第一章 002
城塞都市シュトラーの朝は、鐘の音から始まる。
聖堂の鐘楼で太く長い一打が鳴る。防壁の内側に張りついた屋根屋根の上をその音が低く転がっていく。市場の天幕が張られ、井戸端に水汲みの列ができ、職人の槌が動きはじめる。鐘がもう一度鳴る頃には街はすっかり起きている。森に背を向けて建てられたこの街の、いつもどおりの朝だった。
神官見習いのクロスは、その朝、聖堂の床を磨いていた。
二十歳になったばかりの痩せた背中である。膝をついて、濡らした布で石畳をひとますずつ拭いていく。冷たい石の上に両手の温みだけが残っていく。聖堂の中はがらんとして、高い天窓から斜めに光が落ちていた。その光の柱の中を磨いたばかりの床から立った埃がゆっくりと泳いでいる。クロスはときどき手を止めてそれを見ていた。なぜか落ち着いた。
扉のほうで軽い音がした。
杖の先が石を打つ、こつ、という音。振り返ると小柄な老婆が入り口の段をひとつずつ確かめながら入ってくるところだった。クロスは布を桶に置いて立ち上がった。
「マレナ婆さん。今日は早いね」
「早いものかね。あんたが遅いんだよ」
老婆は皺の中の目を細めて笑った。クロスの差し出した手は取らず、自分の杖だけを頼りにいつもの席までゆっくり歩いていく。前から三列目の右端。マレナはもう何十年もその席にしか座らない。
「腰はどう」
「相変わらず、御方のお慈悲で、まだ動くよ」
そう言いながら老婆は膝の関節を労わるようにゆっくりと腰を下ろした。クロスはその隣に立って、磨きかけの床のことはひとまず忘れた。マレナはいつも祈る前にひとしきり話す。亡くなった夫のこと、嫁いだ娘のこと、近頃の卵の値のこと。中身は毎度たいして変わらない。だがクロスはそれを聞くのが嫌いではなかった。
「あんた、ずいぶん背が高くなったねえ」
「伸びすぎて法衣がつんつるてんだって、ルセ先輩に叱られた」
「ルセ。ああ、あの綺麗な顔の子だね。あの子も来た頃は頼りなかったのに、立派に神官様におなりだ」
マレナは祭壇のほうへ目をやった。祭壇の奥に、御方の像が立っている。両の腕を大きく広げ、歩み寄る者をいまにも抱き寄せようとしているかのような姿だ。
だが、顔がない。頭からすっぽりと布をかぶせられたかたちに石が彫られていて、その布の下の貌はついぞ誰にも見えなかった。像の足もとで燭台の火がひとつ、静かに揺れている。マレナはその顔のない像に向かって両手を膝の上で組んだ。
「御方はお顔をお見せにならないだろう。あたしはね、それがいいんだよ」
「どうして」
「顔が見えていたら、あたしの婆さんの顔か、嫁いだ娘の顔か、決めなきゃならないだろ。見えないから、誰の顔でもいい。会いたい顔で会える」
クロスはそれにうまく返せなかった。教本にはそんなことは書いていない。御方が貌を伏せておられるのは人智の及ばぬ無限の証であると、そう習った。だがマレナの言い方のほうがなぜかずっと近いところにある気がした。クロスは黙って老婆の組んだ手の、節くれだった指を見ていた。
その手が、ふいに止まった。
「司教様だよ」
その視線を追ってクロスは振り返った。
聖堂の奥、祭壇の脇の扉からトゥルパンが出てくるところだった。
老いた司教である。背は丸く、白い顎髭は胸まで届いている。いつもならその顔には朝の光のような笑みがある。床を磨くクロスを見つければ、ご苦労と声をかけ、マレナがいれば腰はどうかと冗談めかして案じる。この街の誰もがトゥルパンのその朗らかさを知っていた。
だが今朝のトゥルパンは、誰のほうも見なかった。
まっすぐ前を向いて堂の中を横切っていく。その後ろに、神官のルセが従っていた。ルセは外套を着込み、革の鞄を肩から提げている。トゥルパンもまた祭服の上に厚い外套を羽織っていた。どこかへ出向く支度だった。
クロスは思わず一歩、前に出た。
司教様、と呼びかけようとした。だがトゥルパンの横顔を見て、声が喉で止まった。
笑っていなかった。眉の下の目が、何か一点を見据えている。口は固く結ばれて頬の肉がそげたように張っていた。その顔をクロスは一度だけ見たことがある気がした。
去年、防壁の修繕で足場が崩れ、人が下敷きになったとき。駆けつけたトゥルパンが瓦礫の前で見せた顔。怖がっているのとは違う。悲しんでいるのとも違う。引き受けてはならないほど重いものを、それでも引き受けると決めた者の顔だった。
