第一章 001
目を覚ましたとき、俺は、自分がまだあの場所にいるのかと思った。
円く並んだ柱。高い天井。床に刻まれた、見たこともない文様。さっきまでいた場所と、よく似ていた。あの子どもと向かい合って、約束を交わした、あの広間と。
だが、起き上がるうちに違うとわかった。
二つ、違っていた。
ひとつは、椅子の数だ。あの広間には、いくつもの席が円を描いて並んでいた。色も形もばらばらの、誰のものかも知れない席が、たしかに複数あった。ここにあるのは、たった一つきりだ。中央に、欠けた石の椅子が、ぽつんと一つ。座る者を永く待って、待ちくたびれたように。
もうひとつは、空気だった。あの広間には、息をするだけで背筋が伸びるような、張りつめた何かがあった。神聖、という言葉がいちばん近い。ここには、それがない。柱は崩れ、文様は風化し、隅に枯れ葉が吹き溜まっている。神を祀った場所の、抜け殻だけが残されていた。
夢ではなかった。あれは、夢ではなかった。
窓に映って笑っていた、俺そっくりの顔。ガラスを突き破る音。落ちていく感覚。そして、円い広間。十歳ほどの、声変わりもしていない子どもが、俺と同じ顔で「ぼく」と名乗った。足音のしない歩き方で近づいてきて、真冬の雪が降る直前のような冷たい匂いをさせて、俺の中に三つの何かを落とした。それから両手を広げて、こう言った。
――さあ、お行きなさい。タカハラナギよ。願わくば打ち勝ち、君の人生に幸多からんことを。
人の人生を退屈しのぎに壊した張本人が、幸多かれと祝福する。皮肉のつもりすらなかったのかもしれない。本気で祝福しながら、本気で楽しんでいたのかもしれない。
狂う前に戻してやる、とあいつは言った。奈々未がまだ生きていて、生まれてくる子の名前を二人で考えていた、あの時間に。
信じてなどいない。信じてやるものか。それでも、その一点だけが、まだ俺を立たせていた。憎しみと、すがるような何かが、同じ重さで胸の底にわだかまっていた。
*
俺は、自分の体を確かめた。
あの邪神が、最後に三つの何かを、この中へ落とした。確かめておかなければ始まらない。何を握らされたのか。それぞれに、あいつは芝居がかった名前をつけていた。
ひとつ目。「無限の語りの力」。
内側へ意識を向ける。魔力、とでも呼ぶべきものがこの体にあるなら、それを探すように。
あった。底の知れない、空っぽの器が、胸の奥に開いている。井戸のように深く、どこまでも広い。だが、そこに満ちているものは、ほとんどない。指先に灯る火種ほどの、頼りない熱が、わずかに揺れているだけだ。
器は無限。中身は、ほんの少しだけしかない。
空っぽなのに、どうしようもなく広い。抜けた歯の跡に舌を押し当てたときの感覚に似ていた。そこにあるはずのものがない。なのに、その「ない」の輪郭だけが、異様にはっきりしている。今この瞬間に振るえる力など、ないに等しかった。自然に増えるのを待つか、自分で鍛えるか。あいつはそう言って、まあ頑張ってね、と笑った。
ふたつ目。「あらゆる語りを読む力」。
これは、確かめるまでもなかった。目を覚ましてからずっと、頭の中がおかしい。考えが一本ではないのだ。柱を見ながら、椅子の数を数えながら、子どもの言葉を思い返しながら、それらが同時に、別々の線として走っている。混乱ではない。むしろ異様に澄んでいた。意識して数えようとすると、五つ、六つと思考の線が立ち上がり、なお増えそうな気配がある。
鍛えれば、何十も同時に走らせられるのだろう。
ただ、あいつは釘を刺してきた。無理に使おうとすると頭が壊れる、と。処理できない量を一度に読めば、頭の回路が焼き切れて戻らない。
戻らない、という言葉を、天気予報みたいな口調で。涸れない器と、頭を焼き切る刃。どちらも諸刃だった。
みっつ目。「新たな語りを紡ぐ力」。
これだけは、わからなかった。
いくら内側を探しても、手応えがない。器のように触れることもできない。思考の線のように動きだしもしない。あいつは、これをいちばん得意げに名づけていた。誰も知らない語りを世界に書き足す力なのだと。俺ならきっと上手に紡ぐと信じてる、とも。
だが、紡ぐとは何だ。語りとは何だ。この世界の「語り」が何を指すのかすら、俺は知らない。何を作るのか、どう作るのか。そもそも、それが今この体にあるのかどうかすら、確かめようがない。
まだ、何もわからなかった。ただ、あいつがそう名づけた、という事実だけが残っていた。
*
