第2話 純情
千代田区の事務所、その最深部にあるモニターの要塞。そこはエス家が握る「世界の裏側」がデジタル信号となって流れ込む、神経中枢だった。
四十一歳の邦明は、網膜に焼き付くようなブルーライトを浴びながら、絶え間なく押し寄せる情報の濁流を捌き続けていた。小学生時代にFBIの勧誘を蹴って以来三十年、彼は姉・葵という「太陽」が放つ光の裏側で、すべての汚れを浄化し、秩序を保つ「影」として生きてきた。
そんな彼の無機質な空間に、不釣り合いなほど甘い、春の陽だまりのような気配が滑り込んできたのは、すでに汗ばむ陽気の初夏のある日のことだった。
「叔父さま、お疲れさまです。カステラ、いりますか?」
ふわりとした、輪郭のにじんだよぅな声。中学二年生になったばかりの十三歳のまあちゃん――まさ子が、大きな銀盆を抱えて立っていた。
三姉妹の中で最もしっかりした骨柄ながら、その立ち居振る舞いは綿菓子のように柔らかい。凛や茜のように、エス家の女が持つ「華奢で鋭利な色気」を前面に出すこともなく、ただそこにいるだけで周囲の酸素を甘く変えてしまうような、天性の「ほんわか」としたオーラ。
「……ああ、そこに置いておけ」
邦明はキーボードを叩く手を止めず、素っ気なく応じる。
この数日前、まさ子は邦明に対し、「お花畑の告白」とも呼ぶべき突拍子もない愛の告白、愛の宣言?をしていた。
『私、叔父さまのお嫁さんになりたいです』
広大な花畑で、風に吹かれる少女が仮りそめの天への誓いを口にするような、あまりに非現実的な言葉。母親の葵さえ、その報告を受けて「まあ、あの子らしいわね」と笑い飛ばし、邦明自身も「中学生らしい、手近な男性への憧憬」と解釈して、それを記憶の最下層へ放り込んでいた。
だが、まさ子にとっては、その宣言は厳然たる既成事実であった。
この日から彼女は、邦明の自制心を刺激しないよう、細心の注意を払いながら、それでいて一歩も引かずに彼の生活圏に入り込み、当然のことのように居座り始めたのである。
「叔父さま、このサブルーチン部分のソースコード、すごく綺麗。私、こういう情報の整理って、なんだかパズルみたいで好きです」
まさ子は、邦明の横でモニターを覗き込む。
ふわりと香る、石鹸と少女特有の甘い匂い。邦明の職業上とも言うべき鋭敏な感覚は、彼女が時折ほのかに見せる、エス家の女らしい「無意識の」淫靡さを捉えていた。
少しだけ崩れた襟元からわずかに覗く胸元の白さや、モニターの光を反射して潤む、底の見えない瞳。一見、何も考えていないようなふわふわした表情の裏側で、母・葵譲りの頭脳に裏付けられたハッキング能力の片鱗が、時折デジタル信号のように明滅する。
(……もしかしてこの子は、どう見えるか分かってやっているのか?)
邦明は一瞬、疑念を抱くが、すぐにそれを打ち消す。
まさ子の微笑みは、あまりに濁りがなかった。切れ者の叔父を尊敬し、信頼し、その背中に守られていることに安らぎを感じている。その純粋で嘘偽りのない敬愛こそが、邦明に対する極めて効果的な煙幕となっていた。
鋭すぎる観察眼を持つ邦明が「まさ子との関係を批判的に再定義する」という機会を、彼女はその圧倒的な「隙」と「心根の素直さ」で、巧妙に外し続けていたのだ。
まさ子が高校生になっても、その奇妙な「プラトニック・カップル」のような関係は続いた。
十六歳の誕生日の前日。何か欲しい物はあるか聞かれたまさ子は、邦明の服の裾を控えめに掴んで、可愛らしいおねだりをした。
『お誕生日プレゼントに、TDLに行きたいです。二人きりで』
姉たちには内緒という、いかにもおませな姪の頼み。邦明もまた、不器用な叔父としての役柄を果たすことで、自らの深淵から目を逸らした。
「お前な……いい歳して叔父さんとデートか。早くちゃんとした彼氏を作れよ。それまでの代用だからな、俺は」
ネズミ耳のカチューシャを無理やり頭に乗せられ、ポップコーンのバケツを抱える四十四歳の邦明。その横で、幸せそうに腕を絡めてくる女子高生のまさ子。
周囲の目には、少しだけ仲の良すぎる父娘、に見えただろうか。高校生にしてはあどけないまさ子の雰囲気と心から夢の国を楽しんでいる風情は、訳アリだとは全く感じさせない。
だが、シンデレラ城をバックに微笑むまさ子の瞳の奥に、邦明は一瞬だけ、かつて寝室のモニター越しに見た「あの夜」の姉・葵と同じ、恍惚の光を見た気がした。
「代用なんかじゃ、ありませんよ。叔父さま」
まさ子は、邦明の耳元で、フワフワした声で囁いた。
「私、叔父さまと同じ『景色』が見たいんです。だから、叔父さまと同じ学校を目指します。お勉強、教えてくれますよね?」
それが、彼女の仕掛けた本格的な「ハッキング」の開始だった。
ほんわかとゆるゆるのヴェールの下で、彼女は着実に、邦明の孤独な要塞へと近づいていく。
邦明は、自らの身体を蝕み始めていた「デジタル・ウィルス」のノイズにまだ気づかぬまま、世界で最も甘い侵入者を、自分の30センチ横に招き入れてしまったのである。
(了)




