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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
影章 奈々未
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影章 奈々未 021

四週間目の土曜日の帰り道、私は凪に言った。


年の瀬の、空気だった。


「凪」


「うん」


「年が明けたら、NPOに戻ろうと思う」


「⋯⋯大丈夫?」


「うん」


「無理しないでね」


「うん」


「年明けから、すこしずつちゃんと行ってきます」


私は、そう答えた。


凪は、何も言わずに私の手を握ってくれた。


その手の温度のなかで私はぼんやり思った。


働ける、ということが私のなかにまだちゃんと残っていた。


残っていたというのがありがたかった。


残っていなかったら、私は家のなかでずっと、銀杏の木のことだけを考えていた。それでは、私は長く立っていられなかった。


働くということが私の体をもう一度外に出してくれた。


外に出ながら毎週土曜日に私はちゃんと銀杏の木の前に戻ってくる。


戻ってくる場所があるというのが私のいちばんの強さだった。



家に帰って、私はドアの鍵を開けた。


ドアを開けて、靴を脱いだ。


そして、ドアを閉めて鍵をかけた。


鍵をかけてから、私はいつもすぐにチェーンロックもかけていた。


退院してからしばらく、私はチェーンロックをかけずにいた。


かけないでいたのは、私のなかですこしずつ、何かが抜けていたからだった。鍵をかけても、チェーンロックをかけても、もう誰も私たちのところには来ないでほしい——そういうぼんやりした願いを、私はその時期、無意識に抱えていた。


来ないでほしいと思っているうちは私のなかで外と内がちゃんと分かれていなかった。


外と内がちゃんと分かれていない家は、家として機能しなかった。


その日、私はドアを閉めて鍵をかけた。


それから、自然とチェーンロックもかけていた。


かけたあとに、私はすこしだけ自分のなかで驚いた。


驚いたのは、私が無意識のうちにチェーンロックをかけ直していたからだった。


外と内を、ちゃんと分けようとした私の体が、戻ってきていた。


戻ってきていた、というのが、その日の私のいちばんの回復だった。


回復した、ということを、私は凪に言わなかった。


言うと、凪は安心した。安心してくれるのはありがたかった。それでもまだ安心させるには早すぎる気がした。


私は、ふつうの動作のなかにチェーンロックをしまった。


しまった動作のなかで、私はすこしずつこれからの暮らしを組み立て直していた。


組み立て直していく途中で、私のなかにはまだ、銀杏の木の前で伝えきれていない言葉が、たくさん残っていた。


残っている言葉を、私はこれから毎週、ひとつずつ銀杏の木の前で伝えていく。


伝えながら、私はすこしずつ生きていく。


その「ひとり」のことを、私はずっと覚えていく。


覚えている、というのが、その「ひとり」への、私のいちばんのお祈りだった。



年が明けて 一月の半ば NPOに戻った私を 誰も詮索しなかった。


林先生は私の手を一度だけ握って 言葉のかわりに頷いた。佐々木さんは机の上に新しい付箋を置いてくれてそこには「焦らないで」とだけ書いてあった。子どもたちの何人かは私の顔をじっと見て それから何も言わずに紙芝居の続きをせがんだ。覚えていてくれた。それだけで充分だった。


私は受付の仕事から少しずつ戻った。電話を取る。記録をつける。新しく入った子の名前を覚える。一日が終わると 体の芯から疲れが滲んだ。けれど その疲れは私が知っている疲れだった。生きている者の疲れだった。


凪は私が出かける朝 玄関で必ず一度 私の額に手を当てた。熱を測る仕草に似ていたけれど 違った。あれは祈りだったのだと 今ならわかる。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


それだけのやりとりで 私たちは一日を始めた。


帰ってくると 凪はもう台所に立っていた。彼が作るものは相変わらず手のかからないものばかりで、けれど味噌汁の出汁は前より丁寧になっていた。


「今日 何があった」

「べつに何も」

「べつに何も、か」


それで会話は終わった。終わらせて よかった。あの頃の私たちは 沈黙のなかにいるほうが正しく息ができた。


土曜日は変わらず寺に通った。


銀杏の木はもう葉を落としていて 冬の枝だけが空に向かって伸びていた。私は枝の影の下で目を閉じて お腹のなかにいた子に話しかけた。


おはよう。

今日も寒いね。

お父さんは元気だよ。

私も元気だよ。


それから 名前のかわりの祈りを、一度だけ唱えた。


その祈りは、凪にも寺の人にも聞かせなかった。聞かせるための祈りではなかった。


年の暮れ、そして年明けのことを私はよく覚えている。


大晦日の夜、凪と私はこたつに入って蜜柑を剥いた。テレビは消していた。除夜の鐘の音が遠くから聞こえて 私はそれを数えるのをやめた。百八まで数えたら何かが終わってしまう気がした。


