影章 奈々未 019
名前が、呼ばれた。
「高原さん」
看護師さんが、私の名前を呼んだ。
「はい」
私は、立ち上がった。
凪も、立ち上がりかけた。
「いっしょに」
凪は、そう言いかけた。
「ご主人は、待合室で、お待ちください」
看護師さんは、ふつうの声でそう言った。
凪は、すこし止まった。
止まったまま、私を見た。
私は、凪を振り返った。
振り返って、すこしだけ頷いた。
大丈夫、と、その頷きで伝えたつもりだった。本当は、大丈夫ではなかった。それでも私は、凪を心配させたくなかった。
凪は、もう一度すこしだけ頷き返してくれた。
私は、看護師さんについて処置室のほうへ歩いていった。
処置室のドアが、私の後ろで閉まった。
閉まった瞬間に、私はひとりになった。
ひとりになった、というのが、その瞬間の私にはすこしこわかった。
それでも私は、壁の向こうに、凪がいる、ということを知っていた。
知っている、というのが、その時の私の、ぎりぎりの支えだった。
処置室で、先生はふつうの顔をして私を迎えてくれた。
「高原さん、お腹、痛いんですって?」
「はい」
「ちょっと、横になりましょうか」
私は、検診台のうえに横になった。
先生が、私のお腹のうえにジェルを塗った。
エコーの機械を、お腹のうえに当てた。
画面のほうを、私は見ていた。
見ていながら、私は心の中で、男の子につぶやいた。
動いて
ね、動いて
お願いだから、動いて
つぶやいた言葉に、画面のなかの男の子はしずかなままでいた。
先生が、画面のうえでエコーの機械をすこし動かした。
何度か、動かしていた。
それから、先生はしばらく何も言わなかった。
何も言わない時間が、その朝、私のなかでいちばん長い時間だった。
「高原さん」
先生は、ようやく私の名前を呼んだ。
「はい」
「⋯⋯赤ちゃん、心拍が、確認できないんです」
そう、先生は言った。
「えっ」
私は、答えた。
私の声が答えていた、というよりも、私の口が勝手に動いていた。
「もう一度、確認しますね」
先生は、もう一度エコーの機械を動かした。
何度か、動かしていた。
それでも、画面のなかの男の子はしずかなままだった。
「⋯⋯すみません」
先生は、そう言った。
私は、検診台のうえに横になったまま、しばらく何も言わなかった。
何も言えなかった、というほうが正しかった。
先生が、何かを言っていた。
その声が、私にはすこし遠かった。
遠い声のなかで、私は自分のお腹のうえに片手を置いた。
置いた手のうえで、男の子はしずかなままでいた。
しずかなままでいた、というのが、その瞬間、ようやく私のなかでちゃんとした意味を持った。
しずかなまま、というのは、もう動かない、ということだった。
動かない、というのは、もういない、ということだった。
私は、いない、ということを認めようとして、自分のなかで何かが止まった。
止まったまま、私はしばらく検診台のうえに横になっていた。
横になったまま、私は心の中で、その「ひとり」につぶやいた。
「⋯⋯ごめんね」
「私が、ちゃんと、産んであげられなくて、ごめんね」
「あなたの名前、まだ、呼んであげられてないんだよ」
「名前を、呼んであげる前に、あなたは、いなくなってしまうの?」
つぶやいた言葉に、男の子からの返事は、もうぜったいになかった。
その時、私のそばに凪はいなかった。
凪は、処置室の壁の向こう側の待合室にいた。
知らない人の前で、泣きたくはなかった。
凪がいてくれたら、私は泣けた。
泣きたかったのに泣けなかった、というのが、その時いちばん苦しかった。
それでも私は、壁の向こうに、凪がいる、ということを知っていた。
知っている、というのが、その時、私をぎりぎりでひとりにしなかった。
私は、病室に移された。
個室だった。窓のある、すこし明るい部屋だった。窓の外には、十一月の終わりの薄い空が見えていた。
凪が、私のベッドの横に座っていた。
私たちは、しばらく何も言わなかった。
何も言えなかった、というほうが正しかった。
しばらくして、看護師さんが入ってきた。
これからの手続きのことを、看護師さんはふつうの声で説明してくれた。ふつうの声を出してくれる、というのが、その時の私にはいちばんありがたかった。声がふつうじゃなくなると、私はその瞬間に、もう一度崩れた。
凪は、看護師さんの説明をぜんぶメモに取ってくれた。
メモを取る、というのが、ふだんの私の仕事だった。その日は、凪が私のかわりにメモを取ってくれた。
看護師さんが、部屋を出ていった。
私と凪が、二人で残った。
二人で、というのは、変な言葉だった。
ふだんなら、二人で、というのは、私とお腹のなかの男の子の二人だった。あるいは、私と凪の二人だった。三人になる予定だった私たちの家族が、その瞬間、また二人に戻った。
二人に戻った、ということが、私のなかでちゃんとわかるまでに、しばらく時間がかかった。
私は、自分のお腹のうえに、もう一度手を置いた。
置いた手のうえで、お腹はまだふくれていた。
ふくれている、というのが、その時の私にはいちばん辛かった。
なかには、もういない。
いないのに、お腹はまだふくれていた。
いない「ひとり」を、私のお腹はまだ抱えていた。
