風が吹いて
「…………。」
木陰から、リムは村の様子を眺めていた。
深く被った黒いフード。
その下にある耳が見えていないことを確かめてから、手元の紙へ視線を落とす。
人間の調査。
アベルから頼まれた仕事を始めて、いくつかの人里を見て回った。
まだ、人間と直接話すことはできていない。
遠くから見て、気づいたことを書き留める。
今のリムにできるのは、それくらいだった。
「……畑で働いている人が多い。」
紙に書き込む。
「……朝から、皆さん忙しそうです。」
また一つ。
顔を上げる。
畑で働く者。
荷物を運ぶ者。
家の前で話をする者。
どこにでもある、人々の暮らし。
そして――。
「待てー!」
「こっちこっち!」
何人かの子供たちが、村の中を走り回っている。
「…………。」
リムはその姿を目で追った。
「……人間の子供も、よく走る。」
先日書いたことは、どうやら間違っていなかったらしい。
「おーい! あんまり遠くまで行くなよー!」
「はーい!」
畑で働いていた男性が声をかける。
子供たちは元気よく返事をして――そのまま走っていった。
「…………。」
返事は、とても元気だった。
言われたことを守るかは、別なのかもしれない。
そんなことを考えていると、村へ向かう二人の人間が目に入った。
一人は、腰に刀を差した少年。
もう一人は、体格のいい少年。
二人とも荷物を背負っている。
「……狩人の方たち、でしょうか。」
何か話しながら村へ入っていく。
ここからでは、何を話しているのかまでは聞こえない。
「…………。」
若いのに、大変ですね。
リムは二人の背中を少しだけ見送った。
「……頑張ってください。」
聞こえるはずもない小さな声で呟いて、再び人間の観察へ戻った。
◇
「…………あれ?」
どれくらい経っただろう。
リムは、一人の子供を見つめていた。
先ほどまで村の中を走り回っていた子供の一人。
いつの間にか村から随分と離れた場所まで来ている。
「……遠くまで行ってはいけないと言われていたような……。」
子供はそんなことなど気にした様子もなく、辺りを歩き回っている。
「…………。」
声をかけた方がいいのでしょうか。
少し迷う。
ここからなら、まだ村へ戻るように言える。
……けど。
リムの手が、無意識にフードへ伸びた。
「…………。」
人間に、話しかける。
ただそれだけのことが、どうしても怖い。
もし不審に思われたら。
もし顔を見られたら。
もし――。
「……もう少し、見ていましょう。」
何かあれば、すぐに村へ戻るはず。
そう自分に言い聞かせながら、子供を目で追う。
その時だった。
ゴォッ――!
「……っ!」
突然、強い風が吹いた。
木々が大きく揺れる。
慌ててフードを押さえる。
「……すごい風。」
しばらくすると、風は弱くなり、ほっと息を吐く。
けれど。
ガラッ。
「……?」
何かが崩れる音。
リムは顔を上げた。
山肌から、小さな石が転がっている。
一つ。
二つ。
その石が別の石を巻き込む。
さらに大きな岩が動いた。
「…………!」
その先には。
先ほどの子供。
「危ない……!」
考えるより先に、身体が動いていた。
木陰から飛び出す。
走る。
子供はまだ気づいていない。
岩が落ちる。
「っ……!」
間に合う。
子供の前へ滑り込み、両手を広げた。
「――【隔帳】!」
目の前に、薄い帳が広がる。
一枚。
その奥に、もう一枚。
さらに一枚。
幾重にも重なった帳へ、岩が激突した。
轟音。
「くっ……!」
一枚目が揺れる。
二枚目。
三枚目。
衝撃が重なる帳に阻まれ、削がれていく。
やがて岩が弾けた。
砕けた石が周囲へ飛び散る。
「…………。」
子供は呆然としている。
怪我は――。
「……よかった。」
何もない。
間に合った。
安堵して、力が抜けそうになる。
その時。
「おい! 大丈夫か!」
「……!」
人の声。
振り返る。