覚悟、という言葉の重さをクロスはまだ身をもっては知らない。だがその顔が湛えているものがそれに近いことだけは、なぜかわかった。
トゥルパンは入り口へ向かう。すれ違いざま、クロスの磨いた床の上をその足が通った。司教は、床のことには気づかなかった。気づかないまま、扉の外の光の中へ出ていこうとしている。
ルセが、ふと足を止めた。
クロスのほうを見た。ルセはクロスより三つ年上の、整った顔立ちの青年である。先ごろ神官に叙されたばかりで、普段は口数も少なくどこか取りすました風があった。そのルセが今はいつもより穏やかな目をしていた。
クロスの聞きたそうな、不安そうな顔を、ルセは読んだらしかった。
「心配するな」
ルセは低く短く言った。
「我らは、御方のお導きのままにゆくだけだ」
それだけ言ってルセは身を翻し、司教の後を追っていった。二人の外套の裾が扉の向こうの白い光に呑まれて見えなくなった。
堂の中に、静けさが戻った。
クロスは開いたままの扉をしばらく見ていた。御方のお導きのままに。見習いが日に何度も口にする言葉だった。だが今のルセの口から出たそれは、ありふれて聞こえなかった。もっと重いものに薄い布をかけて隠したような言い方だった。
「いい先輩じゃないか」
マレナの声で、クロスは我に返った。老婆はまた祭壇のほうに向き直って、組んだ手をほどいていない。
「さあ、クロス坊や。あたしの祈りに付き合っとくれ。あんたの磨きかけの床は、御方も逃げやしないよ」
クロスは小さく頷いた。そして老婆の隣に膝をつき目を閉じた。組んだ手の内側にまだ、さっきの床の冷たさが残っていた。
司教様はどこへゆくのだろう。
目を閉じたままクロスはそれを考えた。考えても答えは出なかった。
*
領主館の三階、辺境女伯マチルダ・シュトラーの執務室には、朝の光が入らない。
窓は北を向いている。大森林を見渡すためにそう造られた窓だった。だから室内はいつも白々とした影のない明るさに満ちている。マチルダはその窓を背に、大きな卓の向こうに立っていた。
四十をいくつか過ぎた女である。父ザハールから領を継いでもう十年になる。痩せた、骨ばった手をしている。卓の上にはいつもなら租税の帳簿や防壁修繕の見積もりが広げられている。だが今朝、その上には何もなかった。マチルダはその何も置かれていない縁に両手の指先を軽く触れさせていた。
部屋には、ほかに三人がいた。
扉の脇に、衛兵隊長グライス。鎧こそ着ていないが、革の胴着に剣を帯びたままである。岩のように肩幅の広い四十がらみの男だった。腕を組み、壁に背を預けるでもなくまっすぐ立っている。
その隣にもう一人、紡遣者ギルドの副支部長リュート。こちらは細身の、目の動きの速い男でまだ三十にも届くまい。手にした帽子を所在なげに指の間で回している。
そして、卓の手前にトゥルパン。
聖堂を出てきたままの外套をまだ脱いでいなかった。ルセは扉の外に控えさせてきたのだろう、この部屋にはいない。老いた司教は卓に向かって深く頭を垂れ、両手で杖を握りしめていた。その手がわずかに震えている。
「司教殿」
マチルダが、静かに口を開いた。
「あなたが朝も明けぬうちに使いを寄越したのは十年で初めてのことです。何があったのか聞かせていただきたい」
トゥルパンは、すぐには答えなかった。
顔を上げるとその目が濡れていた。泣いていたのではない。泣いてしまわぬよう堪えている者の目だった。老人は何度か唇を動かし、言葉を選ぶようにゆっくりと話しはじめた。
「マチルダ様。グライス殿。リュート殿。私は……昨夜、御方の声を賜りました」
部屋の空気が、わずかに動いた。
グライスが、組んでいた腕をほどいた。リュートの指の間で回っていた帽子が止まった。
「神託です」
トゥルパンはその言葉を口にするのも畏れ多いというように声を落とした。
「真夜中、祈りのうちに。お声が私の胸の奥に、直に降りてまいりました。私は……この六十余年、御方にお仕えしてまいりましたが、お声を賜るなど、ただの一度も……」
老人の声がそこで震えて途切れた。トゥルパンは杖を握る手に力を込め、息を整えた。恐怖の震えではなかった。あまりに大きな恵みを受けて、身がそれに堪えきれぬ者の咽びだった。