それでも――と、俺は思った。
底のない器。何十もの思考。得体の知れない三つ目。今は何ひとつ、まともに使えない。立つのもやっとの、寝起きの体に。
だが、いつか。この三つが揃って花開くなら。
殺せるかもしれない。あの邪神を。神を。
長いあいだ凍りついていた胸の底に、熱いものが流れ込んできた。喜びと呼んでいいのかどうかはわからない。憎しみと地続きの、底のない昂りだった。それでも、転落して以来はじめて、体が何かに向かって前を向くのを感じた。気づけば、口の端が、ひとりでに持ち上がっていた。
その昂りを断ち切ったのは、背後の、かすかな気配だった。
*
振り返って、俺は笑いを引っ込めた。
崩れた柱の向こうに、それが立っていた。
黒い。全身が、濡れたように黒い。光を吸い込んで返さない、深い黒。その表皮を、赤黒い筋が幾本も走り、脈打つたびに、どくり、どくりと内側から鈍く光った。形は、強いて言えば虫だった。前脚が異様に長く、肘から先が刃物のように薄く反り返っている。胴は痩せ、四つの脚で身を低く保ち、背に薄い羽がたたまれている。俺の背丈より、頭ひとつぶん高い。
そして、顔がなかった。顔のあるべきところに、黒い靄がわだかまっている。煙でも影でもない、もっと密度のあるもの。それが、俺のほうを向いて、ゆっくりと揺れていた。
体が動かなかった。
恐怖というより、理解が追いつかなかった。これが何なのか、自分がどういう状況にいるのか、頭が結論を出すより先に、体のほうがすべての動きを止めていた。逃げ場はない。立ち上がる力も、戦う術もない。さっきまでの昂りが、嘘のように引いていた。力の伸びしろなど、今この瞬間には一片の意味も持たなかった。
黒い靄が、ぐっとこちらへ傾いた。
睨まれている、と思った。貌がないのだから、本当のところはわからない。それでも、値踏みされ、敵意を測られているような、刺すような気配があった。俺は息を殺して固まっていた。
長い、長い間があった。
それから、それは――何事もなかったかのように身を引いた。低い姿勢のまま、来たときと同じ柱の向こうへ。音もなく、その黒い影は遺跡の外へ消えていった。
あとには、自分の心臓の音だけが残った。
なんだったんだ、今のは。あれが、この世界に普通にいるのか。あんなものが当たり前に歩き回っている世界なのか。だとしたら、武器も力もない俺が、ここで生き延びられる道理がどこにある。
*
考えがまとまらないうちに、また、気配がした。
俺は身を強張らせた。やはり、さっきの黒いものだった。今度こそ、と思った。
だが、違った。長い前脚の先に、何かを器用に抱えている。それを、俺から少し離れた床へ、そっと置いた。そして、また来たときと同じように、ゆっくりと後ずさり、遺跡の外へ消えていった。
しばらく動けなかった。それから、警戒を解かないまま、置かれたものへにじり寄った。
果実だった。
拳ほどの、丸い実が、いくつか。皮は深い臙脂色で、うっすらと白い粉を吹いている。地球で見たどの果実とも違ったが、それが食べ物であることは、匂いでわかった。甘い、熟れた匂い。
何が何だか、わからなかった。あの黒い化け物が、何を考えてこれを置いていったのか、見当もつかない。だが、ひとつだけわかったことがある。あれは、俺を喰わなかった。睨むだけ睨んで引き返し、今度は食べ物を運んできた。
少なくとも、敵ではない。そう感じた途端、張りつめていたものが緩んで、腹の虫が、間の抜けた音で鳴った。
こんなときに、と思いながら、俺は自分の格好を見下ろした。
着古したスウェットの上下。裸足。
寝巻きのままだった。あの夜、酒を呷って、窓に映る顔と問答して、そのまま突き破って落ちた、あのときの格好のまま。靴もない。上着もない。金も、道具も、この世界の知識も、何ひとつ持っていない。あるのは、いつか花開くかもしれない力の伸びしろと、寝巻き一枚きりだった。
声を出さずに、少しだけ笑った。
復讐どころではない。このままでは、この遺跡で、ただ野垂れ死ぬだけだ。神に一矢報いるどころか、空腹と渇きで、無様に。
――それは、嫌だった。
どうせ壊れた命なら、せめて、あの邪神に叩きつけてから終わりたい。そのためには、まず生きなければならない。この、何もかもが違う世界で、生き抜かなければ。冷たい床に膝をついたまま、俺ははっきりとそう決めた。憎しみだけが、その決意の芯にあった。
*
生き抜くと決めたなら、使えるものは何でも使う。
