影章 奈々未 017
その夜、私たちはご飯を食べていた。
ご飯は、私がすでに作っていた。
午前中の、まだ紙が来る前に、私はいつも通り夕食の準備をしはじめていた。途中で、半休のあいだにポストを見に行こうとして、あの封筒を見つけた。
封筒を見つけたあとも、私は夕食の続きを作った。
作ったのは、ふつうの動作を続けないと、私が止まる気がしたからだった。ふつうの動作は、止まらないでいるための、いちばんの仕事だった。
その夕食を、その夜、私たちは食べた。
味噌汁。さばの塩焼き。きんぴらごぼう。お米。
特別なものは、なにも入っていなかった。
特別なものを入れずに、ふつうのものだけで、私たちは夕食を食べた。
凪は、ふつうに箸を取った。
ふつうに、食べた。
食べながら、たまに凪は私の顔を見た。
見られているのが、わかった。
見ながら、凪は何も言わなかった。何も言わずに見ていてくれる、というのが、その夜、私にはいちばんちょうどよい温度だった。
私も、ふつうに食べた。
ふつうに食べる、というのが、その夜の私の、いちばん大事な仕事だった。
お腹のなかの男の子に、ちゃんとご飯を届けたかった。
届けるためには、私がちゃんと食べる必要があった。食べないと、お腹のなかの男の子に栄養がいかなかった。その夜の食事は、ふだんより、すこしお腹のなかの男の子のための食事に近かった。
食べているあいだ、私はたまに自分のお腹のあたりを触った。
触ると、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
動いた、というのが、その夜の「いるよ」だった。
「いるよ」を、私は何度か確かめた。
確かめながら、私はその夜、ふつうにご飯を食べ終えた。
食べ終わってから、私たちはソファに座った。
ソファのうえに、二人で並んで座った。
凪は、私の手をもう一度取った。
取った手を、自分の手のなかに包んだ。
私たちはしばらく、何も言わずにソファのうえに座っていた。
部屋の電気を、つけたままでいた。
九月の終わりの夜の外の暗さが、窓のガラスに映っていた。窓のなかに、私と凪がソファに座っているのが、ぼんやり映っていた。
その窓のなかの私たちを、私はしばらく見ていた。
見ていながら、私はすこしだけ考えた。
窓のなかには、私と、凪と、お腹のなかの男の子が、ぜんぶ映っているはずだった。お腹のなかの男の子は見えなかった。それでも、私のお腹のなかにいるのは、その窓のなかにも映っていた。
映っているのが、見えないだけだった。
見えないものを、私は心の中で確かめた。
確かめながら、私は心の中で、お腹のなかの男の子につぶやいた。
「お父さんが、明日警察に行ってくれるからね」
「明日のあいだ、また、ふたりで、お父さんを、待っていようね」
「夜には、お父さんが帰ってくる。三人に戻る」
「三人で、いるということを、私たちちゃんと続けていくからね」
そう、つぶやいた。
つぶやいた言葉は、お腹のなかの男の子に、ちゃんと届いた。
届いたのが、私の手のうえで男の子がすこし動いたからわかった。
動きを、凪もたぶんわかった。
凪が、自分の手を私のお腹のうえに、そっと置いた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がもう一度動いた。
二人ぶんの「いるよ」を、男の子は受け取って、二人ぶんの「ここにいるよ」を返してくれた。
その夜、私たちはしばらく、その姿勢のままでいた。
警察に被害届を出してから、二週間ほどが経った。
二週間のあいだに、嫌がらせは止まらなかった。
電話は、毎日何件かかかってきた。郵便受けにまた何かが入っている日もあった。被害届を出した、ということが、私たちの暮らしをすぐには変えてくれなかった。
それでも、私たちはふつうに、毎日暮らしていた。
凪は毎日、仕事に行った。私は毎日、NPOに行った。仕事に行く、というのが、私たちのいちばんの抵抗だった。仕事に行かないでいると、私たちは家の中ですこしずつ崩れていった。崩れないために、私たちは毎日ふつうに家を出て、ふつうに家に帰った。
そのあいだ、お腹のなかの男の子は、毎日すこしずつ大きくなっていた。
予定日まで、あと一月と少し。