語りの御方が、この自分に声をかけてくださった。その一事が、トゥルパンの六十余年を丸ごと震わせていた。
「神託が……降ったというのか」
声を出したのは、グライスだった。低い、信じかねるような声だった。
「司教殿。失礼を承知で申し上げる。神託など、もう何百年も、どこの聖堂にも降っておらん。御方が直にお声を賜ったという話は、私が子供の頃から御伽噺の中のことだった」
「私とて、そう思うておりました」
トゥルパンは、グライスのほうへ顔を向けた。
「お声を賜るその瞬間まで、神託とは、遥かな過去の聖者たちにのみ許された恵みだと。この身に降るなど、ありえぬことだと。……ですが、降ったのです。たしかに、降ったのです」
リュートが、回すのをやめた帽子をぎゅっと握りしめた。若い副支部長の喉がごくりと動いた。
「副司教殿にも、お確かめは」
「ない」トゥルパンは首を振った。「神託は、一人の胸にのみ降ります。だが……」
老人は一度、言葉を切った。窓の外の白い空のほうへ目をやった。その先には、防壁の縁の向こうに大森林の暗い梢の連なりがある。
「だが、確かめる必要は、ないのです。賜った者にはわかる。これはまことの、語りの御方ナスレスク様の玉音だと」
部屋が、静まった。
マチルダは、卓の縁に指先を触れさせたまま動かなかった。その横顔には、グライスやリュートのような驚きがなかった。ただ聞いている。トゥルパンの言葉のひとつひとつを卓の上に並べ、重さを測っているような顔だった。
「司教殿」マチルダが言った。「神託の、中身を」
トゥルパンは、女伯に向き直った。そしてひと言ずつ、刻むように告げた。
「――大森林にて、異変あり」
誰も、すぐには動かなかった。
窓の外で、防壁の上を渡る風の音が、ひゅう、と細く鳴った。
「それだけ、ですか」グライスが眉を寄せた。「異変あり。それきり、ですか」
「それきりです」トゥルパンは頷いた。「御方は多くを語られませんでした。ただ、その言葉が胸の奥で何度も鳴り続けました。大森林にて異変ありと」
グライスは、口を引き結んだ。何百年も降らなかった神託が、よりにもよって、この街の背後の森について告げられた。それが何を意味するのか。衛兵隊長の頭の中で計算がはじまっているのが、傍目にもわかった。
マチルダが、初めて卓から手を離した。
ゆっくりと窓のほうへ歩み寄り、その縁に手を置いて、外を見た。北の窓。大森林の窓。
「リュート殿」と、女伯は外を見たまま言った。「ギルドの記録に、前に神託が降ったのはいつのことだと残っている」
リュートは、慌てて記憶を手繰った。
「は……正確なところは、支部長に確かめねば。ですが、私が見習いの頃に教わったのは……たしか、九百年ほど前、と」
「九百年前」マチルダが低く繰り返した。「そのとき、御方は何をお告げになった」
リュートの顔から、血の気が引いた。
その神託のことを紡遣者ギルドの者なら誰もが習う。だが、それを口にするのはめったにないことだった。あまりに不吉な記録だったからだ。
「……エルフの、出現を」リュートは声を絞り出した。「九百年前の神託は、エルフの出現を告げたと。そして、その神託が降った地では……ひとつの国が、滅びた、と」
部屋の温度が、ひとつ、下がった気がした。
エルフ。クロスやルセのような若い聖職者が、子供の頃に怖い話として聞かされる名。無貌魔を従え、人の言葉を操り、人を狩る化け物。だがそれは、もう何百年も誰も実物を見た者のいない、御伽噺の中の存在だった。
魔物は今もいる。無貌魔も、森の深くにはいるという。だがエルフは――エルフだけは、語り部の物語の中にしかいなかった。
「御伽噺だ」グライスが吐き捨てるように言った。だがその声に、力はなかった。「エルフなど、もうどこにもおらん。最後に出たという記録すら、数百年も前のことだ。あれは、母親が子を寝かしつけるための――」
「グライス」
マチルダが、窓を背にして、振り返った。
「あなたは、神託など何百年も降らぬとさきほど言った。その降らぬはずの神託がいま、この街に降った。御伽噺と、現に降った神託と、どちらを信じる」
グライスは、言葉に詰まった。岩のような男の顎が、固く動いた。
「……閣下は、これをまことと」
