百聞は一見に
そして現在。
魔王城。
「暇だ。」
広い一室に、男の声が響いた。
「暇だな。」
返事はない。
「……暇だ。」
三度目。
それでも誰も答えない。
「おい、アベル。」
「聞こえている。」
机に向かったまま、アベルが答えた。
その前には何枚もの書類が広げられている。
城下の状況。
各地から届けられた報告。
先代魔王が討たれた後、未だ完全には立て直せていない土地も少なくない。
新たに魔王となったアベルには、やるべきことが山ほどあった。
「んだよ、聞こえてんならなんか言えよ。」
「仕事ならいくらでもあるぞ。」
「そういうんじゃねーんだよなぁ。」
「そうなのか?」
アベルはようやく書類から顔を上げた。
部屋の中央。
椅子にだらしなく腰掛けている男を見る。
ジェイド。
魔王軍幹部、その一人。
鍛え上げられた身体に、荒々しい風貌。
魔王を前にしているというのに、その態度には欠片ほどの緊張感もない。
「じゃあグラム、やろうぜ。」
壁際にいた男へ声をかける。
腰には一本の刀。ジェイドとは対照的に、静かな男だった。
「断る。」
「まだ何も言ってねぇだろ。」
「暇ではない。」
「さっきから何もしてねぇじゃん。」
グラムは静かに茶を口へ運んだ。
「茶を飲んでいる。」
「それ暇って言うんだよ。」
「……そうか。」
「そうだよ!」
それ以上、グラムが相手をする様子はなかった。
「ったく、つまんねぇ奴。」
「ジェイド様……。」
別の場所から声がした。
アレイ。
歴代の魔王に仕え、その知識を受け継ぐ者。
正確には、アレイという名すら代々継承されてきたものだ。
戦場に立つ者ではない。
だが、この国の歴史について彼以上に詳しい者はいなかった。
アレイは小さくため息をついた。
「ジェイド様……。」
「んだよ。」
「せめて魔王様の御前では、もう少し――。」
「アベルがいいって言ってんだからいいだろ?」
視線が一斉にアベルへ向く。
「私は構わんが。」
「魔王様も甘やかさないでください。」
「そうなのか?」
アレイはもう一度ため息をついた。
その時。
扉を叩く音がした。
「失礼します。」
扉が開く。
銀色の髪。
黒を基調とした衣服。
少し尖った耳。
何枚かの書類を胸に抱えた少女が、部屋へ入ってきた。
リムだった。
かつてアベルの服の裾を震える手で掴んだ小さな少女は、今では魔王の仕事を支える一人となっていた。
ジェイドが、ちらりとリムを見る。
リムもその視線に気付いた。
ほんの僅かに、その身体が強張る。
「……。」
ジェイドは椅子から立ち上がった。
「俺、ちょっと散歩してくるわ。」
アベルが首を傾げる。
「暇なのではなかったのか?」
「暇だから散歩すんだよ。」
「そういうものか。」
「そういうもんだ。」
ジェイドはそのまま部屋を出ていった。
閉じられた扉を、リムがほんの少しだけ見つめる。
だが、すぐにアベルへ向き直った。
「魔王様。西部からの報告をまとめました。」
「ああ。そこに置いてくれ。」
「はい。」
リムは机へ書類を置く。
グラムは何も言わなかった。
ただ一度だけリムを見て、再び静かに茶を口へ運んだ。
◆
「先輩。」
訓練場。
一人の若い兵士が、その隅を指差していた。
「なんだ?」
「あの、無駄にでかいやつ……なんなんすか?」
先輩と呼ばれた兵士が視線を向ける。
そこには、巨大な何かが立て掛けられていた。
長い柄。
その先に取り付けられた、異様なほど分厚い刃。
大剣。
そう言われれば、そう見える。
槍。
そう言われても、そう見えなくはない。
だが、刃には細かな欠けがあり、表面には無数の傷が走っている。
お世辞にも、手入れが行き届いているとは言い難い。
何も知らずに見れば、武器というより、ただの巨大な鉄塊に近かった。
「ああ、無骨か。」
「無骨?」
「俺たちはそう呼んでる。」
「なんなんです?」
「ジェイド様の得物だ。」
「得物……。」
若い兵士が、もう一度それを見る。
「……え、武器?」