その一月と少しを、私たちは三人でちゃんと迎えるつもりだった。
迎えられるかどうかは、わからなかった。それでも迎えるつもりで、私たちは毎日暮らしていた。
十月の十二日の夜だった。
その日は、体が重い日だった。妊娠の後期に入って、お腹がふだんよりずっと目立つようになっていた。歩くのがすこし辛くなっていた。NPOの上司が「奈々未さん、もう、早めに帰っていいから」と言ってくれた。私はありがたく受け取って、いつもより早く家に帰っていた。
夜になって、凪も帰ってきた。
私たちは、夕食を食べた。
食べ終わって、凪はソファに座っていた。テレビもつけずに、ぼんやりしていた。
私は、台所で食器を片付けていた。
流し台で水の音を立てながら、私はぼんやりと、明日のことを考えていた。
考えていると、凪の携帯電話が鳴った。
凪が、携帯を取った。
「もしもし」
凪の声が、聞こえた。
「⋯⋯母さん」
凪の声で、私は相手が佐和子さんだとわかった。
私は、すこし不思議に思った。
佐和子さんから電話がかかってくるのは、ふつうの時間帯ではなかった。佐和子さんはたいてい、お昼の時間に電話をかけてきた。それも私の携帯にかけてきて、「奈々未ちゃん、いまお時間あるかしら」と、電話の最初にふつうの声で言ってくれた。
その日の電話は、夜の八時すぎだった。
しかも、凪の携帯にかかってきていた。
私は、食器を片付ける手をすこし止めた。
止めて、凪の声を聞いていた。
「うん」
「元気だよ」
「奈々未も、元気」
凪は、ふつうの声で答えていた。
それでも、その「ふつう」のなかに、すこしおかしなものが混ざりはじめていた。いつもの母子の電話と、何かがちがう。それが私のなかで、ぼんやり立ち上がっていた。
「⋯⋯母さん?」
凪の声が、すこし変わった。
私は、台所からリビングのほうを見た。
凪はソファに座ったまま、携帯を耳に当てていた。背中がすこしこわばっていた。
途切れ途切れに、凪の言葉が聞こえてきた。
「大切にって⋯⋯うん」
「ありがとうって⋯⋯母さん、どうしたの」
「生まれてきてくれたって⋯⋯なに、急に」
その言葉のひとつひとつが、私の耳に断片で届いた。届いた断片は、私のなかでひとつのいやな予感になっていった。
予感を、私はその場で押さえようとした。
押さえないと、私はその場で何かを聞いてしまった。
「⋯⋯また来週」
凪は、最後にそう言った。
それから、電話が切れた。
切れたあと、凪はしばらく携帯電話を手のなかに握っていた。
握ったまま、ソファのうえでじっとしていた。
私は、台所から凪のところに歩いていった。
「凪」
「うん」
「お義母さん、なんて?」
私は、聞いた。
凪は、すこし間を置いてから答えた。
「元気か、って」
「うん」
「奈々未さんを、大切にね、って」
「うん」
「俺に、ありがとう、って」
凪は、そう言った。
言いながら、凪の顔がすこしずつ、不思議そうな顔になっていった。
「生まれてきてくれて、ありがとう、って」
「⋯⋯うん」
「なんか、急に、そんなことを、言うから」
凪は、そう続けた。
私はその言葉を聞きながら、自分のお腹のうえに手を置いた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
「いるよ」を、私は確かめた。
確かめながら、私のなかで、いやな予感がすこしずつ大きくなっていった。
何かが、おかしかった。
それでも、私はその「おかしい」をすぐには認められなかった。
認めると、私のなかで何かが、すぐに立ち上がった。
電話のあと、凪はしばらくソファに座ったまま、自分の携帯電話を見ていた。
それから、メッセージを打った。
「父さんと母さんに、メッセージ送っておく」
凪は、そう言った。
打って、送った。
送ったあと、私たちはしばらくリビングで返事を待った。
返事は、来なかった。
凪は、もう一度佐和子さんに電話をかけ直した。
呼び出し音が、何度も鳴った。
出なかった。
誠一郎さんにも、かけた。
これも、出なかった。
「もう遅いから寝てるのかもね」
私は、そう言った。
言いながら、自分の声がすこしだけ震えていた。
凪は、しばらく携帯を見ていた。
「⋯⋯うん。明日またかけてみる」
凪は、そう答えた。
