影章 奈々未 018
葬儀は、家族葬で行うことになった。
決めたのは、凪だった。
報道陣が来るかもしれない。被害者の遺族が来るかもしれない。「父さんと、母さんが望む形ではない」と、凪は言った。私も、同じことを思っていた。
私たちは、葬儀社に電話をかけた。
凪が、電話で話した。
私はメモ帳を出して、凪が話す内容をメモに取った。日時。場所。金額。必要なもの。持っていくもの。ぜんぶ、メモに書いた。
メモを取る、というのが、その時期の私のいちばんの仕事だった。
メモを取らないと、いろいろなことが私のなかからこぼれた。こぼれる前に、私はメモ帳にぜんぶ書きとめた。
凪が電話を切ると、私はメモを凪に見せた。
「これで合ってる?」
凪は、確認した。
合っていた。
「ありがとう」と、凪は言った。
「うん」と、私は答えた。
お腹が大きかった。椅子に座っていると、テーブルとのあいだにお腹が当たりそうになった。すこし椅子を引いて座っていた。それでも私は、凪が電話している間、一度も席を立たなかった。
立てなかった、というほうが本当だった。立つと、私の体がその場で崩れる気がした。崩れる前に、私は椅子のうえにちゃんと座っていた。
座って、メモを取る、というのが、その時期の私のいちばんの抵抗だった。
連絡を入れる親族は、すくなかった。
凪の父方の祖父は、すでに他界していた。父方の親族は、不祥事のあと、連絡を避けるようになっていた。電話をかけても出ない親族がいた。
凪がいちばん最後に電話をかけたのは、佐和子さんのお姉さんだった。
帯広に住んでいる人だった。
電話で、凪は話した。
話しながら、声が何度も途切れた。途切れるたびにすこし間を置いて、続けた。
私は、隣で凪の手を握っていた。
握りながら、私は心の中で、凪につぶやいた。
ちゃんと、話せるよ。
私は、ここにいるよ。
つぶやいた言葉が凪に伝わったかどうかは、わからなかった。
それでも、たぶん伝わった気がした。
凪が話し終えると、叔母さんは「行くわ」と答えてくれた。
「行くわ」が、その日いちばんありがたい言葉だった。
来ると言ってくれたのは、叔母さんだけだった。
葬儀の日、来たのは五人だった。
私と凪。叔母さん。葬儀社のスタッフ。そして、弁護士。
五人で、二人を送った。
式場は、小さかった。家族葬用の、十人も入れば窮屈になる部屋だった。
椅子が、三列並んでいた。前の列に、私と凪が座った。後ろの列に、叔母さんが座った。弁護士は端の椅子に座って、書類に目を通していた。
祭壇のうえに、白い花が並んでいた。
菊と、百合だった。
花の匂いが、部屋全体に漂っていた。甘い、すこし重たい匂いだった。
私の前に、誠一郎さんと佐和子さんの遺影が置かれていた。
誠一郎さんの遺影は、誕生日の写真だった、と凪が教えてくれた。洋食屋でビーフシチューを食べている最中で、凪が「写真撮っていい?」と聞いたら「好きにしろ」と答えたときの写真。スーツを着て、すこし口角が上がっていた。ふだんの父さんの顔とはちがう顔だった、と凪は説明してくれた。
佐和子さんの遺影は、家族で出かけたときの写真だった。
佐和子さんが声を出して笑っている写真だった。口が開いていて、目尻が下がっていた。いつもの控えめな笑い方ではなくて、何かに本当に可笑しくなって笑っている顔だった。
私はその二枚の遺影を、式のあいだじゅう見ていた。
見ていながら、私のお腹に片手を置いていた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子はしずかにしていた。
しずかに、というのが、その日も、その「ひとり」からの私への優しさだった。
読経が、始まった。
低い声が、小さな部屋に響いていた。
凪は私の隣で、ずっと遺影を見ていた。
私も、見ていた。
見ていながら、私は心の中で、誠一郎さんと佐和子さんにつぶやいた。
お義父さん、お義母さん。
お腹のなかの、孫も、一緒に、ここに、います。
三人で、ここにいます。
ちゃんと、お見送りします。
つぶやいた言葉が誠一郎さんと佐和子さんに届いたかどうかは、わからなかった。
それでも、たぶん届いた気がした。
届いた気がした、というのが、その日の私のいちばんの心の支えだった。
式が、終わった。
叔母さんが、私のところに来てくれた。
叔母さんは私の手を取って、両手で包んだ。
その動作は、佐和子さんが私のお腹を両手で包んでくれたときの動作と、同じだった。
