。
その感触は驚くほど柔らかく、同時に、自制心の檻の中で生きてきた邦明の理性を鋭く刺した。邦明は彼女の「お花畑」の向こう側に、時折、姉・葵が見せていたあの「淫靡な影」を感じ取る。
だが、どこまでいってもまさ子の微笑みはどこまでも純粋で、濁りがない。彼女は、邦明が「自分を律している」という事実さえも、その「ほんわか」とした空気で包み込み、無効化していた。
月日は流れ、まさ子は現役で東帝大理科一類に合格した。
そして大学入学後も、二人の「家庭教師」の時間は続いた。進学振り分け、通称「進振り」で情報科学科という難関の椅子を勝ち取るため、まさ子は邦明の要塞へと通い詰めた。
邦明もまた、そんな彼女を「代用彼氏」として、あるいは「手のかかる見どころある教え子」として、慈しむようになっていた。彼女とのプラトニックで健全な時間が、情報の濁流に晒される彼の唯一の「休息」になっていたのだ。
しかし、運命の歯車は、まさ子が学部二年生の年明けに、無慈悲な音を立てて回り出した。
「……なんだ、これは」
深夜、まさ子の進振り対策用のプログラムを校正していた邦明の指が、突然、自分の制御を離れて激しく震えた。
視界の端に、ノイズが走る。モニターのコードが、文字の羅列ではなく、実体を持った粘着質な黒い糸となって脳内に絡みついてくる感覚。
ハッカーとしての、そして情報のプロとしての直感が、即座にその正体を突き止めた。
【デジタル・ウィルス】
長年、世界の深淵で情報の毒を捌き続けてきた代償。それは論理的な思考回路を物理的に破壊し、神経系をデジタル信号の暴走によって侵食する、不可逆の病だった。まだ正式には医学界で発見もされていない「病」。
邦明は、震える手で自らの脳内ログをスキャンした。
正確な計算結果が、冷酷なデジタルフォントで網膜に映し出される。
『余命:約一年六ヶ月。機能停止プロセス:段階的崩壊』
邦明は、背筋に凍りつくような寒さを感じた。
自分が壊れていく。情報の影として、姉、つまりこの世界を守り続けてきたシステムが、内側から崩壊していく。
そして、その恐怖以上に彼を突き動かしたのは、まさ子への懸念だった。
(……このウィルスは、接触によって感染する可能性がある。まさ子を、このドブの底にこれ以上留めておくわけにはいかない)
その日から、邦明の態度は一変した。
まさ子が無事に理学部情報科学科への進学を確定させ、満面の笑みで報告に来たその日、邦明は彼女の顔さえも見ようとしなかった。
「叔父さま! 私、第一志望に行けることになりました。約束の、お祝いの――」
「……帰れ」
邦明の、冷たく突き放すような声が部屋に響いた。
まさ子の言葉が途絶える。
「叔父さま……? どうしたんですか。私、何か悪いことを――」
「もう、お前に教えることは何もない。希望学科に入ったんだ、後は自分でやれ。……もうここには来るな。俺は忙しいんだ」
邦明はキーボードを叩き続け、偽りの拒絶を演じた。指先は震え、心臓はデジタルノイズのせいで不規則な鼓動を刻んでいる。
まさ子を遠ざけなければならない。自分の「汚れ」が彼女に伝染する前に。
長い沈黙の後、邦明の背中に、温かな感触が触れた。
まさ子が、震える邦明の肩を、背後から優しく、そして力強く抱きしめていた。
「……叔父さま、嘘が下手ですね。ハッカーのくせに」
まさ子の声は、相変わらず「ほんわか」としていた。
だが、その声の底には、エス家の女だけが持つ、逃げ場のない「全肯定の支配」が宿っていた。
「わかってますよ。叔父さまが、壊れ始めていること。……だから言ったじゃないですか。私は、叔父さまと同じ景色が見たいって」
邦明は、自らの鉄壁の防御壁が、この「ゆるふわ」少女によって、あっさりと内側からバイパスされていくのを、無力感と、それ以上の深い安堵の中で感じていた。
(了)