その夜、私たちはいつもより長く、ソファに座っていた。
座りながら、私は自分のお腹のうえに手を置いていた。
「いるよ」を、お腹のなかの男の子は何度か伝えてくれた。
「いるよ」を、私は何度も確かめた。
確かめながら、私は心の中で、その「ひとり」につぶやいた。
「ばあばが、なんだかいつもとちがったんだよ」
「明日、きっとふつうに、電話に出てくれるよね」
つぶやきながら、私の声は自分のなかで、すこしだけ震えていた。
その夜、いやな予感だけが家のなかに残った。
残った予感を、私はまだことばにできなかった。
翌朝、凪はいつも通り会社に行った。
行く前に、もう一度佐和子さんに電話をかけた。
出なかった。
「会社からもかけてみる」
凪は、そう言って家を出た。
私は、家で待っていた。
お腹が大きかった。歩くのが辛かった。それでもその日は、家のなかを落ち着かない気持ちで行ったり来たりしていた。
お昼を過ぎても、凪からも佐和子さんからも、連絡はなかった。
私は、自分のお腹に手を置いて待っていた。
待ちながら、私は心の中で、佐和子さんにつぶやいていた。
ふつうに、電話に出てください。
お義母さん、お願いだから、ふつうにいてください。
つぶやいた言葉に、佐和子さんからの返事はなかった。
凪から電話がかかってきたのは、午後の二時をすこし過ぎた頃だった。
私は、携帯を握って出た。
「凪」
「⋯⋯奈々未」
凪の声が、聞こえた。
その声は、これまで私が聞いたことのない声をしていた。
「いま、実家に、いる」
凪は、そう言った。
凪は会社を早退して、ひとりで実家に向かったのだと、その声の向こうから私にはわかった。
「凪」
「うん」
「お義父さんと、お義母さん」
「⋯⋯うん」
凪は、しばらく何も言わなかった。
何も言えなかった、というほうが正しかった。
「亡くなってた」
そう、凪はようやく言った。
「リビングの、テーブルのうえに、封筒が、ふたつあって」
「ひとつは、俺宛で」
「もうひとつは、奈々未宛だった」
凪は、そう続けた。
私は、ソファに座った。
座らないと、その瞬間に私は立っていられなかった。
座って、私は自分のお腹のうえに片手を置いた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
動いた、というのが、その瞬間の私への、いちばんのことばだった。
「いるよ」と、その動きは私に伝えていた。
「いるよ」を、私は確かめた。
確かめながら、私はしばらく何も言わなかった。
電話の向こうで、凪も何も言わなかった。
ふたりとも、何も言わない時間が、しばらく続いた。
その時間のなかで、私は心の中で、佐和子さんにつぶやいた。
昨夜の電話は、これだったんですね。
「奈々未さんを、大切にね」って、「ありがとう」って、これだったんですね。
つぶやいた言葉に、佐和子さんからの返事は、もうぜったいになかった。
「凪」
私は、ようやく口を開いた。
「うん」
「ひとりで、行かせて、ごめんね」
そう、言った。
「いいんだ。奈々未は、家にいて」
「うん」
「いま、いろいろ、手続きをして、それから帰る」
「うん」
「⋯⋯気をつけて、帰ってきてね」
私は、そう答えた。
凪が家に帰ってきたのは、その日の夜だった。
凪は鞄から白い封筒を出して、私に渡した。
封筒の表に「奈々未さんへ」と書いてあった。
佐和子さんの字だった。
私はその封筒を、しばらく手のなかに持っていた。
すぐには、開けられなかった。
開けると、私のなかで何かがその場で崩れた。
崩れる前に、私はその封筒を自分の胸に、すこしだけ押し当てた。
押し当てながら、私は心の中で、佐和子さんにつぶやいた。
ありがとうございます。
ちゃんと、読みます。
つぶやいた言葉に、佐和子さんからの返事は、もうなかった。
凪は、私の隣に座った。
座って、私の手を取った。
凪の手は、冷たかった。
冷たい手のなかで、私はしばらく何も言わなかった。
凪も、何も言わなかった。
ふたりとも、何も言わない時間のなかで、私は自分のお腹のうえに、もう片方の手を置いていた。
置いた手のうえで、お腹のなかの男の子がすこし動いた。
「いるよ」を、私は確かめた。
確かめながら、私は凪の手をぎゅっと握り返した。