「奈々未」

「うん」

「今年は どんな年にしたい」

「……ふつうの年」

「ふつう」

「うん。ふつうがいい」


凪は少し笑って 蜜柑の白い筋を私の皿の端に避けてくれた。私はそれを彼の皿に戻した。彼はまたこっちに避けた。私たちはそれを三回繰り返して 最後に二人で笑った。


笑えた。


笑えるようになっていた。


それで たぶん よかった。


一月の終わりに 凪は新しい仕事の話を私にした。今より少し遠くなる。けれど給料は上がる。やってみたいと思う。彼はそれを私の顔色を窺いながら話した。私が止めれば 彼は止めるつもりだった。


「無理してないか」

「してない」

「……ほんとうに」

「ほんとうに」


私は彼の指先に自分の指先を重ねた。私の左の薬指の付け根を 右の親指でなぞる癖は あのころから少し弱くなっていた。けれど消えてはいなかった。凪はそれを見て 何も言わなかった。


二月に入って 雪が降った。


私はベランダから外を見て、お腹のなかにいた子に「雪だよ」と言った。声に出さなかったけれど、心のなかで言った。返事はなかった。返事がないことにもう私は慣れていた。


慣れていたけれど、忘れていなかった。


それは違うものだった。


二月の最後の週、私は朝早く目を覚ました。隣で凪が眠っていた。彼の寝息は規則的で 額にかかった髪の毛が呼吸に合わせて揺れていた。


私はその髪の毛を指で避けてやろうとして やめた。起こしたくなかった。彼にはもう少し眠っていてほしかった。


カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。まだ夜が完全には終わっていない時間。私はその光のなかで しばらく彼の顔を見ていた。


きれいな顔だと思った。


出会ったときからずっと、そう思っていた。図書館で本を選んでいた背中。シャープペンシルを拾ってくれた手。「もちろん」と言った口。「ただいま」と言った声。「家族だね」と言った時の少し低くなった呼吸。


全部、覚えていた。


覚えていることだけが、私にできる唯一のことだったから。


私はそっと布団から出て台所に立った。


味噌汁を作った。凪はいつも私の味噌汁を「おいしい」と言って飲んだ。出汁を丁寧に取った。豆腐は厚めに切った。葱は小口切りにして 最後にひと掴み散らした。


ご飯を炊いた。卵を焼いた。彼が好きな少し甘い味付けで。


テーブルに並べた頃、凪は寝室から出てきた。寝癖のついた髪のまま 目を細めて私を見た。


「早いね」

「目が覚めちゃって」

「夢でも見た?」

「……見たかもしれない」

「どんな?」

「忘れた」


凪は笑って、椅子に座った。私は彼の前に味噌汁の椀を置いた。彼は両手でそれを包んで 一度だけ目を閉じた。それから一口飲んで 言った。


「うまい」


私はその一言を、一生分のように受け取った。


食べ終わって、凪は仕事の支度を始めた。私もNPOに行く支度をした。冬のコートを羽織ってマフラーを巻いた。彼は玄関で靴を履きながら 振り返って私を見た。


「今日 帰り遅くなるかもしれない」

「うん」

「先に食べてていい」

「待ってる」

「無理しなくていい」

「それえも、待ってる」


凪は少し困った顔をして、それから笑った。


「わかった」


私は彼の額に手を伸ばして、そっと触れた。彼がいつも私にしてくれることを真似してみた。彼は驚いた顔をしてそれから目を伏せた。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


ドアが閉まる音を私は聞いた。


それから 私は自分の支度の最後を整えた。鏡の前で マフラーの位置を直した。鏡のなかの私は 普通の顔をしていた。お腹のなかにいた子のことを誰も知らない顔で 凪のいない部屋に一人で立っている顔で。


私は鏡に向かって 小さく言った。


「いってきます」


返事はなかった。


返事はなかったけれど、お腹のあたりに 一度だけ温かい場所があるような気がした。気のせいだったかもしれない。気のせいでよかった。気のせいでないと困った。


私は鍵をかけて 階段を降りた。


七階建ての五階。凪がいつか落ちることになる場所。私はその時 もうそこにいない。私が先に いなくなる。


そのことを 私は知っていた。


知っていた と言うのは正しくないかもしれない。けれど その日の光のなかで 私はそれを知っているような気がしていた。


外は寒かった。


空気が澄んでいた。


二月の終わりの 日だった。


私は歩き出した。


それで たぶん よかった。




その日 私はいつも通り働いていた。


電話を取って、記録をつけて、子どもたちの紙芝居を読んだ。一日がふつうに過ぎていった。ふつうに過ぎる一日が その頃の私には支えだった。


終業は午後四時半だった。私は片づけを終えて、林先生に「お先に失礼します」と言って職場を出た。


外はもう夕方の色になりはじめていた。二月の終わりの 暮れ方の空。冷たい風が 頬を撫でていった。


帰り道はいつも同じ道だった。


駅前のロータリーを抜けて、信号を二つ渡って、銀行の角を曲がる。歩いて十二分。雪の残った日は十五分。私はその道の小さな段差まで覚えていた。覚えていたから、何も考えずに歩けた。


