第1話 告白
昼下がりの穏やかな光が、エス家のリビングを満たしていました。
まさ子が13歳になったばかりの晩春。
テーブルの上には、茜とまさ子が淹れたばかりの紅茶が、柔らかな湯気を立てています。いつもと変わらない、他愛のないお喋りに興じる三姉妹の穏やかな日常のはずでした。
部屋の片隅では、マキがソファに深く腰掛け、職務の緊張からひととき解放された邦明が、静かにカップを傾けていました。
マキは、三姉妹の祖母であるいずみの古くからの親友です。多忙を極める母・葵に代わって、幼い頃からいつも三姉妹の側に寄り添い、彼女たちを温かく時に厳しく見守ってきた、事実上の育ての親とも言える存在です。
その温かな静寂の中に、まさ子はいつもの、春の日だまりのような笑顔のまま、ぽつりと、しかし驚くほど澄んだ声で言ったのです。
私は、邦明叔父さまと結婚したいです
叔父さまとふたり、静かで穏やかな日々を送るのです
そして、私の膝の上で、叔父さまの最期を看取るのです
それは、あまりにも無垢な響きでした。まさ子の表情からは冗談や狂気といった色はまったく見て取れず、ただ「今日のおやつはカステラがいい」とでも言うような、いつもの「ゆるふわ」な空気を纏ったまま、まさ子はさらりと告げたのです。
紅茶を口に運ぼうとしていた凜の指先が、ぴたりと止まりました。
不意を突かれた邦明は、一瞬だけ目を見開きましたが、すぐに普段の苦笑いを浮かべてカップを置きました。
「……分かった分かった。俺がジジィになってもまだ、まあちゃんが売れ残っていたら、その時は俺が引き取ってやるよ」
大人の包容力で冗談として受け流そうとする叔父に、まさ子はふわりと視線を向け、今度は隣に座る長女へとはにかんでみせました。
「凜お姉さま、お聞きになりました? 叔父さまも、いずれ私を引き取って下さるっておっしゃってくださいましたもの。もう、これで私と叔父さまは相思相愛です。……だから、邪魔なさらないでね」
「……まさ子、あなた……」
凜の端正な顔が、凍りついたように硬直しました。妹の瞳の奥にある、一切の迷いのない純粋な光に、言葉を失ってしまったのです。
いつもはまさ子と一番気が合う茜が、慌ててティーカップを置き、身を乗り出してまさ子を諭しはじめます。
「ちょっと、まあちゃん。その冗談、あんまり面白くないわ。そんな、外では冗談じゃ済まないようなお話、クラスメイトの前とかで絶対に、しちゃだめよ?」
「冗談ではありませんのに」
まさ子は小首を傾げ、困ったように微笑みます。
「だって、学校の皆さん、叔父さまのこと『素敵』っておっしゃるのよ。だから私、そんな何も分かってらっしゃらない皆さんに、いつも優しく釘を刺しているの。――叔父さまは私が予約している方だから、諦めてね、って」
「もう、まあちゃんたら!」
茜は本気で顔を赤くして、妹の腕を軽く叩きました。
「そんなお話、お母さまに聞こえたらどうするの? いつものとびっきり痛い竹篦くらいじゃ、絶対に済まないわよ」
「いいえ。お母さまならきっと、私の気持ちをわかってくださるわ」
まさ子の答えは、どこまでも穏やかでした。
その「お母さま」という言葉が響いた瞬間、部屋の隅にいた邦明の肩が微かに強張ったように、まさ子には見えました。
叔父さまが、本当は誰を見つめているのか。その命を削るほど粉骨砕身して守ろうとしているのが誰なのか。一族を守ってくれている、ただ頼もしい叔父と幼い頃に信じていた背中に、母・葵への「決して許されない熱」の匂いを、いつしかまさ子は気づいていたのです。
(お母様は、叔父さまの想いを、決して受け入れはなさらない。……だったら、私が全部、受け止めて差し上げるだけ)
それは嫉妬であり、同時に叔父を救済したいという欲求でした。
それまで部屋の隅で笑い転げるように部屋の様子を見ていたマキが、ふっと笑みを消して、まさ子に語りかけました。
「あんたの好きにすればいいさ、まさ子」
マキの冷徹で、けれどすべてを見通したような声が響きます。
「あんたの人生を邦明に捧げるのが、釣り合ってるかどうかなんてね、あんた自身が決めるしかないことだもの。……邦明だって、所詮はあんたたちの母さんに人生を捧げてしまった、大バカのシスコン野郎なんだから」
「マキ姉さん」
邦明が低く咎めるような声を上げましたが、マキは容赦なく言葉を重ねます。
「姪っ子に迫られて、それを受け入れて食っちゃうなんてのはね、あんたらのおじいさんみたいなドクズじゃなきゃ普通はやらないことなんだけどね。というか、あの車椅子のじいさんでさえ、そこまでのことはしなかった。……でもね、所詮邦明は、あのクズの息子なわけだからね」
これに言葉を継ぐ者は誰もありません。
気がつくと、邦明の姿が消えていました。この場の空気に耐えかねて、誰にも気付かれずに部屋を後にしたようです。
まさ子は、マキに言い返すこともなく、ただ静かに座っていました。
その大きな瞳から、声もなく、はらはらと、幼さの残る頬を伝って涙がこぼれ落ちていきます。
「まさ子……泣かないで。あなただって、分かっているでしょ」
茜がそっと手を差し伸べようとして、その手を止めました。
涙を流す妹の横顔。
それは、凜や茜から見ても、息をのむほどに美しく、そして体を締め付ける甘い切なさにひたすらに耐えているような色気を湛えていたのです。
ふたりの姉は、胸を締め付けられる感覚を覚えながら、この場面を「決して叶わぬ叔父姪の恋」に悩み、いずれ諦めなければならない妹の悲恋なのだと、理解していました。
しかし、まさ子の心の中には、涙の熱さとは裏腹に、ザラメ砂糖のような濁りのない、ただひたすらに甘く絶対的な「確信」だけが沈殿していました。
この日の後、まさ子の純粋無垢な「ひだまり」が、数年の歳月をかけて邦明の理性を甘く溶かし切り、二度と抜け出せない彼女の沼へと引きずり込んでいくことを、この時はまだ、誰も知りませんでした。
そして8年後、あまりに早すぎる邦明の最期を、彼女が言葉通りその膝の上で看取ったとき、そして邦明がまさ子の体に自らの痕跡を残していったことを知ったとき。皆は、この日の「お花畑の告白」は、まさ子にとって成就の確信に満ちた恋物語の始まりだったのだと、ようやく思い知ることになるのです。
(了)