「佐和子は、幸せだったと思うわ」と、叔母さんは言ってくれた。
声が、震えていた。
「はい」
私は、答えた。
叔母さんの手は、佐和子さんの手と似ていた。
佐和子さんの手が、私の手をもう一度握ってくれているような気がした。
その気がした、というのが、その日の私のいちばんありがたい錯覚だった。
叔母さんは、凪を見た。
何か言いかけて、やめた。口がすこし開いて、閉じた。
それから、深く頭を下げた。
帰り際、叔母さんは凪に近づいてきた。
「一人で、抱えないで」と、叔母さんは言った。
声が、震えていた。
「佐和子の分まで、幸せになって」
凪は「はい」と答えた。
それ以上、言葉が出なかった。
私は、凪の隣で頭を下げた。
下げながら、私は心の中で、叔母さんにつぶやいた。
ありがとうございます。
佐和子さんの分も、ちゃんと、生きていきます。
つぶやいた言葉は、叔母さんには届かなかった。
それでも、私のなかで、その言葉はちゃんと形を持っていた。
葬儀からしばらくのあいだ、私たちはふつうの暮らしを続けようとしていた。
ふつうの暮らし、というのが、その時期の私たちにはいちばん難しいことだった。
凪は毎日、製薬会社の仕事に行った。私は毎日、NPOの仕事に行った。家に帰ると、「ただいま」と「おかえり」をふつうに言い合った。ふつうの動作だけを、私たちはぎりぎりで続けていた。
ふつうの動作の外で、いろいろなことが起きていた。
凪の実家のことは、弁護士さんと何度も話していた。相続のこと。会社のこと。佐和子さんと誠一郎さんが残してくれたものの整理。私にはよくわからないことが、たくさんあった。それでも凪が、ひとつずつ決めていった。決めるたびに、凪の顔から笑いがすこしずつ消えていった。
私はその時期、毎晩凪の顔を見ていた。
見ながら、私は心の中でつぶやいていた。
凪、ちゃんと、生きていてね。
つぶやいた言葉を、口に出さなかった。
口に出すと、凪はすこし苦笑した。苦笑も、その頃の凪にはすこし辛い表情だった。だから、私はつぶやかなかった。
つぶやかないかわりに、私は毎日、凪にふつうに「おかえり」を返した。
「おかえり」だけが、その時期の私のいちばんの祈りだった。
私のお腹のなかの男の子は、毎日すこしずつ大きくなっていた。
予定日まで、あと二週間とすこしだった。
検診のたびに、先生は「順調に育っていますよ」と言ってくれた。順調という言葉が、その時期の私のいちばんの光だった。
凪も、その「順調」をちゃんと聞いてくれた。
聞いて、凪はすこしだけ笑ってくれた。
その笑いが、その時期の凪のいちばん本当の笑いだった。
十一月の二十日を過ぎた頃の、ある朝のことだった。
私はいつもよりすこし早く目を覚ました。
目を覚ましたとき、私のお腹がすこし重かった。
重い、というのは、ふつうの妊娠後期のふつうの重さだった。ふつうの妊娠後期は、たいていこういう重さだ、と私は自分のなかで確かめた。
確かめながら、私は布団から出ようとした。
出ようとして、お腹にすこし違和感を感じた。
違和感が何かは、自分でもよくわからなかった。
それでも私は、いつも通り台所に立とうとした。
凪に、朝のコーヒーを淹れる、というのが、その時期の私のいちばん大事な、朝の仕事だった。コーヒーを淹れている台所で、凪が起きてくる。私は「おはよう」と言って、凪にコーヒーを渡す。それが、いつもの朝だった。
その朝は、ちがった。
台所に立とうとして、私はお腹に、すこしずつ重たい痛みがたまっていくのを感じた。
痛みのなかで、私はコーヒーを淹れることができなかった。
カップを出すことも、できなかった。
やかんに水を入れることも、できなかった。
私は、ダイニングテーブルの前の椅子に座った。
座って、両手をテーブルのうえに置いた。
置いた手のうえで、私は自分のお腹に、もう一度心を向けた。
ふだんなら、その「ひとり」は、私がお腹のうえに手を置くと、すぐにすこし動いてくれた。「いるよ」と、伝えてくれた。
その朝は、動かなかった。
「いるよ」を、私は心の中で何度か確かめようとした。
確かめようとして、お腹のうえに片手を置いた。
押しても、お腹のなかの男の子はしずかにしていた。
しずかに、というのが、その朝の私には、ふだんとはちがうしずかさだった。
ふだんのしずかさは、男の子がすこし眠っている、しずかさだった。
その朝のしずかさは、すこしちがっていた。
ちがっていた、というのが、私の体がいちばん先にわかっていた。