「まことかどうかを、私が選べる立場にはない」マチルダは静かに言った。「司教殿は長年、御方に仕えてこられた。その方が咽びながら、まことの声だと言う。私には、それを疑う材料を持たない」
女伯は、卓のほうへ戻ってきた。何も置かれていない卓の上に両手をついた。
「仮に、まことだとして」と、マチルダは自分自身に言い聞かせるように続けた。「九百年前と同じものが、この森から出てくるとして。シュトラーの防壁は、どこまで持つ」
グライスは、即座には答えなかった。
それが答えだった。
「……魔物の群れであれば」と、ようやく口を開いた。「ザハール様の代からの防壁だ。大伐開を三度しのいだ壁だ。並みのスタンピードなら撥ね返してみせる。だが」
「だが、エルフなら」
「エルフが戦をしかけてくるなら」グライスの声が低くなった。「持ちません。一国を滅ぼしたという相手だ。シュトラーの兵でしのげる相手ではない。……いや、シュトラーどころか」
シュトラーの守護を司る隊長は、そこで言葉を切った。だが、続きは誰の胸にも届いていた。
シュトラーどころか。この城塞都市が破れれば、その背後に広がるのは、マグナ王国の無防備な内地である。シュトラーは、王国を大森林から守る最前線の盾だった。盾が割れれば、王国そのものの興亡が危うくなる。
リュートが握りしめた帽子で額の汗を拭った。若い副支部長はもう笑おうとはしていなかった。
「ですが、閣下」と、リュートは縋るように言った。「我らだけで、凌ぐ必要はないのでは。神聖国の――アシェメルの、戦力を借りれば。彼の国には、御方の最も近くにある騎士たちが」
「そのとおりだ」マチルダは頷いた。「借りられるものは、すべて借りる。だが、借りるにはまず報せねばならない」
女伯爵は、リュートのほうへ向き直った。その目に、迷いはもう、なかった。
「リュート殿。ギルドへ戻り支部長に伝えなさい。足の速い者をただちに王都へ。近隣の街へも。神聖国への直通の魔道具は王都にしかない。一刻も早く届ければ、それだけ早く、御方の騎士たちがこの地へ向かってくださる」
「は……ただちに」
「事は急を要します」マチルダの声が、初めてわずかに鋭くなった。「神託が降ったのが昨夜なら、森の異変はもう始まっているかもしれぬ。走れる者から、走らせなさい。一日が、半日が惜しい」
リュートは帽子を頭に被り深く一礼した。そして扉のほうへ身を翻す。その足取りには、もう来たときの所在なさはなかった。扉が開き、廊下に控えていたルセの姿が一瞬見え、そして閉まった。
部屋には、マチルダと、グライスと、トゥルパンの三人が残った。
トゥルパンは、なお卓の手前に立っていた。震えはおさまっていたが、その顔には声を賜った者の咽びとその声が告げたものの重さとが、まだ混ざり合って残っていた。
「司教殿」マチルダが、その老人に声をかけた。今度の声は領主のものではなく、もう少し柔らかいものだった。「お疲れでしょう。ひと晩、眠っておられぬのでは」
「眠れますものか」トゥルパンは、ふっと笑った。覚悟を決めた顔の中に一瞬だけ、いつもの朗らかさが滲んだ。「御方のお声を賜った夜に眠れる者がおりますかな」
その笑みは、しかし、すぐに引いた。
老人は窓の外の、暗い森の梢のほうへもう一度目をやった。
「マチルダ様。ひとつ、お願いが」
「なんなりと」
「もし……万に一つ、この地で戦になるのなら」トゥルパンは、杖を握りしめた。「私は、聖堂を離れませぬ。逃げよと言われても、離れませぬ。御方のお声を賜ったこの身が、御方の家を捨てて、どこへ逃げましょうか」
マチルダは、その老人をしばらく見ていた。それから静かに頷いた。
「わかっています、司教殿。あなたは、そういう方だ」
女伯は、再び北の窓へ向き直った。
窓の外には、白い空と、防壁の縁と、その向こうの大森林の、果てのない梢の連なりがあった。森はいつもとなんら変わらぬ顔で横たわっていた。風に揺れる梢の影は穏やかで、どこにも異変の気配などないように見えた。
だが、その穏やかな緑のどこかで、何かがもう動き出している。
マチルダは、窓の縁を握る手に力を込めた。九百年、降らなかった声が、降った。それだけのことが、この街のいつもどおりの一日を二度と元には戻らぬところへ押し流そうとしていた。
領主は、長いあいだ、森を見ていた。