俺は、置かれた果実の一つを手に取った。ずしりと重く、てのひらに冷たい。臙脂の皮に爪を立てると、ぷつりと薄く裂けて、透きとおった果肉と、甘酸っぱい匂いがあふれた。
毒かもしれない、とは思った。それでも口に運んだ。
甘かった。
舌の上で、果肉が崩れる。冷たく、瑞々しく、酸味の奥に蜜のような甘さがあった。
その甘さを、俺は確かに「味」として感じていた。
それが、おかしかった。いつからだろう。奈々未が死んでから、いや、その前からか。何を食べても、砂を噛んでいるようだった。腹を満たすために、ただ口に入れていた。味など、とうにわからなくなっていた。それなのに今、この異界の果実の甘さだけが、はっきりと舌に届いている。
果実をかじりながら、しばらく動けなかった。頬を、温かいものが伝った。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。果実が甘かったから。腹が減っていたから。そう思おうとした。けれど、ほんとうは違う気がした。久しぶりに、何かを感じた。ただそれだけのことが、こんなにも。乾ききっていたと思っていた場所に、まだこんなに水が残っていた。
俺は、袖で乱暴に顔を拭った。
*
果実を二つ食べ終えると、強烈な眠気が襲ってきた。
張りつめていたものが、いっぺんに緩んだのだろう。崩れた柱の根もとに身を寄せて、膝を抱えた。固い床も、夜の冷えも、もう気にならなかった。
復讐を果たせる可能性は、つい昨日までゼロだった。死んで、何もかも終わるはずだった。それが今は、ゼロではない。1%にも満たない、0.1%ほどの、ほんのわずかな可能性。だが、ゼロと、ゼロでないことのあいだには、天と地ほどの開きがあった。
その、ほんのひとかけらの安心が、長く張りつめていた糸を、ふつりと切った。
俺は眠りに落ちた。
不思議なほど、深い眠りだった。夢も見なかった。落ちる感覚も、笑う顔も、扉に書かれた文字も、何ひとつ追ってこない。ただ、底のほうへ静かに沈んでいくだけの眠り。
あとになって思えば、それは――高原製薬のあの一報が世界をひっくり返して以来、いちばんよく眠れた夜だった。
*
翌朝、俺は遺跡を出ることにした。
いつまでもここにはいられない。果実はもうない。水の在り処も知れない。何より、食べ物と水がなければ、決意も伸びしろも何の意味もなく、ただ死ぬ。だから、外へ出るしかなかった。
遺跡は、丘の上にあった。斜面の下に、見たことのない森が広がっている。木々の幹は灰がかった青で、葉は手のひらほどもあり、風が渡るたびに裏側の銀色を一斉に翻した。何もかもが、少しずつずれていた。色も、光の角度も。
斜面を下りはじめて、すぐに後悔した。
山歩きなどしたこともない。ましてや裸足だ。下生えに隠れた小石が、容赦なく足の裏に食い込む。尖った石を踏むたびに鋭い痛みが走り、やがて足の裏が切れて血がにじんだ。一歩ごとに痛みが増し、まともに歩けなくなっていく。
そこに、恐怖が重なった。
地球では足を踏み入れることもなかった、深い森。視界はきかず、どこに何が潜んでいるかわからない。あの化け物が、また現れるかもしれない。今度は果実を置いていく代わりに、あの鋭い刃の脚で、こちらを切り裂くかもしれない。一歩進むごとに背後の物音に振り返り、また足を切る。痛みと恐怖で、頭が朦朧としてきた。
どれくらい歩いたのか。ふいに、かすかな水の音が耳に届いた。
救われたような気持ちで、俺はその音のほうへ、よろよろと足を引きずった。木々のあいだを抜けると、細い川が流れていた。岸辺の岩は、水を浴びて黒く光っている。
水だ。ようやく、水にありつける。
*
川縁へ近づく。膝をつこうとした、そのときだった。
足の裏の傷が地面に触れて、鋭く痛んだ。とっさに体重を逃がそうとした足が、岩を覆う苔の上で、つるりと滑った。
あ、と思う間もなかった。
体勢が崩れ、視界が回り、後頭部が、川の中の石に鈍い音を立ててぶつかった。
衝撃は、痛みになる前に、まず光になった。視界が白く弾けて、それから急速に暗くなっていく。手足から力が抜ける。冷たい水が、頬を、首を、背中を包んでいく。
流される、と、どこか遠いところで思った。
抗おうとしたが、もう指の一本も動かなかった。意識が、水よりも速く、底のほうへ引かれていく。せっかく、一筋の可能性を見つけたのに。せっかく、生きると決めたのに。
最後にそう思って、俺の意識は、暗い水の中へ、ぷつりと途切れた。