それでも、私はその「ちがう」をまだことばにできなかった。
ことばにする前に、お腹の痛みだけがすこしずつ強くなっていった。
凪が、台所に入ってきた。
「おはよう」
凪は、ふつうの声で言った。
それから、テーブルの前に突っ伏すように座っている私を見た。
コーヒーの用意もできていない台所を、見た。
凪の動きが、すこし止まった。
「どうした」
凪は、私の顔を見ながら聞いた。
「⋯⋯なんでもない」
私は、答えた。
答えた自分の声が、いつもの声とすこしちがった。
「顔色が、悪いよ」
凪は、そう言った。
凪は、私の顔色がいつもとちがうことに、すぐ気づいた。
私は、何も答えられなかった。
「痛いか」
凪は、聞いた。
私は、すこし間を置いて頷いた。
「どこが」
「⋯⋯お腹」
私は、答えた。
答えたあとに、私は自分の体がすこし震えていることに気づいた。
その瞬間、凪のなかで何かが切り替わったのが、わかった。
凪は、すぐに産院に電話をかけた。
凪の電話の声を、私はソファに座って聞いていた。
凪は、ふつうの声で産院に状況を説明していた。ふつうの声を、彼が出していた、というのが、その朝の凪のいちばんの強さだった。
電話を切ると、凪は私のところに戻ってきた。
「いまから、来てください、って」
「うん」
「タクシー、呼ぶ」
「うん」
凪は、タクシーを呼んだ。
タクシーを待っているあいだ、私はソファの上で、お腹のうえに両手を置いていた。
置いた手のうえで、私は心の中で、男の子につぶやいた。
「動いてくれる?」
「『いるよ』って、伝えてくれる?」
つぶやいた言葉に、男の子からの返事はなかった。
ない、というのが、その朝の私の体に、いちばん大きな痛みだった。
痛みを、私はまだちゃんと認められなかった。
認めると、私はその場で崩れた。
崩れる前に、私は自分のお腹に、もう一度つぶやいた。
「もう少しだけ、待って」
「産院に、ついてからね」
「先生に、診てもらってからね」
「いま、しずかに、しててもいいから」
「あとで、また、動いてね」
そう、つぶやいた。
つぶやいた言葉に、男の子はしずかなままでいた。
タクシーが、来た。
凪が、私を支えながら家を出た。
エレベーターで、五階から一階まで降りた。
エレベーターのなかで、私はずっとお腹のうえに片手を置いていた。
「動いて」
私は、心の中でつぶやいていた。
「ねえ、動いて」
「お願いだから、動いて」
つぶやきながら、私の声は自分のなかで、すこしずつお願いの形になっていった。
つぶやきは、お願いになっていた。
お願いを、私はいつから自分のなかでしはじめたのか、自分でもわからなかった。
それでも、お願いをするくらいしか、その朝の私にはできなかった。
お願いをしながら、私はタクシーの後部座席に乗った。
凪が、隣に座った。
タクシーが、走り出した。
走り出したタクシーのなかで、私は凪の手を握っていた。
凪の手は、温かかった。
凪の手の温度が、その朝、私が唯一ちゃんと感じられたものだった。
産院につく。
タクシーを降りて、受付に行った。
受付の人は、ふつうの顔で私の名前を確認してくれた。ふつうの顔をしてくれる、ということが、その時の私にはありがたかった。
私たちは、待合室に通された。
待合室には、ほかにも何人かの妊婦さんが座っていた。
みんな、お腹が大きかった。
お腹が大きい人たちのなかで、私はいちばん奥の椅子に座った。
凪が、隣に座った。
私は、自分のお腹のうえに両手を置いていた。
置いた手のうえで、男の子はまだしずかにしていた。
待合室の壁に、写真が貼ってあった。
産院で生まれた赤ちゃんたちの写真だった。生まれたばかりの、まだ小さな赤ちゃんたちの写真だった。
それぞれの写真の下に、赤ちゃんの名前と生まれた日が書いてあった。
私は、その写真をしばらく見ていた。
見ていながら、私のなかでぼんやり思った。
この壁の、すこし下のところに、私のお腹のなかの子の写真も、もうすぐ貼られるはず。
男の子の写真。
名前は、決まっている。
私と、凪と、男の子と、三人で笑っている写真。
そう思った。
思いたかった、というのが本当だった。
思いたかった、というよりも、思わないと私が立っていられなかった。
私は、自分のお腹に、もう一度つぶやいた。
「あなたの写真も、ここに、貼ってもらおうね」
「そのために、いま、しずかに、しているだけだよね」
「ね?」
つぶやいた言葉に、男の子はしずかなままでいた。




