第6話 帰還
千代田区の要塞に、かつてない静寂が訪れていた。
サーバーラックの排気音さえも、主の最期を悟ったかのように低く、等間隔の拍動を刻んでいる。
四十九歳になった邦明は、ベッドの横に置かれたメインコンソールへ、最後の一行を打ち込んだ。デジタル・ウィルスはすでに彼の視神経を焼き、論理回路の九割を侵食していたが、情報のプロとしての指先だけは、迷いなくキーボードの上を滑った。
「……チェックメイトだ」
邦明は、自らの死と同時に、ネットワーク上に偏在する自らの足跡、そしてこの聖域で行われた一切の記録を消去する「自己抹消プログラム」を起動させた。
影として生きた男は、去り際もまた、一片のノイズも残さぬ「完全なる空白」であることを選んだのだ。
だが、彼がこの世に遺したものが二つある。
一つは、傍らで微笑むまさ子の胎内に宿した、新しい命。
そしてもう一つは、彼が三十年にわたり管理してきた「エス家の情報の鍵」そのものだった。
「……叔父さま。あなたの遺した意思、たしかに受け取りました」
まさ子は、邦明の最期のクリックと同期するように、自らのラップトップのキーボードを叩いた。
この瞬間に口を突いて出たのは、長年尊敬し、恋い焦がれてきた「叔父さま」という呼び名だった。それは、邦明がエス家のために捧げてきた孤独な人生のすべてを、そのまま引き受けるという継承者としての敬意だった。
まさ子の脳内には、夫が遺した膨大な諜報網と、世界を裏側から操作する論理回路が、一寸の狂いもなくコピーされていく。デジタル世界の「影」が消える瞬間、その深淵は「沼」である彼女へと、完全に移譲された。
「……あなた。本当にお疲れさまでした」
邦明の呼吸が、ふっと途絶えた。
まさ子は、動かなくなった夫の手に自らの手を重ね、最期の「愛」を伝えた。それと同時に、要塞中のモニターが一斉にブラックアウトし、全てのログが物理的に消去された。愛する妻の温もりのなかで、邦明は永遠の静寂へと帰還した。
数ヶ月後。
エス家の奥座敷。窓外に広がる庭園の緑を背景に、まさ子は生まれたばかりの赤子を抱いて座っていた。
そこに、二人の女性が足を踏み入れる。
エス家の現・主催者であり、世界政府代表として「世界の支配者」の座にある葵。
そしてその背後で、エス家の歴史のすべてを知り、記録する者マキ。
二人は、邦明が遺した「影」の跡継ぎを確認しに来たのだ。
「あらあら、いい顔をしているわね。まさ子、体調はどう?」
マキが、鋭いながらも慈愛に満ちた瞳で赤子を覗き込む。まさ子は、腕の中の我が子を愛おしそうに見つめながら、マキに無言で頷き返す。
「……ねえ、お母さま、マキ姉さま。見てください。この子、あの人に似て、少しだけ困ったような眉をしているでしょう」
まさ子の言葉に、葵は胸が締め付けられるような想いで、赤子の小さな額に触れた。
「そうね……本当に。あの子が、一番大切なものを守る時にする、情けないくらい優しい顔にそっくりだわ」
葵の瞳には、自分を支え続けてくれた弟への感謝と、その魂を夫として受け入れた娘への信頼が滲んでいた。
「まさ子。……あなたは、あの子の『役割』も、一緒に引き継いだのでしょう?」
マキの問いに、まさ子は「ほんわか」とした、お花畑の中にいるような笑顔で頷いた。
すでにその手元の端末には、世界中の不穏な動向を捉えた暗号が、音もなく流れている。彼女は世界政府代表として光の中に立つ母を守るため、夫が歩んだ「ドブの底」を、今度は自分が沼として静かに飲み込んでいく決意を固めていた。
「はい。これからはこの子を守るため、お母さまとお姉さまたちを支えていきます。……あの人が、ずっとそうしてきたように」
女系であるエス家に生まれた男子。
両親が情報のプロでありながら、その宿業を「母という沼」がすべて引き受けたことで、この子は陽の当たる場所を歩むことを許された。父・邦明が人生を賭けて憧れた「光」の中を、まっすぐ前を見て歩いていく。
千代田区の事務所。
車椅子の上でカステラを摘みながら、エスは曾孫の誕生と、新しい情報官の誕生を祝うように、ニヤニヤと笑みを残していた。
太陽は高く昇り、沼は静かに広がり、家族の物語は、また次の円環へと繋がっていく。
「……いずみの血が受け継がれていく。未来永劫に、な。」
情報のドブの底。そこには今日も、エス家の住人だけが知る「最高に甘くて不道徳な聖域」が、美しく、静かに横たわっている。
(お花畑の告白・完)
追記
この後、まずは第三世代の三姉妹(凜、茜、まさ子)に関するエピソードを掲載していきますが、そのうち、その前の第一、第二世代のお話にも広げていく予定です。
以下、第一世代と第二世代のあらすじです。
なお、カクヨムさんの方で、少し先に公開しています。
@maki_senokouji
https://kakuyomu.jp/users/maki_senokouji
【第一世代:黎明の番い】
物語の起点は、弁護士エスと秘書いずみ。
弁護士を「どぶさらい稼業」と言い、紛争というドブ水の中から「人間の善性という宝石」を拾い上げるという奇跡を信じる、しかし実態はただのクズ男であるエス。
いずみは所内での孤立を厭わずそんなエスの専属秘書を通し、後に刺傷事件で車椅子生活となった彼を支えるため自らも弁護士となり、エスとともに事務所を出て独立します。エスの介護と生まれたばかりの長女(葵)の世話と司法試験の勉強を同時にこなす超人的な生活を目の当たりにした親友のマキが思わず泣いてしまうほどの、実務能力者でした。
二人の愛は、いずみによるエスの介護を名目とする過剰なまで奉仕とその重すぎる愛情を平然と受け入れるエスのクズッぷりにより成り立つものです。いずみはエスに自らの熟し切った身体を厳しく緊縛させ、エスの欲望を一身に受け止めることで、逆に彼を縛っていたのです。
これがエス家の女の闇として代々伝えられる、奉仕による支配の実態です。
【第二世代:完成された超人と統治】
いずみの娘・葵は、うっかり東帝大模試で全科目満点を叩き出してしまう知性と、天性の愛くるしさによるカリスマを備えた「太陽」としてこの世に降臨します。彼女は通っている女子校の文芸部長として、高校生の部活の範疇を超えた「世界コミケ」を企画して成功させ、そして後に日本人女性初の無信仰黄色人種アメリカ大統領という何が一番すごいのか分からない立場で、同国を解体し、これを中核とする世界政府を樹立して、その初代総裁という人類の最高権力者へと登り詰めます。ただしその支配の理念は暴力ではなく、太陽である自らが超人たる能力で全人類へ奉仕することによる支配でした。
人知を超える存在となってしまった彼女を、それでも人間の世界に繋ぎ止めるのは、愚直な大バカ野郎である夫、和樹。葵は自らを身も心もきつく縛って現世に留まらせる存在として彼を求め、エス家の女の業を継承します。
その裏では、天才ハッカーである弟・邦明が影の守護者として姉の統治を支え続けました。