その日も何も考えていなかった。


考えていなかったと言うと嘘になる。私は凪のことを考えていた。今日帰りが遅いと言った彼の顔。私の額に触れさせた時の伏せた目。ご飯を食べて「おいしい」と言った声。それだけを順番に思い出しながら一つ目の信号を渡った。


二つ目の信号で、私は止まった。


赤だった。


若い母親が立っていた。ベビーカーを押していた。ベビーカーのなかでは小さな子が眠っていた。毛布から覗いた頬が赤くて、唇の形がきれいだった。


私はその子を見た。


見てしまった。


見てしまったから、私は気づいてしまった。


私のお腹のなかにいた子も こういう頬をしていたかもしれない。こういう唇をしていたかもしれない。眠るときに少しだけ口を開けて小さく息を吐いたかもしれない。


私はその子から目を逸らそうとた。


逸らせなかった。


母親はスマートフォンを見ていた。指で画面を撫でていた。少しだけ顔が下を向いていた。


信号が青になった。


私たちは歩き出した。


横断歩道の真ん中まで来た時、左側から音を聞いた。


タイヤの音だった。


普通のタイヤの音ではなかった。曲がりきれていない音だった。左折してきた車が、ハンドルを切りそこねてこちらに膨らんでくる音だった。


私は振り返らなかった。


振り返るより先に、体が動いた。


ベビーカーを押した。


両手で思いきり、母親ごと前に押した。母親は短く声をあげる。ベビーカーが歩道の縁石に乗り上げて、子が小さく泣いた。生きている声だった。


それを聞いた。


聞けた。


それで、たぶんよかった。


衝撃は来なかった。


正確に言うと、来たのだろうけれど私はそれを衝撃として受け取らなかった。体のどこかが ふっと軽くなった気がして 視界の端が白くなった。空が見えた。二月の終わりの、暮れかけた空だった。


倒れている自分を私はどこか上のほうから見ているような気がした。これは死ぬ前に見るものだと、どこかで読んだ覚えがあった。本当だった。本で読んだことはわりと本当だった。


母親が叫んでいた。誰かが走ってきた。ベビーカーのなかで子はまだ泣いていた。


その泣き声を聞きながら 私は 自分の口が動くのを感じた。


「赤ちゃん」


声になったかどうかは わからなかった。


「赤ちゃん、無事でよかった」


母親の顔が私の上に来た。涙が落ちてきた。私の頬に落ちた。温かかった。


私はその温かさを 自分のお腹のなかにいた子のものだと 思おうとした。思おうとしたことが、せめてもの私の最後の意思だった。


凪のことを思った。


彼の顔を思い出そうとした。けれど 顔の輪郭がうまく結ばなかった。声だけが聞こえた。


奈々未と呼ぶ声。


ただいまと言う声。


おかえりと言う声。


叶うよと言う声。


全部、聞こえた。


聞こえたから、私は安心した。


ごめんねと思った。


ありがとうとも思った。


二つは同じ重さで、私のなかにあった。


凪、待っていてくれるかなと思った。


待っていてくれるかなと思って、その後で待ってなくてもいいよ、とも思った。矛盾していた。矛盾したまま 私は それを彼に届けたかった。届かなかった。届かなくてよかった。彼はきっと、待っていてしまう人だから。


お腹のなかにいた子に私は最後にもう一度だけ、名前のかわりの祈りを唱えた。


名前は、唱えなかった。


唱えなかったことを、私は最後まで、正しいと思った。


凪に伝えなかったこと。

お寺に伝えなかったこと。

誰にも伝えなかったこと。


それは、私が私のなかにだけ持っていく秘密だった。


秘密のままで、私はその子を抱いていけるような気がした。


抱いていく場所が、どこなのかはわからなかったけれど。


視界が白くなった。


白いなかに、銀杏の木が見えた気がした。葉の落ちた冬の枝ではなくて 黄色く色づいた秋の枝だった。風が吹いて、葉が一枚私の手のひらに落ちてきた。


私はそれを握った。


握ったまま、目を閉じた。


凪の最後の声を、思い出した。


「いってらっしゃい」


私は答えた。


口はもう動かなかった。


けれど、答えた。


「いってきます」

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