抱えていてくれた、というのが、その瞬間、私がぎりぎりで自分のなかに持てた、いちばんやわらかい考え方だった。
「凪」
私は、彼の名前を呼んだ。
「うん」
「ごめんなさい」
私は、そう言った。
言ったときの自分の声が、すこし震えていた。
「奈々未が、悪いんじゃないよ」
凪は、すぐに答えてくれた。
「奈々未が、悪いんじゃない」
凪は、もう一度繰り返した。
繰り返してくれた、というのが、その時の凪のいちばんの優しさだった。
それでも、私はもう一度言った。
「ごめんなさい」
「ちゃんと、産んであげられなくて」
「ごめんなさい」
そう、言った。
涙が、こぼれた。
こぼれた涙を、私はそのままにして、しばらく目を閉じていた。
凪は、何も言わなかった。
何も言わずに、私の手を握っていた。
しばらくして、私はもう一度口を開いた。
「凪」
「うん」
「あの子の、名前」
「うん」
「呼んで、あげられなかった」
そう、私は言った。
「名前を、呼んで、あげられなかった」
そう、繰り返した。
凪の顔が、しばらく止まった。
止まったあとに、凪はゆっくり答えた。
「俺たちで、ちゃんと名前をつけた」
「うん」
「奈々未のせいじゃない」
凪は、そう答えてくれた。
「うん」
私は、頷いた。
頷きながら、私の涙はまたこぼれた。
こぼれる涙のなかで、私は心の中で、お腹のなかの「ひとり」につぶやいた。
ごめんね。
あなたの名前を、お父さんと、私で、決めたのに。
私は、あなたの名前を、自分の口で、呼んであげる前に、あなたを、失ってしまった。
ごめんね。
つぶやいた言葉は、お腹のなかの「ひとり」に、たぶん届かなかった。
届かなかった、というのが、その時いちばん痛かった。
凪は、私の手を握ったまま、私の隣に座っていた。
しばらく、私たちは何も言わなかった。
何も言わない時間のなかで、私のなかにひとつだけ、はっきりとした考えが立ち上がっていた。
その考えを、私は自分のなかで確かめた。
男の子だった、ということを、凪に言うか言わないか。
それが、その時の私の考えていたことだった。
言うことが、ふつうの夫婦の形だった。
あの子、男の子だったんだよ
そう伝えれば、凪はもう一度すこし悲しんだ。いままで、男の子か、女の子か知らなかったのが、最後に知ることになる。最後に知る、というのが、凪をもうひとつ痛くした。
私は、凪をこれ以上痛くしたくなかった。
凪は、もう両親を失っていた。
そして、いま子どもも失った。
その凪に、男の子だったという事実をもうひとつ渡すことが、私にはできなかった。
渡すと、凪はすぐには立ち直れないかもしれない。立ち直れない凪を、私は見たくなかった。
私は、凪を立ち直らせたかった。
立ち直らせるためには、男の子だったということを、私がひとりで抱えるしかなかった。
ひとりで抱える、というのは、あのときから、私がずっとしてきたことだった。
「ふたりだけの秘密」を、私はずっと抱えていた。
その秘密が、いま本当に私だけの秘密になった。
なってしまった以上、私はそれを最後まで、ひとりで抱えていくしかなかった。
抱えていく、と、私はその瞬間、自分のなかで決めた。
決めた、というのが、その日の私のいちばん深いところで決まったことだった。
「凪」
私は、もう一度彼の名前を呼んだ。
「うん」
「名前は、呼んであげられなかったけど」
「うん」
「⋯⋯あの子は、ちゃんと、私のなかにいたよ」
そう、私は言った。
「ちゃんと、いたよ」
「ぜんぶ、覚えてるよ」
「あなたとふたりで、決めた名前、ぜんぶ、覚えてるよ」
そう、続けた。
「これから、あの子のこと、忘れないで、生きていこうね」
私は、そう凪に言った。
凪は、しばらく何も答えなかった。
それから、ゆっくり答えた。
「うん」
「忘れない」
「ずっと、覚えてる」
凪は、そう答えてくれた。
私たちはその日、それ以上その「ひとり」のことを話さなかった。
話さない、というのが、その時の私たちにできた、いちばんのことだった。
私だけが知っている、男の子のことを、私は自分の体のなかにちゃんとしまった。
しまったまま、私はベッドのうえで目を閉じた。
凪は、私の手を握ったまま、隣に座っていた。
夕方になって、私はすこしだけ眠った。
眠るあいだ、凪はずっと隣にいてくれた。
目を覚ますと、窓の外が暗くなっていた。
凪は、まだ私の手を握っていた。
「凪」
私は、彼を呼んだ。
「うん」
「ありがとう」
私は、そう言った。
「ずっと、いてくれて、ありがとう」
「うん」
凪は、答えた。
「いるよ」
「ずっと、いるよ」
そう、続けた。
夜になった。
凪は、いったん家に帰ることになった。
帰り際、凪は私のベッドの横で、しばらく立っていた。
「奈々未」
「うん」
「明日の朝、すぐに、来るから」
「うん」
「夜中、ひとりになるけど」
「大丈夫」
「⋯⋯本当に?」
「大丈夫です」
私は、答えた。
「凪も、家でちゃんと休んでね」
そう、続けた。
凪は、しばらく迷っていた。
迷ったあとに、彼はようやく頷いた。
「うん」
「行ってくる」
「うん」
「気をつけて」
凪は、病室を出ていった。
ドアが、閉まった。
ドアが閉まった瞬間に、私はひとりになった。