こちらへ走ってくる少年がいた。
どこかで――。
「あ……。」
今朝、村へ入っていった狩人。
腰に刀を差していた少年だ。
見られた。
そう思った瞬間。
再び風が吹いた。
「っ……!」
咄嗟に手を伸ばす。
けれど、遅かった。
フードが風に煽られ、頭から外れる。
銀色の髪が広がった。
「あ――。」
耳が露わになる。
「…………。」
少年と目が合った。
少年は足を止めて、こちらを見ている。
「…………っ。」
リムは慌ててフードを戻そうとした。
「おい!」
「――!」
今度は別の声。
村の方から、何人かの大人が駆けてくる。
「大丈夫か!?」
「今すごい音が――」
大人たちは、まず子供へ駆け寄った。
「怪我は!?」
「だ、大丈夫。」
「何があったんだ?」
「あのね――」
そのうちの一人が、リムを見る。
「…………。」
目が合った。
そして。
その視線が、耳へ向かう。
「……魔族?」
空気が変わった。
「…………。」
分かっていた。
こうなることくらい。
「なんで魔族がこんなところに……。」
「お前、その子に何をした?」
「……違……。」
声が小さくなる。
何もしていない。
助けただけ。
そう言えばいい。
それだけなのに。
「……私は……。」
言葉が出てこない。
一歩、後ろへ下がる。
やっぱり。
人間に見つかってはいけなかった。
人間と魔族は違う。
分かっていたことなのに。
「…………。」
俯く。
(あぁ……やっぱり……。)
「待てよ。」
「……?」
声がした。
先ほどの少年だった。
少年が、リムと村人たちの間に立っていた。
「なんだ、お前。」
「狩人です。岩熊の依頼で来ました。」
「だったら分かるだろ。そいつは魔族だぞ。」
「そうなんですか。」
「だから――。」
「……でも。」
少年が、子供を見る。
「この子を助けたのは、この子だろ?」
「…………。」
村人たちが黙る。
「落石から守ってくれた。」
「それは……。」
「助けてもらったんなら、まずはありがとうだろ。」
「…………。」
大人たちは、バツの悪そうな顔をした。
互いに顔を見合わせる。
しばらくして。
「…………ありがとう。」
なんとか一言絞り出し、その後は何も言わずに子供の手を引いて歩き出した。
「…………。」
リムは何も言えず、その背中を見つめる。
すると。
「おねーちゃーん!」
子供が振り返った。
「ありがとー!」
大きく手を振っている。
「…………。」
リムは目を瞬かせた。
ありがとう。
今――。
私に?
小さく手を上げかける。
けれど、どうすればいいのか分からなくなって、途中で止まった。
子供はそれでも笑いながら手を振り、やがて大人たちと一緒に村へ戻っていった。
「…………。」
「…………。」
静かになった。
隣には、先ほどの少年。
何を言えばいいのか分からない。
リムは俯いた。
「…………。」
「…………。」
「あー……。」
「……?」
少年が頭を掻く。
「さっきの、すごかったな。」
「……え?」
「あの岩止めたやつ。」
「…………。」
「俺じゃ間に合わなかったし。」
少年は少し笑って。
「ありがと。」
「…………え。」
また。
言われた。
「あ……その……。」
何か返さないと。
「い、いえ……。」
やっと出たのは、それだけだった。
「じゃ、俺もこれで。」
「……あ。」
「連れ、先に戻ってるから。」
少年が歩き出す。
数歩進んだところで、こちらを振り返った。
「あんたも気をつけて。」
「…………はい。」
それだけ言うと、少年は今度こそ歩いていった。
「…………。」
リムは、その背中を見つめる。
今朝、村へ入っていくところを見かけただけの人。
名前も知らない、ただの人間。
それなのに。
自分が魔族だと分かっても。
あの人は――。
「…………変な人。」
姿が見えなくなっても、しばらくそのまま動けなかった。
子供とは純粋なもので。