「ああ。」
「あれを?」
「ああ。」
「どうやって?」
「振る。」
「…………。」
若い兵士は黙った。
少しして、もう一度口を開く。
「……斬れるんすか、あれ。」
「さあな。」
「え?」
「ジェイド様が切れ味を気にしているところを見たことがない。」
その時。
「お、ここにあったか」
声に二人が振り返る。
「ジェイド様!」
先輩兵士が姿勢を正す。
ジェイドは軽く手を上げ、そのまま巨大な得物へ歩み寄った。
柄を掴む。
そして。
ひょい、と、まるで普通の槍でも持ち上げるように肩へ担いだ。
新人兵士の口が開いた。
「……。」
「ん?」
ジェイドがその視線に気付く。
「なんだ?」
「い、いえ……。」
新人兵士は巨大な得物を見る。
それからジェイドを見、恐る恐る尋ねた。
「あの……それ、なんなんです?」
「これ?」
ジェイドは肩の得物を見る。
「槍。」
「…………槍?」
「槍。」
それだけ答えると、ジェイドは歩き出した。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ。」
「どちらへ?」
「散歩。」
巨大な鉄塊を担いだまま、ジェイドは訓練場を出ていった。
新人兵士はその背中を見送る。
「……先輩。」
「なんだ。」
「あれ持って、散歩するんすか?」
「ジェイド様だからな。」
新人兵士は、魔王軍幹部という存在について少しだけ考え直すことにした。
◆
魔王の執務室。
ジェイドが去ってから、部屋は随分と静かになっていた。
アベルはリムが持ってきた報告書へ目を通し終えると、別の資料を手に取った。
人間領についてまとめられた資料。
人間側の国々。
主要都市。
軍の規模。
過去に行われた戦争。
歴代の英雄。
しばらく読み進めていたアベルだったが。
「……分からんな。」
ぽつりと呟いた。
「何がでしょう?」
アレイが尋ねる。
「人間だ。」
「人間……ですか。」
アベルは資料を一枚持ち上げる。
「兵の数は書いてある。」
「はい。」
「どこに街があるかも書いてある。」
「ええ。」
「どのような武器を使うのかも、どう戦うのかもある程度分かる。」
「左様でございます。」
「だが……。」
アベルは資料を机へ戻した。
「人間が、どのように生きているのかが分からん。」
アレイが少し黙る。
「どのように、と申しますと?」
「何を食う?」
「……はい?」
「普段は何をしている?」
アベルは続ける。
「我々とは、何が違う?」
アレイはすぐには答えなかった。
知識ならある。
歴代のアレイたちが積み重ねてきた、膨大な記録。
人間との戦争。
歴代の英雄。
国家。
文化。
……だが。
目の前の魔王が求めているものは、そのどれとも少し違う。
「……申し訳ございません。」
やがてアレイが答えた。
「私が受け継いでおります記録にも、人間の日々の暮らしについて詳細に記されたものは、そう多くありません。」
「そうか。」
「必要であれば、改めて資料を――。」
アベルは首を振った。
「実際に見た方が早い。」
アレイの表情が僅かに固まった。
「魔王様。」
「なんだ?」
「念のため確認いたしますが……。」
「うむ。」
「ご自身で人間領へ赴こうなどとは、お考えではございませんね?」
「駄目なのか?」
「なりません。」
即答だった。
「何故?」
「魔王だからです。」
「魔王だと人間領へ行ってはいけないのか?」
「いけないというより、危険なのです。」
「そうなのか?」
「そうなのです。」
アベルは腕を組んだ。
「……では、誰かに見てきてもらえばいいか。」
「それでしたら――。」
アレイが言いかける。
アベルは部屋の中を見回した。
アレイ。
グラム。
そして。
机の横で、静かに書類を整理しているリム。
アベルの視線に気付き、リムが顔を上げた。
「……アベル様?」
アベルは少し考えた。
そして。
「リム。」
「はい。」
「頼みたい事がある。」
無骨は槍
使ってる人が言ってるから槍




